1、医者はやめた

1/1
126人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

1、医者はやめた

 セリナは小鳥の囀りを聞きながら、朝食の支度をしていた。  こんな四方を大森林に囲まれた掘っ建て小屋で暮らす身としては、家庭菜園で収穫した野菜や森で取ってきた山菜などを使って作る食事だけが、唯一の楽しみだ。昨日は山から栗を採ってきたので、栗を使って菓子を作ろうと思っている。どうしても山暮らしが続くと、甘いものに飢えてしまう。  鼻歌を歌いながら、セリナは皿代わりに使っているビズの葉を棚から取り出した。そのとき、ふと壁にかけた鏡が視界に入って自分の顔を見つめる羽目になる。  鏡のなかには、腰まで長い茶髪をした娘がいた。ぼさぼさの髪に、所々ほつれた薄手のドレスがみすぼらしい。顔も美しいわけではなく、普通。不細工ではないだろうが、超がつく普通。唯一、濃い紫色をした瞳だけは気に入っているので、こうしてみすぼらしい娘が鏡から覗いていても、その瞳だけを見ることで悦に浸れる。  元々、セリナには、部屋に鏡を飾る趣味はない。  この鏡は去年、街に降りた際に急病人の子どもを助け、その見返りに貰った品の一つだ。別にいいと言ったのだが、押し付けられるように子どもの両親からたらふく褒美を貰ってしまった。そのとき招かれた屋敷が豪邸だったので、助けた子どもの家庭は裕福な商人か貴族のどちらかなのだろう。  おそらくこんな寂れた掘っ立て小屋に飾るような陳腐な鏡ではなく、もっと豪勢な屋敷にこそふさわしいのだろうが、使わないまま寂れていくのも勿体ないのでとりあえず飾ってあった。  ふと、聞きなれない音が微かに耳に届く。  普段の生活のなかには、ない音だ。  その音は徐々に近づいてきて、空気や地面を揺らすほど強大なものになる。 (これって、馬蹄?)  判断が遅れたのは、地を伝って聞こえてくる振動が複数あったからだ。ただの足音では、こうは響かない。恐らくは、この小屋から少し離れた場所にある山道を、軍人たちが馬で駆けているのだろう。  しかし、こんな辺鄙な場所へ軍人が何をしにきたのだろうか。見回りの衛兵か。 (まぁ、関係ないか。どうせ山道からはこの小屋が見えないし)  そのうち通り過ぎていくだろう。  セリナは、安易にそう考え、気を抜いていた。  川で捕った魚を使った昼食を食べ終えたあと、栗を煮詰めて瓶に詰めていると、ふと、足音のようなものが聞こえた。身体を強張らせ、気のせいだと願う気持ちを込めながら耳を澄ませる。  ザッ、ザッ、と間違いなく足音がする。  人数は――ひとり。  歩き方からして、老人や子ども、女性ではない。おそらくだが、大柄な男。乱れのない足音からして、訓練された軍人かもしれない。  ふと、今朝がた聞いた馬蹄を思い出した。  やや黙したのち、セリナは栗を詰めた瓶を置くと、ドアへ向かう。一歩踏み出したとき、丁度ドアを叩く音がして顔を顰めた。  この「隠れ家」に訪問客がくるなんて。  セリナはゆっくりと深呼吸をして、軽く拳を握る。 (大丈夫、落ち着こう)  決意を固めて、何気ない表情をつくってドアを開いた。  漆黒の壁があった。 「突然の訪問、失礼する」  頭上から降ってきたのは、低い男の声。同時に男はセリナと距離を取った。それでも軽く見上げなければ男の顔を見ることが出来ず、セリナはゆっくりと訪問者の男の顔を見つめる。漆黒の瞳を見た瞬間、セリナの脳裏に禍々しい恨みの感情が流れ込んできて、とっさに頭を押さえた。  その痛みにも似た感情を振り払い、再び男を見上げる。  短い黒髪に、生真面目さを絵に描いたようなきりりとした瞳。長身に似合う大柄な体躯と、端正で精悍な顔がそこにあった。歳は、おそらく三十歳前後だろう。