親愛なるラブソングへ。

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親愛なるラブソングへ。 言葉を話すことが出来ない彼女、心<こころ>。 心の声を聴く事が出来る彼、言葉<ことは>。 そんなふたりの関係を、周りは揶揄って『世界』と呼んだ。 480dfcd0-8020-4f00-81d6-0e65f51a0606  拝啓、親愛なるラブソング様、お元気でしょうか。  今日も外壁を蔦がおおう、嫌な噂が絶えない家賃四万円の古いアパートで僕と心は朝を迎えました。朝が弱い彼女の代わりに朝食を作って起きてくるのを待つ、その毎日が続いています。 「心?起きれそうかい?」 「んっ………言葉、だいじょうぶ」  眠たまなこ、ぽーっと二十分はベッドに座っている彼女は、まだ世界の痛みに気付いていません。その姿は無垢で美しいから、しあわせな気持ちで一日が始まるのです。しかし、この先に彼女が感じる痛みを想像して、辛くなる時間でもある。心が呼んだ僕の名前を始め、彼女の<ことば>は、他のひとに聞こえません。お医者さんにも原因は分からないのだそうですが、仮説として『過度の心理的ストレスによるものではないか』という事。それと同時に『投薬や治療で治るものではない』と言われたことです。  朝食を並べたテーブルを挟んだら、手を合わせて「いただきます」の合図で目が合い、笑ってしまいました。今日も彼女が真っ先に手をつける目玉焼きの黄身が潰れ、流れ出たソレを見て悲しそうにするのです。しっかりと火の通った目玉焼きを作るよ、と言った事もあるのですが、それは何だか違うと言います。何が違うのかは教えてくれないのですが、たまに見せるこういう彼女の“わがまま”に感情が奪われてしまうのも事実。ずっと、僕は心に恋をしているのだなあ、と<こころ>が温かくなります。  食器を洗う僕とベランダで洗濯物を干す心。その真ん中にラジオがあって、今日も<あい>の上部だけを掬った音楽が流れて、静かに終わりました。ラジオパーソナリティの声が鳴り伝えられる、どこかで始まった大きな争い。それを聞いて彼女がピクッと肩をすくめたから、涙を落とす前に僕はギターを手に取り、心のために笑わせたり、微笑ませたり、一緒に唄ったり、目を閉じて耳を澄ませたりする歌を唄うという事を続けているのは変わっていないので、ご心配なく。  僕らは同じ大学の同じ学部、同じ三年生で、全く同じ授業を選択しているので、いつも一緒にいるから小さな頃から彼女が苦手な“人との付き合い”も、なんとか上手くやっています。 「よーっ、『世界』!」 「おはよう、谷田部くん」  彼が言った『世界』というのは、ふたりのあだ名で、僕の名前<言葉>と、彼女の名前<心>が、いつも一緒にいるから『世界』なんだそうです。僕たちは物心付いた時から一緒にいて、いつも僕の背中に臆病な心は隠れていました。そして、いつも同じ場所に行き、同じ友だちを持ってきました。僕らを見て「いつも一緒にいて飽きないの?」と聞かれるのですが、未だに疑問の本質が分からずにいます。 「飽きるとか飽きないとかじゃないんだよ、谷田部くん」 「ふーん。じゃあ、結婚とか考えてんの?」  ふた言目には『結婚』という単語が出てきて、なんだか、そうしなければ一緒にいてはいけない呪いのように聞こえる時もあるのです。紙に書いて区役所に提出した<あい>でないと一緒にいてはいけないんだと、しあわせの在処が<世界>のどこにあるのか、よく分からなくなるのは僕たちだけでしょうか。 「紙の上でする約束が一緒になるという事ではないからね」 「相変わらず、捻くれてるなあ……心ちゃんはどうなのさ?」 「今の私たちには必要ないよ、って言っている」  いつも心の声を聞ける僕が、彼女の<ことば>を代弁します。お医者さんが『話せない』『治らない』と言ったはずの声がナイチンゲールのように鳴る。この素敵な声が、みんなにも聞こえたならいいのにと落ち込む時があります。 「でもさー、卒業して就職して……生活、どうすんの?ちゃんと言葉は心ちゃんの事考えてんのか?」 「心が望むから、ふたりで見ていようと思う」 「見てるって?就職しないでギターを持って、フラフラすんの?」  親愛なるラブソング様、あなたが唄ったのは<こころ>ですか、それとも<あい>の上部を掬ったものですか。何故か、ここでは様々な事が僕と心を遠ざけようとしていきます。あなたが唄った素晴らしき世界は価値観や考え方の違いの程度で、簡単に肯定と否定が入れ替わり<こころ>にそれらが無い人たちは振り回される、それを繰り返しているのです。 「僕と心は、ふたりで直視しなければいけないんだ。それがふたりでいる理由だ」  谷田部くんが、ぶすっと不機嫌な表情で「まるで<神様>みたいだね」と言いました。  かみさま、  かみさま。 「僕らが<神様>なら、こんな<世界>は作らない。