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ふと雨のにおいを感じた気がして、読んでいた本から窓の外へと視線を移した。先程までは青空が広がっていたのに、いつの間にか濃い灰色の雲で覆われている。まもなく雨が降り始めるだろう。
読みさしの本を閉じて、借りて帰る本の束の上に重ねるとそのまま貸し出しカウンターへと向かった。図書委員に手続きをしてもらい、借りた本をリュックに詰めてから急いで図書室を後にした。
階段を降りる途中でクラスメイトとすれ違う。教室に忘れ物をしたのだと笑う彼女にぎこちなく笑みを返すと、相手は長い髪と短めのスカートをひらりと揺らして駆け上がっていった。レモンの制汗剤と雨の気配が混じった独特のにおいが鼻につく。そのにおいを振り切るように足早に階段を降りた。
下駄箱に着き、靴を取り出して履き替えている間に雨が降り始めた。ぱらぱらと地面を濡らしていた雨がまたたく間に強い本降りへと変わった。
「しばらく止まないかな」
周りを見渡してみても誰もいない。雨が降る前にみんな帰ってしまったのだろう。
傘を持ってはいるが、この雨の中を歩いたら家に着く頃には下着までずぶ濡れになりそうだ。雨足が弱まるまで待つことにして、下駄箱に寄りかかりながら雨と時折光る雷をぼんやりと眺める。
一瞬、写真を撮ろうかなと思ったが、送る相手もいなければ、SNSも見るだけで発信することはほぼないと思い直した。
雨粒が地面を打ちつける重い音が絶え間なく響いている。怖いけれど、ずっと聴いていたいような気がする音だと思った。
好きな歌を口ずさんでいると、ふとレモンの香りがしたような気がして振り返れば、階段ですれ違ったクラスメイトが少し困ったような顔で立っていた。
「忘れ物あった?」
声を掛けると彼女は小さく頷いてから「実乃里ちゃんの背中のところ、私の下駄箱なの」と申し訳なさそうに言った。
慌てて下駄箱から身を離して場所を譲ると、彼女の後ろにもう一人いるのに気づいた。
部活の帰りなのか半袖の体操服にハーフパンツを履いている。腕も足もよく日に焼けて、同色の顔もつやつやとしていて健康そうだ。
少しつり上がり気味の目が私を見ているのに気づいて反射的に顔を俯けた。俯いた先にわたしと彼女の足が映る。ミリ単位でこだわっているだろう短めのスカートからのぞく足と、濃いグレーのズボンに包まれた足。彼女の白くて形の良いふくらはぎを見つめてからそっと目を逸した。
「教室に勇斗くんがいたの。勇斗くんも忘れ物したんだって」
彼女の明るい声になんとなく救われたような気持ちになって、俯けていた顔を上げた。そして彼女の目の辺りを見て「そうなんだ」と相づちを打った。
「実乃里ちゃんはまだ帰ってなかったんだね。部活の帰り?」
「部活には入ってないよ。図書室で本を読んでた」
「いつも何か読んでるよね。私、雑誌とか漫画しか読まないからすごいなって思ってた」
屈託なく笑う彼女は誰にでも優しい。教室の片隅で本ばかり読んでいるわたしのような子にでも。その優しさを好ましく思いながらも、わたしは彼女のことが苦手だった。
こういう時、何と返せばいいのだろう。お礼を言う?褒め返す?何が正解なのか分からなくて口ごもっていると、彼女の後ろにいた彼がわたし達の横をすり抜けて出入り口付近に近づき、こちらを振り返りながら「すげぇ雨だな」と言った。彼女が私の横をすり抜けて彼の隣に立ち、二人そろって空を見上げた。
「バケツをひっくり返すようなってこういう事を言うのかな」
「なんでバケツなんだよ。小さすぎるだろ」
「知らないよ。じゃあ何だったらいいの?」
「……なんだろうな。プールとか?」
「プールはひっくり返せないよ」
楽しそうに笑い合う二人を見ていると、邪魔者のような居心地の悪さを感じるが、それ以上に傍観する心地よさも感じていた。
同じクラスになってから、まともに彼の顔を見たのは初めてだった。席が離れていたし、勉強は少し苦手だけれど運動が得意で明るい彼と、教室の片隅でひっそりと過ごすわたしとは接点がなかった。
鼻の形が良いから、横顔がきれいだ。あの頃より頬の丸みが消えて顔のラインがすっきりとして見える。
(大人の男の人みたい)
少しずつ変わっていく彼と、前に進めないわたし。
きっと彼は忘れてしまっているだろう。あの時に私にかけた言葉を。同じクラスだったことさえ忘れているかもしれない。
視線を感じたのか、彼が振り返ってわたしを見た。眉を寄せ、ぐっと口を引き結ぶ顔に既視感を覚える。
あの時もこんな顔をしていた。つるつるの眉間に何本もしわが入ってーーそして。
『似合わねぇよ』
声変わり前の高い声が耳の奥に響く。
『棒みたいじゃん』
たくさんお手伝いをしてやっとお母さんに買ってもらった青いスカート。履いたまま鏡の前でくるくると何度も回った。
明日学校に着て行ったら、みんな何と言うだろう?友達は?先生は?可愛いと褒めてくれるだろうか?