身に纏っているのは、漆黒の軍服と軍手。そして、真紅のマント。胸の辺りに装飾を目的とした甲冑をつけており、甲冑には剣と炎が複雑に絡まり合った紋章が描かれている。この紋章は、ディトール王国のものだ。 (ってことは、ディトール王国の軍人? えっと、漆黒の軍服に赤いマントって、ナニの部隊だっけ。階級は?)  どうも隠居暮らしが長くて、世間のことに疎くなってしまう。  時代はすぐに移り変わるので、いちいち覚えていられないということもある。  セリナは首を傾げてみせた。 「騎士様……が、何かご用ですか?」 「お前が、どんな難病も治すという奇跡の医者か」 「はい?」 「腕のよい女医師がいるという情報が、王宮へ寄せられた。それを頼りに、お前を探していた」  男は無感情な声音で淡々と述べると、セリナの全身を見つめる。汚い自覚はあるのであまり見ないでほしい、と思っていると、案の定眉を顰められる。 「……若いな、十六歳くらいか。ここに、例の医者はいるか。お前の母か祖母がその医者か」 「私は一人暮らしよ。生憎、医者は辞めたの。第一、奇跡の医者とか大げさすぎ」  街へ降りた際に助けた子どもから、大げさに話が伝わったのだろうと察した。身分がよい者だったし、何かしらの理由があって王都へ情報が漏れたのだ。  セリナは、軽く手を振って男を見る。 「悪いけど、私くらいの腕の医者ならごろごろいるから。他を当たって」 「バロックデール家の子息の病を治したのは、お前だろう」 「……あー、そんな名前だっけ。なんか長いから覚えてなかった。カム君のことでしょ? でも、難病っていうのは大げさじゃないの。彼、ビジル病よ。ビジル病は発作が出た瞬間に胸部中央下を圧迫しながら――」 「彼は、デッタスデクスだった。デッタクデクスは、不治の病で一度かかると激しい胸痛の発作を繰り返し、二十歳まで生きられぬ病と言われている」  なにその変な名前の病気、とセリナは胸中で顔をしかめた。 「……あっそ。最初の医師が診断を誤ったんじゃないの。ビジル病は珍しいけれど、治療不可能じゃないわ」 「そんな名前の病は知らない」 「あんた医者?」 「騎士だ」 「だったら、知らなくても当然でしょ」  ドアを強引に閉めようとすると、男は大きな手でドアを遮った。 「離して」 「伯爵家専属の医師が診断を誤った病気を瞬時に見抜き、対応したお前の腕は素晴らしい」 「ありがと。さ、帰って」 「お前を王都へ招きたい」 「いや」 「断る権利はない。これは勅命だ。王都へ出向き、王女殿下の病を治療せよ」  セリナはこれ以上ないほどに顔を顰めて、男を睨みつけた。 「断ったら?」 「断る権利はないと言ったはずだ」  刹那、「団長、見つかりませ……あったー!」という、やたら軽快な声が聞こえて来た。男を睨んだままだったセリナは、駆け寄ってきて顔を覗き込んできた少年に目を見張る。  耳にかかる淡い金髪に、深い青色の瞳。人懐っこい笑みを浮かべた少年で、歳は十代半ばほどだろうか。成長途中なのか、背はあまり高くない。  漆黒のスラックスと、そしてやはり、軍服を着こんでいる。けれど、少年がまとっている軍服は灰色だ。階級によって色が違うのだろうか。 「わぁ、あなたが奇跡のお医者様ですか! 僕、フィンって言います。初めまして、セレス様!」 「セリナよ。セレスは薔薇の名前だから、間違えないで。完全に名前負けするから」  少年は冷ややかなセリナの態度にも怯まずに、ニコニコと笑みを浮かべたままだ。 「なんか思ってたよりもお若いんですね。それに、なんか汚いなぁ。お風呂とか入ってます? 医者の不養生は駄目ですよ」 「余計な世話よ。生憎、四日前に川で水浴びしたから」 「四日はさすがに長くないですか? せめて二日に一度は入りましょうよ! 髪は洗ってます? 