こんなそばに憎しみがあるなんて………」 「じゃあ美しいものだけにする?そんなの成り立つの?」  何故か、谷田部くんが少し怒ってしまいました。 「そうする、そういう<世界>がいい」  そう答えると呆れられ、平たいトーンで僕に言い聞かせるように言いました。 「それはエゴだよ、言葉。美しいものだけにすれば『どちらが美しいか』で争うよ。  いい加減、大人なんだからさ、夢みたいな思考やめろよ。  俺たち人間は、俺もお前も、  酷く、醜く、汚い。  心ちゃんも汚れてんだよ」 「僕がどう言われようがいい。だけど、心には謝れ」 「ごめん、心ちゃん。……言葉も悪かった、本当にごめん」  この星の争いは、こうやって生まれていくのでしょうね。そして、憎しみや涙を食べて育ち、傷付けるまでに大きく成長してしまうのでしょう。生まれたての争いの種が谷田部くんのように、すぐに謝られ、育つ事なく土に還る事を強く願うのは“わがまま”ですか?もしかして、謝らせた僕も………。  心が洗濯物を畳む背中を見ながら書く歌は、美しいものではありません。残念ながら僕に見える世界は、あなたが唄った<世界>のようには見えないのです。窓から入ってくるそれが近くの基地から飛び立った戦闘機の音である事を知っています。僕は本当の事を唄いたい、嘘はつきたくない、この世界は醜くくて、傷つけてばかりだ、誰のせいでもない、けれども、きっと誰かのせい、全部、僕らのせいだ。それらを唄いたい、そんな歌を書きたい。君に聞かせる歌が唄いたい。心の涙が還る場所を作りたい。いつも、僕の悩みは始まりと終わりが見えずに同じ所をぐるぐると回っているのです。  今日も擦り切れるほど<あい>が唄い尽くされ、疲れるほどに<しあわせ>が語られました。それらに“感動”して“泣いてしまった”なら、その分だけ、何かに近付けたのでしょうか。近付くための何かをしたのでしょうか。そんな事を考えながら、隣で眠る月明かりに照らされた心の美しい顔を眺めて、あなたを唄うのです。 <木々の葉は緑に輝き、  赤いバラが彩を添える。  花々は、僕の為に、  君のために咲いているんだ………、>  あなたを唄いながら、いつの間にか僕も眠りについています。  今日は近くの海まで出かけました。波打ち際で遊ぶ心の姿が美しくて、僕の<こころ>が跳ねます。ばたばたと海風と波が鳴る人のいない浜辺で、ふたり並んでサンドイッチを食べていると、 「海の向こうにも、たくさんの人がいるんだね」  そう心が微笑んだから「そうだね、たくさんいる」と答えると、彼女は水平線の向こう側を見ようと一所懸命に見つめていました。風で身体を冷やさないように肩を寄せ合い、手を繋いで、互いの温かさを感じながら、とくに何を話すわけでもないのに、互いに顔を覗き込むように寄せて目を閉じる。……ゆっくりと、小さく、でも、確かに心の呼吸が聞こえます。 「言葉の呼吸が聞こえる。ゆっくりでやさしくて、好き」  僕たちふたりは、ちゃんとここにいる。  家まで戻る途中は遠回りをして、住宅の間を流れる細い川沿いの遊歩道を歩く事にします。フェンスに止まっていた大きな鳥が、僕たちに驚いて羽ばたいた影を追い心が手を伸ばしたのです。そして「ねえ、言葉?今日はありがとう。言葉のお陰で空が綺麗」と呟く表情が曇っていました。精いっぱい伸ばした、心の手の先を見ると大きな鳥と戦闘機が翼を広げて一緒に飛んでいます。僕たちには、この細い川すら越えられる翼もありません。あの大きな鳥どころか、戦闘機のような翼もないのです。でも、いつも途方に暮れるくらいに何度も川が立ち塞がり、向こう岸に何があるのかは分からないけれど、ここまで歩いてきた<世界>には求めるものが無かった。翼は無くとも、せめて、川を渡るための舟が欲しい。ひとりしか乗れないと言うのなら心を乗せます。もし、舟が沈まないのなら僕の“想い”だけを乗せてください。僕は泳いで渡るから、例え川が汚れていて身体が穢れようとも“想い”は穢れないはずです。穢れた僕でも心が愛してくれると言うなら、僕はそれでいい。 <…空は青く澄んで、  雲の白さが、くっきりと際立つ。  陽の光が一日を祝福して、  やがて、闇が夜を清めて疲れを癒す。>  今夜も心の寝顔を見ながら、あなたを唄い想います。空が青かったから、白い雲が浮かんでいたから、はっきりと翼が見えました。この世界の片隅で心は痛みを感じていて、それから逃げずにいる。  …………心がいる<世界>は、いい<世界>だな、と思うのですが、あなたも……まだ、そう思いますか。  夜中に降り出し、家を出る前に止んだ雨がふたりで歩くアスファルトに水溜りを作り、それを楽しそうに心は避けて遊びます。こういう子どもっぽいところも大好きなままです。洗われた美しい空に「虹だ。……ねえ、言葉。今日はいい事があるのかもしれないね」と彼女が笑う。