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「お兄さん、1ヶ月オレを飼わない?」
ふわふわの白い頭、くっきりとした二重瞼、すっとした鼻筋、アヒル口。
さぞイケメン犬に違いない。
でも彼はあきらかに立派な青年だ。
「…わかったよ。1ヶ月な」
まさかそんな青年を飼うことになるなんて。
昨日まで、板野智也は夢にも思っていなかった。
板野は、都内1Kアパートに住む二十五歳のサラリーマン。医薬品会社の営業課に勤務し、今年で三年目になる。
「夏のビールが美味い…」
季節は七月の中頃。半袖シャツの格好にも慣れてきた。
金曜の夜になると、板野はビールとつまみを買い込み、一人で深夜バラエティを見る。
「着替えもせずに、気がついたら深夜って…ま、金曜日だからいいか」
一人暮らしは就職をしてから始めた。三年経てば、独り言を話すのも、当たり前になっている。
「ぼちぼちシャワー浴びて、寝るか…」
席を立って、テレビを消す。こうして一夜はふけていく。ありふれた金曜日になるはずだった。
ピンポーン、ピンポーン。
時計は深夜一時、来客の予定はない。よもやチャイムが鳴るような時間でもない。
ピンポーン、ピンポーン。
「誰だ…?」
室内側のインターホンは画面も音声も壊れたままでびくともしない。
ピンポーン、ピンポーン。
無視をしようと思ったが、チャイムは鳴り止む様子がない。このままでは近所迷惑だ。
一応、チェーンをかけてから、ドアを開けた。
すると、白い頭が目に飛び込んできた。ふわふわとした髪質は、まるで白い犬の毛。
目線を下にすると、綺麗な双眼の青年が、板野をまっすぐ見つめている。
「誰…?!」
これが迷子の小型犬なら可愛い。実際はどう見ても立派な青年。奇抜な頭をしたスレンダー体型の大学生に見える。
白いTシャツにジーパン、サンダル。手にはコンビニのビニール袋を下げていた。
「友だちと部屋間違えました?」
返事がないまま、青年はビニール袋から小さな紙を取った。そのままチェーン越しに紙を見せる。
犬が迷子札を渡すような錯覚を覚えたのは、それが名刺だったから。ただ、迷子札にしてはあまりに過激なものだった。
ー男性向け、デリバリーヘルス、シロ
「…は?」
シロ、と名乗った青年はそのままじっと板野を見つめている。
呆気にとられたが、人違いには違いないと板野は我に返る。
「あ、いや、頼んでませんけど…」
「…部屋違ったかな」
はじめて声を発した青年ーシロは、ため息をついた。そして、ポケットからスマホを取り出した。
「202」
「それは…隣ですね」
「…すいません」
頭を下げたシロは耳を下げているようだった。
「…あの!!」
そのまま隣に向かおうとするシロに板野は、思わず声をかけた。
ぴくっと身体を反応させたシロが板野を見る。何度見ても不思議と吸い寄せられる瞳をしていた。
「その両腕、何の跡?」
名刺を見せられた時から気になっていた。
シロの両腕には何かに縛られたような跡がくっきりとある。
「そう言うプレイをするお客さんがいて。たぶん、隣の人もそうかな」
図らずも隣人男性の性癖を知ってしまったと頭を抱えた板野を見て、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
「お兄さん、面白いね」
「…どこがだ?」
思わず板野の眉間に皺が寄ったが、シロは気にも止めていなかった。
「オレは別に大丈夫だから、行くね」
笑って行こうとするシロから板野はまた目が離せない。気がつくとチェーンを外して、シロの腕を掴んでいた。
「なに?」
