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58・駄々をこねるカヲルさん
「洞木君、お待たせしました」
和食屋で席を取ったところへ、カヲルさんが駆け付けてきてくれた。
「俺も今来たところです。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
取り敢えず瓶ビールで乾杯をした後、お通しに箸をつけた。どうやって切り出そうか迷っていると、
「何かありましたか?」
カヲルさんがふわっと微笑む。俺は思わず声に詰まった。ああ、やっぱりこの人には敵わないんだよなぁ。
「……あの、俺」
「はい」
カヲルさんは俺から切り出すまで静かに次の言葉を待っていた。
「……俺、シンガポールへ行ってきます」
長い時間経っていたかもしれない、いや、一瞬だったかもしれない。沈黙がテーブルの上を泳いで、消えて行った。
「そうですか」
カヲルさんはさほど驚いた様子を見せず、そっとビールグラスに視線を落とした。やっぱりあの時八代さんとの会話を聞かれていたのか。カヲルさんはそれを言わずに、俺から話すのを待ってくれていたんだ。
「まだ詳しくは決まっていないんですが、二年間、日本とシンガポールを行ったり来たりの生活になりそうです。八代さんが俺に白羽の矢を立ててくれたので、期待に応えたいと思いました」
「おめでとうございます。凄い話じゃないですか」
「ありがとうございます。どうしようかずっと迷ってて」
「こんないい話、何を迷うんですか。私も嬉しいです」
カヲルさんが自分のビールグラスを俺のそれに合わせた。
「海外事業の話は研究所でも話題になり始めていますよ。江坂先生がドイツに一旦戻ったのも、海外対策の一環でもありますから。私も無関係な話ではないんです。洞木君ともしかしたら仕事で関われるかもしれない」
「本当ですか?」
「はい。私が出張でシンガポールに行く時があれば洞木君に案内をしてもらって、それまでに美味しいお店を見つけておいて……」
カヲルさんの言葉はそこで途切れた。グラスを見る眼差しが揺れているように見えるのは気のせいだろうか。
──お代わり頼んで、いいですか。
カヲルさんはそれっきり、口を噤んだ。
「カヲルさん、ペース早くないですか」
「はやくない、ですよ? 今日は洞木くんのお祝いなんですから、ほら洞木くんも、飲んで飲んで」
こんな朗らかに酔っているカヲルさんを見るのは初めてだ。そろそろお開きにしないと明日に障るかもしれない。
「カヲルさん、送りますから帰りましょう」
「ええ、もうですか? もう少し飲みませんか」
駄々を捏ねるカヲルさんなんて初めて見る。
「明日も仕事ですし、」
「洞木君は帰りたいんですか」
キッとカヲルさんが俺を見据えた。目が完全に座っている。
「私はまだ、飲み足りないです」
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