心の嬉しいことがある時に少し跳ねて、スキップをするように歩く癖も変わっていません。それは、すれ違う人たちが虹を見て笑顔になっているから“いいことがある”と言って、みんなのしあわせを願っている、そんな心のしあわせなのです。虹が七色のように人もまたそれぞれに色が違う。けれども同じ虹を見上げて、みんな同じ笑顔になることもある。分かれていようとも、いつも隣り合わせだった僕らは、そこに年齢や性別は関係無く、あなたの唄った世界の片方が美しく映えていたのです。  入学して三年が経つのですが、未だに僕らは廊下の雑踏を上手く歩けずに、よく躓き、人の流れに立ち止まっています。でも、友たちが「よお『世界』!おはよう!」「おはよ、心ー……と言葉くん。朝も早よから仲が良いねえ」「おはよう。提出期限迫ってっぞって、谷田部に会ったら言っといて」と、色んな人が声をかけてくれるから、さらに心が、にこにこと笑う。朝にする『おはよう』という挨拶は、その日、一番最初の「愛している」だと思います。夜にする『おやすみ』は「夢の中へ行くから、明日までさよならだ。また明日会おう」と言っているのだと思っています。この挨拶という言葉たちを大切にしない人が増えたと感じているのですが…………「いつも、わたしには言葉が唄ってくれるのにね」と考えていた事を心に読まれていました。  雨が上がった朝に一憂して傘を忘れ、帰り道は雨に打たれる事になりました。それは街のみんなも一緒のようで、みんな走っています。僕たちはというと雨の中を晴れた日と同じように歩き、ふたりで歌を唄います。雨の中を歩く時はふたりで唄うという約束が素敵でしあわせな気分が込み上げてきます。空が暗く分厚い雲に隠れて太陽はいないけれども、その向こうには輝いていると、唄える。いつも太陽は僕らの<こころ>にもあるから、大丈夫。心が雨の中でスキップをするように跳ねたから水溜りの飛沫が跳ねて、一瞬、きらっ、と、光り、それが映画の演出のように美しすぎる心を見て、僕は顔を赤くしてしまいました。  冷えた身体をシャワーで温めると現実が戻ってきて、この<世界>はこんなにもザーザーとうるさかったんだなあ、と思い出したのです。お風呂から出て、水を飲み、心の姿を探すと子犬のようにシーツに埋もれていていたので、めくって「寒気でもするの?」と覗き見ると、とろんとした目の彼女が「ちがう」と耳まで真っ赤にして言いました。だから、誰にも聞かれない距離で、僕と心の気持ちが一緒かどうか、すこしお話をしました。  あたたかく、やわらかい心が“そこにいる”感覚と“壊しそう”という怖さが混ざった不思議な感情で<こころ>の糸を締め付けるから苦しくなる。ふたり、もつれ、離れて、互いに手繰り寄せて、縛る。ふたりしか知らない、あたたかな時間を、ふたりで綻ばないように紡いでいく。 「しあわせだ、しあわせだなあ」  頬を桜色に染め瞳に水分をいっぱい溜めて熱い声で言うから、ひどく切なくなって、どうしようもなくなり、力一杯抱きしめると「こ、ことは、くるしいよ、もう!」と少し怒られてしまいました。  たくさんしたから疲れたのか、心は裸のまま、しあわせそうな顔で寝てしまいました。だから、僕はベランダの窓から見える低い空に大きく真っ白に浮かんだ月を眺めながら、独りで想い耽してみます。この<世界>は色々あるけれど、どんな痛みを受けようとも、どんな悲しみが待っていようとも君となら歩いていける。それはなんて素敵な世界なんだろう、と思う。僕たちはどちらかがいなければ、この<世界>に独りだ。自分と大切な人さえよければ、あとはどうなろうとも構わないとさえ思っている。やっぱり、僕たちも人間なんだろうなと思います。  親愛なるラブソング様。今、あなたはどこで唄われていますか。今日も僕たちラブソングの子どもは、花を咲かす事なく、根を張ることもなく、この星を歩いています。まだ僕にはあなたが唄った<世界>が見えずにいます。ここは、あまりにも<言葉>と<心>が離れてしまいました。気が弱い心は嘘の上手い言葉に隠れ黙ってしまう。心は言葉を使って酷いことを言わせようとする時もある。でも、それは誰かを傷付けるためではなく、自分を守る為にやってしまう事だから、ふたりともふたりの痛みを知って涙を流し、ついには崩れ落ちます。 親愛なるラブソング様。  あなたは、まだ“この素晴らしき世界”であなたを唄ってくれますか?また、次にお会いする機会がありましたら、今度は僕と心が素晴らしき世界だと唄われるといいですね。その時は好きなだけ唄おうと思うので一緒に唄ってくださいね。  長くなりましたが、この辺りで失礼します。                 ラブソングの子ども、より。                            草々。 親愛なるラブソングへ。 おわり。
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