この前、勇斗くんは凛ちゃんのワンピースを可愛いと言っていた。わたしのことも可愛いと言ってくれたらいいな。
その日の晩は胸が高鳴ってうまく寝つけなかった。寝不足でしょぼしょぼする目を擦りながら朝の支度をすませて学校に行った。
青いスカートを履いたわたしを見て、友達も先生も『可愛い』『似合っている』と褒めてくれた。隣の席の男の子も『いいじゃん』と言ってくれた。
ああ良かった。このスカートはわたしに似合ってるんだと嬉しさを噛みしめていると、後頭部に視線を感じて振り返った。少しつり上がり気味の目がわたしを見ている。彼と目が合った瞬間、つるつるの眉間にしわが入ってーーそして。
ふいに雨まじりの強い風が吹き込んで髪と制服を乱した。前にいる彼女のスカートがまくり上がりそうになり、白い手で慌てたように裾を押さえている。
隣の彼は顔を横に向けてから見てはいけないものを見たようにすっと目を逸した。
「中に戻ろうぜ」
「そうだね」
二人が雨風から避難してくるのを眺めていると、彼女が眉をひそめながら「めっちゃ濡れた」と言った。
「大丈夫?」
声を掛けると、彼女は小さく頷いてから「トイレ行ってくる」とつぶやき、それからわたしを見て「カバン見てもらっててもいい?」と言った。
「いいよ。拭くもの持ってる?」
「ハンカチあるから」
そう言って彼女がスカートのポケットから出したハンカチは小さくて可愛らしく、あまり水分を吸収するようには見えなかった。
リュックのジッパーを開き、タオル地のハンカチを取り出して彼女に渡した。彼女は少し困ったような顔でわたしを見つめてから、小さな声で「ありがとう」と言って受け取った。
彼女がトイレへ向かった後、残されたわたし達は互いに話しかけることなく気まずい空気のまま彼女が戻ってくるのを待っていた。
雨はまだ止みそうもない。
ぴかり、ぴかりと光る雷を眺めていると、近くでとん、と硬いものが当たる音がした。
振り返ると、彼が背中を靴箱に預けてこちらを見ていた。
「疲れたの?」
思い切って声を掛ければ、相手は少し驚いたように目を開いてから「あいつ、時間かかりそうだろ」と言って小さく笑った。
「けっこう濡れたみたいだよ。気持ち悪そうだったし」
「俺の方が濡れたぞ。あいつ、さりげなく俺のこと盾にしてたからな」
「拭かなくていいの?……風邪ひくよ」
「いいよ、面倒くせぇ」
ぷつりと会話が途切れて、気まずさから逃れようと前を向いた。
雨が止んだら、用事があるからと言って先に帰ろう。二人は仲が良いみたいだから、その方がきっといい。
ひらひらと揺れる短いスカート。彼女から目をそらした彼。
俯くと濃いグレーのズボンが目に入り、その中にある肉の薄い骨ばった足を思った。
雨の音が続いている。大粒の雨が地面を叩く激しい音が聴こえる。
自分で選んだことなのに、ズボンを履いている自分がみじめで仕方がなかった。
(早く止んで)
祈るような思いで空を見つめていると、背後でコツコツと音がした。振り返らないでいると、わたしを呼ぶように再度同じ音がする。気になって振り返れば、彼が靴箱の扉を爪で叩いて音を出していた。
コツコツ、コツコツ。大きな骨ばった手にふさわしい爪が休むことなく扉を叩いている。しばらく聴いているうちに演奏しているのだと気づいた。
「この曲……」
