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結葉に対しては、自分でもどうしようもないくらい狡賢くて我欲を押し殺せないもうひとりの偉央が、華奢な妻の身体を身動き出来ないよう押さえつけたまま、彼女の耳元で「帰ってきて、お願い……」と、懇願する。
それは、流されやすい妻の優しさをズルいくらいに計算し尽くした言葉だった。
偉央からすれば決死の問い掛けだったその言葉に、あろうことかあんなに従順だったはずの結葉が、ビクッと身体を震わせて小さくイヤイヤをして。
「もう、無理……なのっ。お願ぃっ、離してっ。偉央さん……!」
と明確に偉央を拒絶する。
それだけでも偉央にとっては耐え難い苦痛だったのに、そこで来訪者を知らせるチャイムの音が部屋内に響いて。
途端、結葉がその音に弾かれたみたいに激しく抵抗を始めたから堪らない。
それだけならまだしも、まるで偉央の泣きたい気持ちに追い討ちをかけるみたいに「……想ちゃん、助けて……っ!」と震えた声を絞り出したから。
偉央のなかで何かがプツリと切れた――。
***
想は三二階までたどり着くなり、はやる気持ちを抑え切れずにエレベーターの扉が完全に開き切る前に身体を横にして、すり抜けるように廊下にまろび出た。
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