僕、髪を洗うの上手なんですよ。洗ってあげましょうか」 「……フィン、話の途中だ」  一段と低い声が発せられ、フィンは「はっ」と敬礼をしてみせる。 「他の者たちを、集合場所へ集めておいてくれ。帰還する」 「かしこまりました!」  フィンは踵を返して、駆けていく。素早い。  セリナは、じっと残された「団長」と呼ばれた男を見上げ、口の端をつり上げる。 「強制的に連れていこうってわけ? 王女様を治療させに」 「ああ」 「……病名は?」 「それは、治療に関して是ととってよいのか」 「治せる病気なら治してあげなくもないってこと」 「話した時点で、お前は全面的に協力せねばならない。王女殿下の病については極秘裏のことだ」 「元々拒否権はないくせに」  セリナは胸中で舌打ちをした。  つまり、王女が病気である、という話をされた時点で、セリナは断ることが出来ない――それでも断ったなら、この場で首を刎ねられるということか。 (だから、権力者って嫌い)  治療できなかった場合は勿論だが、治療できた場合であっても、事情を隠蔽するために殺される恐れがある。そんな物騒なところへ行ってたまるか。 「逃げることは許さない」  セリナの胸中を読んだかのように、男は帯刀していた剣に手を掛ける。  沈黙が降りて、ややのち、セリナはため息をついた。 「わかった、準備をするから時間をちょうだい」 「逃げようとしても無駄だ」 「着替えとか準備するの! それともなに? 着替えや日常品まで用意してくれるの?」 「必要とあらば」 「生理用品も? あんたが買いに行ってくれるの?」  男は露骨に顔を顰めて、不機嫌そうにため息をついた。 「早く準備しろ。だが、逃げようと思うな。その場で殺す」  セリナは負けないくらい顔を顰めて、小屋のなかへ戻った。ちらっと鏡に自分の顰められた醜い顔が映ったが、もはやどうでもいいほどに腹が立っている。  もっと早く逃げておけばよかった。  そう後悔しながらも、仕方なく身支度を整えた。  半ば強引に、セリナも「集合場所」という山道へ連れていかれた。その際の、軍人たちの奇異な者を見る視線が忘れられない。  セリナはフィンの馬に共に乗せられ、一番近い町まで行くと用意されていた馬車に乗り込んだ。国王の勅命で呼ばれたわりには、なかなかもって貧相な普通の馬車だ。経済の悪化で国庫に余裕がないのか、はたまた元より期待されていないのか。  おそらく後者だろう。  ほかにも何人もの医者を国中から呼び寄せているに違いない。  馬車に揺られているうちに、うとうとと眠くなってきた。することもないのでとりあえず寝ていると、肩を揺さぶられて意識が浮上する。 「起きてください、着きましたよー」 「あ、おはようフィン。もう朝食?」 「寝ぼけないでくださいよ、今は夜ですよ。宿についたので、ゆっくりおやすみになってください」 「……宿?」  フィンに言われるままに馬車から降りると、そこは宿というより貴族の屋敷だった。 「でかくない?」 「ここは、××伯爵の別荘なんです。お借りすることになってるんですよ、どうぞ遠慮なく使ってください。あ、××伯爵はいませんから。使用人も暇を出されています。何しろ、僕たちの行動理由は極秘ですからね!」  ナニ伯爵って? と聞き返そうとして止めた。やたらフィンが滑らかに話すので、聞き取れなかっただけだ。一晩屋敷を借りるだけの伯爵の名前などどうでもいい。 「極秘って、これだけ目立っておいて?」 「表向きは、土地や人々の生活調査です。僕たち王都の騎士が出向いてわざわざ調べる、これこそ国王の人気取りの秘訣ですよ。国王様は、そこまで下々民たちを思ってくださっているんだな、と。そう思わせる効果もあるんです!」 「……そんなぺらぺらしゃべっていいの?」  