特徴的なサビの部分に差し掛かって確信する。この曲は二人に気づくまでわたしが鼻歌で歌っていたものだ。
「いいよな。俺も好きだ」
目を伏せたまま素っ気ない口調で彼が言った。
心臓があの大きな手で強く握られたように痛くなった。痛くて苦しくてそれなのに思いがけないプレゼントをもらったように胸が高鳴っている。
こういう時、なんて返せばいいんだろう?あの子だったら軽やかに返して楽しく会話が続くだろうに。わたしは頷くだけで精一杯だ。
せっかく話しかけてくれたのに、つまらない反応しかしないわたしに彼は呆れていることだろう。
(やっぱり、わたしはダメだなぁ)
箱の中に隠すことばかり考えているうちに、開き方がわからなくなってしまった。
曖昧に微笑んでいると、爪がふたたび扉を叩き始めた。トントン、コツコツ。サビの部分を弾いているようだ。それに合わせて彼が鼻歌を歌い始め、お前も歌えと言わんばかりにわたしを見た。
彼に合わせてわたしも鼻歌を歌うと、ふたり以外、誰もいない昇降口にやけに大きく響いた。
サビの部分が終わると、彼がふたたびサビの頭に戻るのに気づいて首をかしげれば、相手は「サビの部分しか覚えてねぇ」と言って照れたように笑った。
「好きだって言ってたのに」
「CMの曲だろ?この部分しか流れねぇじゃん」
「サビの部分だけ好きなの?」
「……ぜんぶ聴いてみる」
不貞腐れたような顔で言う彼がおかしくて、思わず声に出して笑うと、相手は「うっせ」とつぶやいて横を向いてしまった。
静かになった途端、雨の音が辺りを満たした。気づけば雨の勢いはずいぶんと弱まっていて、雲の隙間から陽が透けているところもある。
「もう止みそうだね」
「そうだな」
二人で黙って外を眺めていると、遠くからパタパタと駆けてくる足音が聴こえてきた。
彼女が戻ってきたら、もうこんなに気安く話すことはないだろう。
かすかにレモンの香りがした気がして、彼女を迎えようと振り返れば思いの外近くに彼がいて思わず目を大きく開いた。
「……あの時はごめん」
何について謝られているのか聞かずとも分かった。忘れているだろうと思っていただけに、思いがけない謝罪に心が震えた。
あれ以来、スカートが履けなくなった。自分を隠すことばかり上手くなった。あの日刺さった棘はずいぶんと奥深くまで貫いて容易に抜けそうもない。
それでも、目の前にある後悔を滲ませた顔を見ていると、少しだけ自分を許せそうな気がした。
「ごめん、お待たせ」
明るい声とともにレモンの香りが漂い、思わず微笑んだ。戻ってきた彼女へと一歩近づいて話しかける。
「お帰り。もう雨上がりそう」
「あ、本当だ。やっと帰れるね」
借りたタオルは洗ってから返すねと言って、彼女は自分のピンク色のリュックの中に入れた。
「じゃ、勇斗くん、実乃里ちゃん、帰ろっか」
先に歩き始めた彼女の背を追いながら、そっと隣を伺うと、彼もわたしを見ていた。
互いにぎこちなく笑みを交わしてから、ふたたび彼女の背に視線を移した。風が吹いて、彼女の長い髪とミリ単位でこだわっているだろう短いスカートを優しく乱した。その後姿を眩しく思いながらも、わたしが箱を開くのはそう遠くはないかも知れないと思った。
了
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