私の後悔

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 雪の日の増上寺。私はその門前から、突兀(とっこつ)とそびえる赤い電波塔を見上げている。  東京タワーというと、小さい頃にDVDで何度も見た、巨大な芋虫の怪獣に圧し掛かられている映像を思い出す。とある有名な怪獣映画の一幕だ。それと同時に、自然と思い出されるのは、在りし日に交誼(こうぎ)を結んでいた、一人の少年の姿である。  私がその少年、秦葵(はたあおい)と出会ったのは、小学校に入学した、まさにその時である。  その頃の私はどちらかと言えば引っ込み思案な子で、もじもじしている間に周りで色々と決まってしまうのを黙して眺めるようなことは日常茶飯事であった。対する葵は人懐っこい少年で、私のような子にも気さくに話しかけてくれた。その上家も近く、通学路も重なっていたものだから、私と彼は自然と仲良くなった。  そうして、六年間を過ごした。二人の交誼は、片時たりとも綻ばなかった。刎頸(ふんけい)の交わり、断琴(だんきん)の交わりなど、固い友誼を現わす成語は古来よりあれど、この時の二人は、それらと比しても劣る所は何一つなかったと断言できる。  それが変容したのは、私たちが中学に上がってからのことだ。  年齢が二桁になった頃から、葵は見目麗しき少年へと成長を遂げていた。静脈の透けるような白い肌、長い睫毛と切れ長の明眸、よく通った鼻筋は、万人の心を虜にせんばかりであった。中性的な雰囲気の強い容貌を自分でも理解していたのか、その頃から葵は髪を伸ばし始めた。小学校を卒業する頃には、もう同級生の女子などでは全く太刀打ちできないような冶容(やよう)となっていたのである。  中学に上がってから、彼の私に対する接し方は、友情の域を超え出していた。彼は時折私に熱を帯びた視線を送ったり、二人きりの時にはわざとしなだれかかってくるようなこともあった。そして私が見つめ返すと、不敵な笑みを向けてくるのである。無邪気で明朗な快少年は、何時の間にか、悪魔めいた陰性の美を湛え始めたのである。  けれども、それに対して私は素っ気なかった。少なくとも、友情の域を出ようとは思えないでいた。というのも、当時の私は、別の小学校出身で同じクラスになった美少女に首ったけだったからである。その美少女の名前は今でも覚えている。森村菫(もりむらすみれ)という女子だ。確か、読書家の大人しい女子であった。もうその記憶も削げ落ち始めているが、少なくともその時は彼女に熱中していたのだ。  それでも、私は彼女に想いの丈を伝えることをしなかった。元々私は引っ込み思案な方であったが、それは中学生になってもあまり変わらなかった。そうして、無為に時間ばかりが過ぎてゆく。  中学二年の夏、とうとう葵は業を煮やしてか、私に直接、その恋情を告白してきた。盛夏暑熱の日、外から聞こえる蟬噪(せんそう)が耳を煩わせる中、葵の家で僕はその言葉を聞いたのだ。 「これからは僕のことを、恋人として見てほしい」  その告白は生涯忘れないだろう。白居易(はくきょい)長恨歌(ちょうごんか)は「天長く地久しきも時有りて尽きん。()の恨み綿綿(めんめん)として尽くる期無からん」と詠んで締めくくるが、私のこの記憶も、きっと連綿と続いて絶えることはないのだ、と思える。 「ごめん。それは流石にできない」  私は、彼の告白をすげなく蹴った。私の人生における最大の瑕疵(かし)は何かと問われれば、今の私はまず間違いなくこの時の選択を挙げるだろう。  私は彼とそういう仲になるような気はなかった。けれども一方で、数年来の友情を手放したくはなかった。その時以降、寧ろ自分の方が、彼を繋ぎとめようと必死になっていたと思う。彼の告白を蹴ったことで、今まで築いてきた友情までもが失われるかも知れない、という恐れがあったのだ。そういった心配を他所に、葵は私から離れることはなく、そのことが私を安堵させた。  