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そうして、葵の死から十年の月日が経った。「歳月人を待たず」とは南朝の文人陶淵明の言であるが、この十年は、まさしく隼のように過ぎ去っていったのである。私が葵と過ごした九年間の濃密さに比べれば、この十年は語るに値しない、驚くほどに薄いものであった。
ある冬の日、私の勤務する役所に、子連れの女性がやってきた。こざっぱりした、清楚な雰囲気の女性であるが、その顔を見るなり、私は既視感に襲われた。何処かで、彼女の顔を見たような……その彼女が、葵の妻であった人物であり、年賀状に写真が載っていたことを思い出すまでには、少しの時間を要した。
驚愕したのは、彼女に対してではない。その連れている息子と思しき少年にであった。彼の容貌は、あの葵の生まれ変わりなのではないかと思わせる程に瓜二つであった。目鼻立ちも白い肌も、葵のそれをそのまま引き継いでいて、加えてこの少年は葵と同じように髪を伸ばしていた。その似ていることは、一瞬、死んだはずの葵が少年時代の姿となって化けて出たのではないかと思ってしまう程だ。
その日から、寝ても醒めても、私は葵の忘れ形見であろうあの少年のことばかり考えるようになった。狂おしいまでに、彼のことが愛おしくてたまらない。だが、もうすぐ四十に届こう年齢の私が、少年である彼と結ばれるなどということはありえない。こればかりは嘆いたとて仕方のないことである。
思い返せば、葵に想いの丈を伝えられたあの時、私は彼の手を振り払って逃げたのだ。それは彼を拒んだというよりは、自らの怯懦の心に屈したという方が、ずっと正確な表現である。そのような身でありながら、彼の生き写しのような少年に懸想してしまうのは、全く滑稽な話ではないか。
そのような、悶々とした日々を過ごしていた冬のある金曜日、私は少年と二度目の邂逅を果たした。彼は私の退社を待ち受けていたかのように、職員出入口から少し離れた場所に立っていたのである。
彼は、黙って私に近づいてきた。その時、私の心臓は俄かにその鼓動を速め、まるで金縛りにあったかのように足が動かなくなった。
「明日の午後三時、増上寺の三解脱門前。待ってるよ」
少年らしい、甲高い声であった。それだけ言うと、彼は走り去っていった。彼が何を考えているのかは分からない。けれども、その時の私に、従わないという選択肢は存在しなかった。
明くる日、曇天の寒空の中、私は浜松町駅へと向かった。その日は雪の予報で、ともすれば電車が止まって帰れなくなる恐れもあった。それでも、少年との約束——とは言っても、彼が一方的に私に告げただけであるが——を反故にしようなどとは思わない。
JRを乗り継いで、山手線に乗り、浜松町駅へと到着した。電車を降りると、刺すような冷気が、私の全身を包んで身震いさせた。足早に改札を出て、目的地へ向かう。都内に足を踏み入れるのは、学生以来である。
増上寺の三解脱門。高さ二十メートルを越えるこの門は、国に重要文化財の指定を受けているらしい。その後ろ側には、赤い電波塔、即ち東京タワーが兀立している。赤、とは言っても、その色は正しく言い表せばインターナショナルオレンジと呼ぶそうだ。
寒風に身を晒しながら、私は待ち続けた。約束の時間を過ぎても、彼は姿を現さない。それでも、私は待ち続ける。約束の時間を三十分程過ぎた頃、私の身を守る灰色のダッフルコートに、細やかな雪が落ちた。上を見上げると、白い、粉のような雪が、ちらちらと空より舞い落ちてきている。私は折り畳み傘を差して、その雪から体を守った。
待てど暮らせど、少年の姿は見えない。私はふと、尾生の信、という中国の逸話を思い出した。尾生という男が女と橋下で会うのを約束したが、女は来なかった。やがて大雨が降って川が増水したのだが、この男は帰らず、橋脚を抱いてそのまま溺死したのである。その逸話を想起した私は、彼がためであるなら、尾生にでもなってみせよう、と意気込んだ。
そうして、私は尚も彼を待った。気を紛らわせようと、私はスマートフォンを懐から取り出し、写真を保存するフォルダを開いた。私はその中に保存してある、中学生時代の写真を表示させた。そこには、ふざけて東京タワーをつまみ上げるように掲げた葵の右腕が表示されている。画面をスクロールさせると、彼との最後の思い出が次々に表示され、涙腺が緩んでしまう。流石にこのような場所で泣くまい、と、私はスマートフォンを懐へ仕舞い込んだ。
すでに、日は傾き始めていた。薄暮の空に細雪の降る様に、何となく雅なものを感じたが、そういった感傷を、酷烈な寒気が邪魔立てした。この時になって、ようやく、私は彼にたばかられたのでは、という考えに至った。尾生は、かの愚かな男は、その愚かさ故に名を残し、今でも中国の人々の心の中で生き続けている。けれども、それに引き比べて我が身を思えば、そもそも私が愚かであったということさえ、人々の記憶には残らないだろう。
もう、日はビル街の彼方へ没しようとしている。その時であった。
水色の傘を差した件の少年が、左方から歩いてきて、私の目の前に姿を現した。そうして、かつての葵のような不敵な笑みを私に見せたのである。
その、傾国の美女を思わせるような妖しい微笑を見て、私ははっとした。もしかしたら、葵が自分の息子に乗り移って、私に復讐しに来たのかも知れない。まったく馬鹿げた妄想だ、と自嘲してみても、そのような空想は止まらない。
少年は、笑みを浮かべたまま何も言わなかった。そうして黙って、私の元を去っていった。その背を追いかけようとした私であったが、ずっと立ち尽くしていたせいで、棒のように疲労した脚は、すぐには動いてくれなかった。そうしている内に、彼は遠ざかり、やがて視界の外に消えてしまった。
後には、虚しさだけが残った。空虚な心を抱えて、私は駅へ向かって歩き始めた。
帰路の間、私は自らの人生を回顧した。つくづく、くだらぬ人生であったと思う。あの日、葵の求愛を無下にしたその時、私の人生は全て無駄なものとなったのだ。今になって後悔したとて、どうにもならない。焦燥と苛立ちで、私は髪を掻き毟りそうになった。もう自分は、猛火のような激しい恋情に身を焦がすような年の頃でもない。それでも、私の心は、かの少年を通して、往時私を愛してくれた葵への懸想で、焼き焦がされそうになっている。
あの少年は、私に、過去の過ちを再び思い出させるために現れたのではないか、と思う。それは全く手前勝手な解釈であり、そもそも彼の意味深な行動を推し量れるはずもない。彼が何をしたかったのか、どうして確かめられよう。それでも、私は斯様なことを考えずにはいられなかった。
私はもう一度、過去の写真を眺めてみた。その画面の上には、今はもうこの世のものではなくなった葵が生きていた。
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