きょとんとしたシロに板野がどう声をかけようか迷っていると、ガチャガチャと隣のドアを開ける音がした。隣人がシロに気づいたのかもしれない。
板野は強く腕を引いて、シロを玄関に招き入れた。
「…お兄さんも、サービス受けたくなった?」
断じて違うのだが、板野自身もシロをなぜ引き止めたのか、うまく言葉にできなかった。
「サービスはいらない」
首を傾げたシロは、板野をまっすぐ見ていた。板野は腕を組んで、シロに対した。
「君は大学生…だろ?こんな仕事してないで、きちんとしたアルバイトをした方がいい」
「お兄さんって、おせっかいって言われない?」
シロの言う通りだ。見ず知らずの若い青年にいきなり説教をするなんて、おせっかいにも程がある。だが、これは板野の性分だった。
「自覚はある。俺は気になったら放って置けないんだ」
「お兄さん、お人好しとも言われない?」
「だからなんだ?君はなんでそんな嬉しそうなんだ?」
シロは機嫌を悪くするどころか、アヒル口を綻ばせている。
仕事柄、やはり性癖なのだろうかと板野は眉を顰めた。その顔を見たシロはまた笑った。
「お兄さん、わかりやすいね。言っとくけど、別に異常な性癖じゃないよ」
「いや、仕事が異常だろう」
「それはそうだけど…」
シロが何かを言おうとした瞬間、シロのお腹が鳴った。
「…上がって何か食べるか?」
黙ったままのシロはまた板野を見つめている。
「期待するように目を輝かせても、大したものはないからな」
「おじゃまします」
まるで犬のようにしっぽを振ったシロは板野の後を着いていった。
板野がお湯を入れたカップラーメンを出すと、シロはテーブルの前で正座をした。
カップラーメンをじっと見つめたまま、三分待っている。
「仕事、大丈夫なのか?」
「今更?」
カップラーメンを見つめたまま、シロが答えた。
板野は冷蔵庫からビールを出した。
ベッドに座り、プルトップを開ける。
思わぬ来客に酔いは一気に覚めていた。
「仕事はクビになると思う」
ぐいっとビールを飲むとシロがこちらを見ていた。
「お兄さんはなんでオレに声をかけたの?」
板野は白いくるくるふわふわの頭を見る。
「白い犬に見えたからかな…」
「犬?」
「俺が大学生の頃、拾おうとしたけどやめた白い小犬がいた。家までついてくるんで、飼おうか本当に悩んだけど、家の事情もあって飼わなかった。あの後、犬は玄関先で何時間か俺を見てたんだけど、日が暮れたらいなくなって、気になってたんだ」
「それだけ?」
あの時の気持ちに似ていたから声をかけたのは事実だったが、それだけの理由では説得力はないだろう。
「さっきも言ったけど、気になると放っておけない性分なんだ。自分より年下の人を見ると、尚更放っておけない。八歳年下の妹がいて。昔いろいろ大変で過保護って言われるぐらいに面倒見てたこともある。今はさすがに妹も高校生で、俺も社会人だからうざがられたくなくて我慢してるけどな」
自分の性格は把握できているつもりだ。まさかこんな風に勢いで見知らぬ青年を招き入れるとは思わなかったけれど。
「そうなんだ」
シロの顔つきに変化がないが、なんだか嬉しそうに尻尾を振っているように見えた。
「なんだ?さっきから嬉しそうに。シスコンとか言ってからかわないのか?」
同僚に妹の話をする度に板野はからかわれている。
「からかわないよ。オレ、他人に真剣に叱られたの、初めてだから。妹さんが羨ましい」
「やっぱり性癖が…」
「違うって。オレのことちゃんと思って怒ってくれる人って、貴重だと思ったってこと。だから嬉しい」
「うざい大人だって思われなくってよかったよ」