幸いセリナとフィンの会話を聞いている者はいないようだが、必要のないことまで話すのは国王に仕える騎士としてはどうだろう。 「あれ、駄目なんですか? セリナ様は、王女殿下を救ってくださるんでしょ?」  やたらキラキラした瞳で見つめられて、セリナはさっと視線を反らした。  そんなフィンに案内されてたどり着いたのは、屋敷の最上階にある客間だった。清潔感があり、手入れは行き届いているようだ。  窓から外を見ると、広い庭で野営する騎士団の者たちが見える。 「ね、素敵なお部屋でしょう? 好きに使って頂いて構いません。お夕食とお風呂は、またお知らせに来ますね」 「あのさ、強引に馬車に乗せられてここまで来たけど。あんたたちって、何者?」  フィンは目を丸くして、慌てたように拳で胸を叩いた。そして、手を額に当てて敬礼の態度を示す。 「僕たちは、カイン団長率いるディトール王国第一部隊です」 「第一部隊って秘密裡の行動を任せられてる隠密みたいな機関?」 「いえ。第一部隊は、国王陛下直属の部隊です。近衛兵は陛下の身の回りを守る護衛ですが、僕たち第一部隊は陛下の命令で様々なことを行います。勿論、隠密な行動も」  フィンはにっこりと微笑む。  無邪気な笑みなのに、初めてその笑みがどこか腹黒く思えた。 「あ、でも、カイン団長は別格ですよ。第一部隊の団長も兼ねてますが、本職は軍部を統括する司令のお一人です。騎士位でいうと、最上級の聖騎士なんですよ。聖騎士は、ディトール王国で五人しかいないんです。ほんっっとうに、凄い方なんです!」 「よくわかんない」 「とにかくすごいお方なんです」 「そんなすごいお方を私が住んでるような辺鄙な山奥まで派遣するんだから、国王陛下は随分と王女様を心配なさってるのねぇ」  そう告げて、ソファにどっかりと座る。予想より遥かに座り心地がいい。ここでもうひと眠りするのもいいかもしれない。 「勿論ですよ、王女殿下はそれはもうお美しい方ですし。カイン団長の婚約者でもあるんですよ」 「ああ、なるほど」  婚約者の病気を治すためならば、なんだってするだろう。増してやその相手は一国の王女だ、しかも美しいという。命がけでも治したいのだろう。  カイン、というあのやたら逞しい体躯の男を思い出して、セリナは顔を顰めた。 「じゃあ、僕は仕事に戻ります。何かご用がありましたら、呼んで下さいね」 「どうやって」 「え。あ、窓から叫んで下さい」 「わかったわ」  絶対に呼ばない、とさりげなく心に決める。  フィンが出ていくと、セリナはソファに寝ころんだ。世の中にこんな心地よい椅子があるなんて。  浅い眠りに身を浸していたセリナは、ドアを叩く音で意識を浮上させた。いつの間にか結構時間が経っていたらしい。 「夕食ですー」 「はーい」  返事をすると、フィンが台車を押しながら部屋に入ってきた。あくびを噛みしめながら立ち上がったセリナは、木造りの机に置かれた食事を眺める。鶏肉を中心に、煮た野菜にあんかけを掛けたもの、梨の甘露煮、ライ麦のパン、それからミルク。 「随分と豪勢ね」 「そうですか? むしろ、旅の途中なので結構質素だと思いますよ?」 「……ちなみに、あんたの所属してる第一部隊って、全員貴族?」 「勿論です。近衛騎士と第一部隊は、伯爵家以上の出自でないと入隊できませんから」 「へぇ」  この食事で質素だなど、庶民が見たら激怒しかねない。だが食べ物に罪はない。せっかく出されたのでありがたく頂くことにした。 「それじゃあ、次はお風呂が用意できたら呼びに来ますね」 「ええ。あ、そうだ。王女様の病気について聞いてないんだけど、容態が急変したりはしないの?」 「詳しくは僕も知らないんです。ただ、ずっとお部屋から出てこられないと聞いています」 「あの団長は知ってるのよね。婚約者の偉い騎士様だもの」 「ええ、おそらく」 「じゃあ、伝えてくれる? 