56・俺の覚悟は近くて遠いアジア圏

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56・俺の覚悟は近くて遠いアジア圏

「望月、昨日はすまん」  望月と待ち合わせて蕎麦屋で昼飯を食うことになった。望月は案の定にやにやしながらやたらと俺の顔を覗き込んでくる。くそ、なんか悔しいな。 「大丈夫っすよ洞木さん。オレの方こそ早合点してたみたいで、間違った情報お伝えしてしまって申し訳なかったですね? 羽生田さんと仲直りできましたかね?」  完全に揶揄われている……。  にやにやしている望月に蕎麦湯でもぶっかけたい気分だが、俺は苦虫を嚙み潰したような顔のまま、黙って蕎麦を啜った。 「ていうか羽生田さんと洞木ってそういう仲なんだ。それならそうと言っとけよ」 「さすがに簡単には言い出せないだろ。でも今回のことで覚悟が決まったよ。ある意味望月のおかげかもな」 「覚悟って?」 「ちゃんと責任持って付き合う、っていうかさ」 「そっかぁ」  良かったじゃん、望月はそれだけ言うと俺の天婦羅を一つ掻っ攫っていった。変に詮索したり他言したりしないのが望月のいいところだ。天婦羅くらいは大目に見よう。 「お、お前らこんなところで昼飯食ってるのか? 大人になったもんだな」  その声に振り向くと、八代さんが俺達の背後に立っていた。 「八代さん、お疲れ様です」  隣に置いておいた上着をどけて、八代さんの席を作る。「お、悪いな。すぐに出るよ」なんだか忙しそうだな。 「新人の頃は蕎麦なんて腹の足しにならないなんてほざいてたくせにな」 「今は早く腹に入るもの優先ですよ」  俺が答えると、八代さんが「洞木も営業マンらしいこと言うようになったなぁ」と笑った。 「八代さん、午後から会食ですよね? 蕎麦食っちゃっていいんですか?」  望月が聞くと、八代さんは 「お前ら、というか洞木の顔が見えたから入っただけなんだ」  注文を取りに来た店員にきゅうりの浅漬けを頼み、置かれた冷たいそば茶を一気に飲み干した。俺に用事って何だろうと訝りながらお茶を継ぎ足す。 「メール一本いただければ、そちらまで行ったのに」 「いや、おおっぴらに話すことでもなくてな。洞木の気持ちが聞きたいというか」  八代さんはそこで再びお茶を飲んだ。 「洞木。シンガポールの件、本気で考えてみないか?」 「シンガポール、ですか」 「今からちょうど社長と会食で、海外事業部の強化について話すんだ。洞木の名前も出すつもりだ。良い人材がいるって。あ、それと望月にもやってもらいたいことがあるからそのつもりでいろよ」 「え、えっ? オレもですか?」 「まあお前は英語がアレだから、違う方面でだけどな」 「アレってなんですか、アレって! オレも毎日聞き流し英会話やってますよ!」 「それにしてはちっとも身に付かないなぁお前は」  八代さんと望月の会話は俺の耳を右から左へと流れて行く。  すまんあとでまた連絡する、と八代さんは出されたきゅうりに手を付けないまま店を出て行った。 「洞木凄いじゃん! これって栄転だぜ?」  望月が俺の肩を叩いた。しかもオレまで声掛けてもらっちゃったよ、嬉しそうな望月の声を聞きながら、明るい性格の望月と同期で良かったな、と思う。もしひとりでこの話を聞いていたら、空気が悪くなっていたかもしれない。  栄転──。そうこんなチャンスを逃す手はないのだ、普通は。  この話を受ければ今度は本当にカヲルさんと離れてしまうのだ、という思いは口に出してはいけない。 「洞木? どうした。嬉しくないのか?」 「嬉しくないわけないさ、でも」 「羽生田さんか?」  望月が少し声のトーンを落として俺を見る。あまり望月に気を使わせるのは本意じゃない、俺は冗談めかして言い返した。 「そりゃあ、まだ付き合い立てのホヤホヤだからな」 「なんだ急に惚気話かよ」 「お、聞きたいのか?」 「聞かねぇわ!」  昼飯を終えて仕事に戻ると、さっそく課長が俺のデスクにやって来た。 「洞木、八代から聞いたか? シンガポールの話、進みそうだな」 「あ、はい。でもまだ打診の段階ですし、八代さんには返事もしてませんけど」 「返事も何も、行くんだろ?」 「それは、……ええ。こんな光栄な話、滅多にあることじゃありませんから」 「なんだ、奥歯に物が挟まってるような言い方だな。こっちのことは気にしなくていいぞ?」  課長が無駄に優しくて気味が悪い。 「はい、ありがとうございます。八代さんから正式にお話頂いたら、課長にも報告します」 「おう! 送別会は焼肉屋にしてやるからな!」  太っ腹ぶりをアピールしながら打ち合わせに向かう課長の背中をぼんやりと見送る。 (カヲルさんにはどう言うべきか…)  まだ打診の段階で、本当に自分が選ばれるのかもどれくらいの期間行くのかも定かではない。八代さんから連絡が来てからの方がいいか。いや、あの口ぶりだとオレのシンガポール行きはほぼ確定だろうな。  俺は頭をガシガシと掻くと、今悩んだところでどうしようもない、と立ち上がった。外回りがてらカヲルさんの誕生日プレゼントと宿泊ホテルの予約をキメてしまおう。
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