「オレにとってはうざくない。お兄さんは優しい人だよ」
「…ラーメン伸びるぞ。早く食べろよ」
いい大人が何を照れてるんだと板野はまたビールに口をつけた。
初対面でこんな風に自分のことを言ってくる人ははじめてだ。
板野はシロの背中を見ながら、あの日、追いかけてきた白い小犬を思い出していた。
板野はふわふわした白い子犬を抱きしめていた。
大学生の頃に出会ったあの白い子犬が今、自分の胸の中にいる。温かくて幸せな気持ちになる。
大学生の時だけが大きなきっかけじゃない。本当はずっと犬を飼って見たかった。でも飼ったら、大変なのがわかっているから、ずっと我慢していたのだ。
今なら時間もお金もある。今なら大切にしてやれる。さあ、可愛い白い子犬を胸の中でぎゅっとしよう。
「ん?なんか、めちゃくちゃデカくないか?しかも、人間の形をしてる…?!」
「お兄さん、オレだよ。ぎゅってしてよ」
「なんだよ!シロ!お前、耳と尻尾が!」
ギョッとしている板野に尻尾をぶんぶん振って抱きついてきた。
「うわあああ!!」
板野は体を起こしながら、目を覚ます。目の前にふわふわの髪があった。しかも首が両手でホールドされて動けない。
「まだ夢なのか?」
「う、うーん…まだ眠い」
胸のあたりにある白い頭が動いた。そして、板野を見上げている。
「…ん?お兄さん?」
「な、な、なんでシロが俺のベッドに?!」
「もう遅いから泊まってけって言ってくれた」
「そうだけど、俺は床にいたはずじゃ…」
「気がついたら、オレ抱きしめて、寝てたよ?」
どうやら板野は無意識にベッドに戻ったようだ。
「なんでお前が俺に抱きついて寝てるんだ?!」
「逆だって。お兄さんが俺に抱きついたの。安心するからじゃないかな。人と眠ると、あったかくて安心するから」
シロにぎゅっと抱きつかれて、不思議と嫌な気持ちにはならなかったのは、そのままの意味だろうか?しかし、板野に男同士で抱き合う趣味はない。
「起きろ!ていうか、Tシャツにパンイチって!」
「ジーパン暑いし」
「ズボンを着て寝ないと冷房で腹を壊す!」
「えー」
「えーじゃない。離れてくれ、変えの下着と洋服を貸すから」
板野がそう言うと、しぶしぶシロは首に回していた手を離した。
ようやく息苦しさから解放された板野はベッドから立ち上がった。
そして、自分が昨日の格好のまま寝てしまったことに気づく。昨夜の出来事は夢じゃなかったのかー
ベッドでまだ微睡んでいるシロを見ながら、実感した。
先にシロにシャワーを浴びさせて、板野はTシャツとハーフパンツに着替えた。
テーブルの片付けも済ませて、脱衣所にシロ用の着替え一式を用意した。
時間がまだあったので、軽い朝食を二人分作った。
脱衣所から出てきたシロは髪の毛が半乾きのまま。身体も綺麗にふいているとは言えない。
眉間に皺を寄せている板野に、シロはきょとんとする。
「なに?」
「床に雫が垂れてる」
「あ…」
「ったく!」
下ぶきをした後、シロの腕を引っ張って脱衣所に向かう。見えるところの身体をまずは拭いてやり、髪の毛を乾かすところで、身長差的に座ってもらわないとできないと気づく。
「…座れ」
言われるがまま、シロはリビングの床に座った。体育座りをしたシロの後ろから板野はドライヤーをかけた。
「風あつい…!」
「我慢しろ!ったく、いくつだよ。こんなの妹が小学生以来だぞ」
「だってめんどくさいから」
「髪はわからなくないけど、身体はちゃんと拭け、ちゃんと!」
「はーい」
呑気なやつだ。そもそも昨夜あったばかりの見知らぬ年上の男性にここまで心を許しているなんて。職業柄?それとも性的嗜好の問題?
