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序章
倦怠感から始まり、関節痛、そして全身へと痛みが広がる。嘔吐や下痢はなく、内臓や筋肉、骨に至るまで全てに痛みを発症。その激痛で屈強な大人でさえ悲鳴をあげるが、気絶も出来ずに睡眠もとれない。朝も昼も夜もわからない痛みだけを感じる朦朧とした意識のなか、叫び続けて声も枯れ、衰弱し、動くことも出来なくなる。恐らくだが、瞬く間に町中に広まったことを考えると、伝染病の一種。伝染元は、最初に発病したある一家の少年と思われる。
痛み止めや睡眠薬の類は一切効果なし。
原因不明の奇病。
前例なし。
セリナは医学書を投げ捨てた。
ぎりりと歯を食いしばり、本棚を叩く。本棚が揺れて、医学書ではない古代学の魔術書が落ちた。かつて医学も魔術も近しい世界にあったころの名残で、祖母の家にはこういった古い迷信ともいえる医術の本も数多あった。
(治療法がないなら、考えないと。似た前例を探そう。かからない人だっているのよ、ここに。何か理由があるはず。なんとか、道を見つけなきゃ――)
ふと、足元に落ちた魔術書が視界に入った。
そこにあったのは、命を得る方法。咄嗟に本へ飛びつき、そのページを読み漁る。
――命を得るには、命を奪う必要がある。生きたままの人間の心臓をひと突きにし、その心臓が息の根を止める前に生き血を体内に取り込む。殺した者の生気を僅かに得ることができ、その分術者の寿命が延びることとなり――
セリナは本を投げ捨てた。こんな狂った禁断書が読みたいわけではない。知りたいのは、病に苦しむ人々を助ける方法なのだ。
やはり医学書を頼りに、原因を突き止めなければ。そう思って立ち上がったが、どこへ行けばいいのだと迷って足を止める。
「……駄目じゃないの」
何度、その答えに行きついただろう。
感染源を特定するために、最初の発病者の少年の行動を辿った。何度も足を運び、原因を探したが見つからない。「外」の者へ助けを呼びに行く手もあるが、伝染病が広がっているとなると町ごと――いや、森ごと燃やされてしまう可能性のほうが高い。
結局セリナは、誰一人として救えない。
誰一人として。
「……セリナ」
皺がれた声音が耳に届いて、はっと顔をあげた。セリナの唯一の身内であり、医学と魔術の師匠である祖母だ。
セリナは慌てて、居間に敷いた藁のうえで横たわっている祖母の元へ駆け寄った。元々細い人だったが、病にかかってから益々細くなった。けれど、こうして声をかけてくれるのは三日ぶりで、現状は全く打開できていないというのに、セリナの心は少しだけ軽くなった。
「お祖母ちゃん、呼んだ? お水飲む?」
「助けておくれ」
「うん。任せて。今、治療方法を調べてるから。すぐに見つけて皆を治すわ」
「……苦しいんだ。お前が皆を、救っておくれ」
「お祖母ちゃん? 勿論、私が」
「苦しまないように、心臓をひと突きにするんだ」
セリナは息を止めた。
祖母の顔をまじまじと見つめる。
「もう、お前しか残っていない。お前が、皆を、開放してやってくれ」
セリナは首を横に振る。何度も、何度も。
いつだって命を救うことに全力で挑んできた祖母がこんなことを言うなんて。セリナはふらつきながら後ろへ下がり、樹で作った机に腰を強かぶつけた。
カラン、と何かが落ちた。足元を見れば、街へ降りた際に購入してきたばかりの包丁が落ちている。この山奥にある閉鎖的な町から、ふもとまでは遠い。品物を購入するときは、まとめ買いが常だった。視線を机の上に向ける。先月に購入してきた新品の包丁が、十本以上。これだけあれば、町人全員を――。
「……駄目。そんなの、駄目」
「セリナ。最後の、お願いなんだよ」
祖母の言葉に、唇を噛む。
落ちた包丁を拾って、祖母の元へ向かった。清んだ湖のように美しい祖母の瞳が、一瞬だけセリナを捕らえる。
「すまないね、セリナ……ありがとう」
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