その後、二人は別々の高校に進学することが決まった。それに加えて、葵の方は都内への引っ越しが決まっていた。会おうと思えば電車を使って会うこともできるが、少なくともお互いの生活圏で顔を合わせることはなくなる。  卒業前の三月某日、私と葵は二人きりで都内に遊びに出た。思い出作りのために、二人は時間の許す限り、ありとあらゆる場所を巡った。とあるビルの上のレストランで食事を取った時、私は東京タワーを背景に、スマートフォンで彼の写真を撮影した。一枚目は普通に撮ったのだが、二枚目は彼がふざけて、東京タワーを上からつまみ上げるように右手を掲げた。そうして撮れた写真には、まるで巨人のように東京タワーをつまんでいる葵の腕が写っていた。そのスマートフォンの画面を見ながら、二人はげらげらと笑った。  それが、私と葵、二人の最後の思い出となった。  高校に上がると、二人とも忙しくなり、顔を合わせる機会はなくなった。やり取りと言えば、年に一度、年賀状を交わすぐらいなものである。彼との繋がりが完全に消えてしまうことが寂しく思えた私は、毎年の年賀状だけは欠かさずに送った。大学に進学した後も、それは変わらなかった。  私は大学を卒業後、地方公務員となり、自宅と職場を行き来するだけの生活を送っていた。そんな中、社会人二年目の正月に、彼は年賀状の上で結婚したことを報告してきた。相手は葵に相応しいと思えるような美人である。私の方はと言えば、大学時代に色恋事で失敗し酷い目に遭わされてから浮いた話の一つもなく、新たな恋を求めようにも自らの怯懦(きょうだ)が邪魔をしていた。そのため、葵の結婚に対して嫉妬の念を覚えずにはいられなかった。その翌年には男の子も生まれたのだが、あの葵がとうとう父親か、などと感傷に浸るような心の余裕は、その頃の私にはなかった。彼に対して嫉妬を覚えると同様に、何だか彼がどんどん雲の上に逃げて行ってしまうようで、その報告は全く不愉快極まりないものであった。  その葵は、息子が生まれて二年後、突然この世を去ってしまった。蘇軾の詩に、「古より佳人(かじん)は多く命薄し」という句があるが、その通り彼は二十代の半ばで急死してしまったのである。  葵が死んだ――それを知った時、私の耳には、聞こえないはずの雷鳴が轟いた。それと時を同じくして、彼との思い出が、流れるように私の脳裏に想起された。私はこの時初めて、彼との時間がどれ程尊いものであったかを思い知らされたのである。どうやら、私は涙を流しているらしかった。涙は止めようもなく溢れ出し、床のカーペットに落ちて染みを作っていた。とうとう(こら)え切れなくなり、私は声を上げて哭悲(こくひ)した。  私は過去に戻りたかった。過去に戻って、もう一度少年時代をやり直したかった。あの時のように葵と遊んで、笑って、そして……  ――そうだ、あの時、葵の告白を受け入れていたら、私はどうなっていたのだろうか――  葵は私のことを愛してくれていた。なのに、私はその想いに答えなかった。答えていれば、私と葵が離れ離れになることも、葵が私の知らない女性と結婚することも、もしかしたら早くにこの世を去るようなこともなかったのかも知れない。そう思うと、やるせない気持ちでいっぱいになった。  それから、十年の月日が経った。地元の市役所で働く私は、相も変わらず自宅と職場を往来するだけの生活を送っていた。これといって趣味もない私は、休みの日は大抵いつも家で寝転がって体を休めている。いつまでも未婚で身を固める気のない私を両親は快く思っていないようで、度々、 「いつまでもふらふらしてないで、いい相手いないの?」 などと言ってくる。けれども私は、大学生の頃に女子に手酷い目に遭わされたせいか、どうも女性というものに対する苦手意識が拭えないでいた。私は両親からのそういった圧力を、のらりくらりと(かわ)し続けた。
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