同時に板野自身も出会ったばかりの若い青年に甲斐甲斐しく世話をしていることに気づく。
久しぶりに誰かに何かをする喜びを感じているって、どれだけ、世話焼きでお人好しなんだよ、俺。
「ふわふわになったぞ」
「ありがとう、お兄さん」
「ご飯できてるけど、食べるか」
シロは板野をまたじっと見つめている。
「だから、その爛々とした瞳はなんだよ。餌を待つ犬か!」
思わず突っ込むと、シロは嬉しそうに笑っている。
「お兄さんはやっぱり優しい」
「世話焼きでお人好しなだけだよ」
「それもすごい世話焼きとお人好し。オレ以外にもこんなことしたことあるの?」
「まあな」
「知らない人を拾う趣味があるのか」
「そっちじゃない!彼女だよ、彼女」
「彼女いるんだね」
顔は変わらないが、声が心なしか小さかった気がして、板野は声をかけた。
「どうした?」
「別に」
「なんかあるだろ」
「…オレ、あんまり顔に出ないのによくわかるね」
「昔から妹をよく観察してたからかもしれない」
「そうなんだ」
板野はテーブルにトーストと目玉焼きとベーコンを二人分持ってきて、シロの斜めに座った。
「ご飯食べながら話そうか」
頭をぶんぶんと縦に振って、シロがごくんと喉を鳴らすのがわかった。
「さっき、彼女が羨ましいなって思った」
「どうして?」
「こんなに尽してもらえる彼女羨ましい」
「そうか?」
「そうだよ」
パクパクとホークを使いながら食べるシロは左手を床につけて食べている。
「こら、下に手を置かない!見た目は大人なのに、中身はいくつなんだ?」
黙ったまま、シロは下に置いていた左手をテーブルに置いた。
「しつけられてるみたい」
「そのままの意味だろ。ほら、口にもついてる。ちゃんとふけ」
板野がティッシュを手渡すとシロは受け取って素直に口を拭いた。
「…素直だな」
「お兄さんはオレのために言ってくれてるんでしょ?それは嬉しいから」
板野はシロが本当に従順な犬のように見えた。
「シロは、なんでこの仕事に?ほかにも仕事はあるだろう?」
「すぐに一人で生活するには、この仕事が一番わりがよくて」
「家出したのか?」
シロは、首をゆっくりと縦に振る。
「いつから」
「今年の四月から。家族のことは気にしないで、家族が原因だから。ネカフェやホテルで生活して。この仕事を見つけてからは、時々お客さんちにも泊まってた」
板野は気にはなるが、家族のことは触れないでおくことにした。そこまで他人が介入していいことぐらいは心得ている。
なのでもう一つ気になっていたことを板野はシロに聞いた。
「あの、こんなこと聞くのあれなんだが。シロは男性が好きなのか?」
「うーん…女の人向けのデリヘルも行ったし。べつに男性とか女性とかどうでもよかったかな」
「どうでもって…」
お金が稼げたらいいってことか。
「男性はさ、女性よりも泊まれる率高かったから。仕事の後も優しいしね」
「そう…なのか?」
「実際、こうしてお兄さん、泊まらせてくれたでしょう?」
板野は、シロ自身の何かしてあげたくなるオーラもあるんじゃないかと思った。
しかも容姿もスタイルも同性から見てもいい。奇抜な白髪も目を引く。この道ではかなり人気になるだろう。事実、今までそれで生計を立てていた。
「これからどうするんだ?」
「また違う店に登録するかな。それから先はわからない」
「わからないって…仕事以外に学校か何かには行ってたりするのか?」
「…一応。今、夏休み」
「なら普通の仕事を探せ。こんな腕痛めつけたり、身体を酷使する仕事はどうかと思う」
シロはじっと板野を見つめる。何か言いたげな目だ。
「さすがに腹が立ったか?」
「…少し」
「何かできることがあるなら、相談にのる。ここまで知ったからには見過ごせない」
塞いでいたシロの目がパッと明るくなった。
「なんだ?ご飯がまだ足りないのか?」
顔をぶんぶんと横に振り、シロは言った。
「お兄さん、1ヶ月、オレを飼わない?」
「飼うって…」
「犬だと思ってよ。昨日言ってた大学生の時の拾い損ねた白い犬」
「シロは人間だろ」
「だけど、お兄さんの言うことは聞くよ?仕事はやめる。新しい仕事見つける。生活もちゃんとする。一か月したら、出てくから」
「昨日今日あったばかりの俺をなんでそこまで信用できるんだ?」
「それはお兄さんもでしょう。オレのこと、どうしてここまで心配してくれるの?」
「それは…」
板野はシロが放っておけない。
両腕の痛々しい跡、自分のおせっかいな発言にも素直に受け入れてくれる純粋さ、無防備な姿。
一日も経っていないのに、どうしてこうも目が離せないのか。
本当にあの白い犬を見つけた気分に板野はなっていた。
「…わかったよ。1ヶ月だけな」
そう言った瞬間、シロが板野に勢いよく抱きついた。勢いあまって、板野は床に頭を打ち付けるほどだった。
「いった…」
「…ご、ごめん。お兄さん」
シロがしゅんとしていた。見えない耳としっぽが垂れているようだ。あの白い犬に比べるとはあまりにもでかい飼い犬だなと板野は思った。
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