第1話 「あとっ……ちょっと、だから!」

1/1
19人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ

第1話 「あとっ……ちょっと、だから!」

 ……………………あ、れ。  長い間、眠っていた気がする。ひゅうひゅうと細い呼吸音。肺が激しく前後しているが、脳には少しも酸素が供給されていない。肩、肘、掌、指先。肺から遠ざかるほど感覚は鈍い。朦朧とした視界の中で、鮮烈な赤に塗れた足を捉えた。  僕の足だ。走っている、のか? なんで? こんなにしんどいんだから、止まればいいのに。 「ダメッ!」 「え、うえっ⁉」 「あとっ……ちょっと、だから!」  女の子だった。透き通ったその声に、僕の脳が覚醒する。  覚醒した脳は即座に視覚情報を収集するが、その情報はあまりに奇天烈で、支離滅裂で、そのうえ残酷なので、とりあえずはそれらを順に羅列することにした。  一、僕は知らない女の子に手を引かれ、全力疾走している。恐らく短時間ではない。  二、彼女の顔は見えないが、しかしその艶やかな赤髪には十分な引力がある。  三、僕と彼女はどこかの街の、どこかの路地裏を駆けている。狭い家々の間、壺や酒樽などの障害物が無造作に設置されている通路を、器用にも細い身体を捻じらせて躱す彼女。と、不器用にもそれら全てに衝突し、破壊の限りを尽くす僕。  四、障害物は壺や酒樽だけでなく、例えばゴミ袋、例えば小動物、例えば……死体。それも一つではなく、そこら中に転がっている。路地裏はほとんど血の池だった。  以上。絶賛酸素不足の頭でも分かることといえば、ここは日本ではない。日本には赤髪の女の子なんてまあいないし、路地裏に壺や酒樽は置かれていない。建物や空気感はどことなく西欧チックだが、西欧諸国の路地裏にも、死体はそうそう転がっていないだろう。  この世界のどこでもないのなら、あとは異世界くらいのものであろうか。なんてシャットダウン寸前の頭で考えていると。 「こっちだ!」  路地裏の裏の裏とでも表現したくなる入り組みに入り組んだ細道の先から、(しゃが)れた声がした。暗がりに閉じられた扉の中へ、僕らは駆け込む。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!