腹を括ったから、全力で王女様を治す努力をしますって。病状について知りたいの。急変するものなら、急がないといけないから。なんなら、馬車の悠長な旅じゃなくて、馬を飛ばしてもいいわ」  フィンは驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。 「はい、お伝えしておきます! さすが、噂に名高い名医様ですね」 「私は医者を辞めたの、もう医者じゃないわ」 「えー、そうなんですか。勿体ないですよ。っと、あ、そうそう。団長は極度の女性嫌いなんで、こられないかもしれません。もしこられても無礼な態度をとるかもしれませんが、悪気はないんで」 「……なるべく来て欲しいって伝えておいて」 「はぁい!」  フィンを見送ってから、静かになった部屋で一人夕食を摂る。フィンの明るさが消えると、静かすぎる部屋がうるさいくらいだ。  夕食は美味しかったが、長年、山のモノばかりで調理をしてきたセリナにとっては、やや味が濃い。一体どんな調味料を使っているのだろうか。  こんなにたくさん食べたのは久しぶりだったので、またまた睡魔が襲ってくる。けれど、うとうとし始めたところでフィンが風呂へ呼びにきた。フィンに案内されて風呂場へ行く途中で、「団長、あとで来るって言ってましたよ。明日の段取りを確認してからになるそうですが」と言っていたので、セリナは黙って頷いた。  風呂で髪を洗い、身体の垢を落とした。  仮にも王都へ行き、王城へあがるのだから、それなりに身ぎれいにしとかなければならない。身体中を綺麗にして、用意してきた着替えに袖を通す。あいにく寝間着の類は持っていないので、いつも通り普段着のドレスに着替えた。先ほどまで着ていたドレスに持ってきた消臭薬をふりかけ、丁寧に畳んで置いておく。  風呂を出て宛がわれた客間に戻る途中で、ふと、窓から空を見上げる。星々の明かりがぼんやりと廊下を照らしているだけで、ろうそくの類は一切使われていなかった。 (王都まで、馬車でひと月くらいって言ってたっけ)  王都など、セリナの長い人生のなかで一度も行ったことがないし、行く機会などないと思っていた。 (王女様って、どんな人なんだろ)  セリナは医者を辞めた。だから、関係ないと割り切ろうと思った。けれど、もし、本当に王女がとてつもない重い病に苦しめられており、それをセリナが救うことが出来たら。  そしたら、セリナは――少しだけ、「許して貰える」んじゃないか。  そんなずるいことを、考えてしまっている自分がいる。  自嘲した。 (許されるはずなどないのに)  セリナが背負っている罪は、生涯背負わなければならないものだ。許される日など、くるはずもない。  強引に思考を頭から追い出した。  どの道逃げ出すことができないのなら、王女を治すしかないだろう。治すことができれば、解放して貰えるかもしれない。それどころか、何か褒賞だって出るかもしれないのだ。少しでも明るい未来を考えて、一人で頷く。  客間が近くなると、部屋の前に立つ長身の男がいた。  じっとドアを見つめている。何をしているのかと観察していると、腕をあげてドアを叩き、ひたすら返事を待ち――また、ドアを叩く、という動作を繰り返している。 「……何やってんの」  声をかけると、男――カインが驚いた顔で振り返った。  昼間の軍服姿ではない。詰襟の白い長袖のシャツと、白い手袋をしている。 「なぜそこにいる」 「風呂から戻ってきたの。もしかして、私が返事するの待ってたの?」  カインは、頷く。 「……いつからここに立ってるの」 「ニ十分ほど」 「あのね、返事がないんだから不在でしょ。私が逃げ出してたらどうするの」 「女性の部屋へ無断で入ることはできない。それに」  カインはやや言葉を選びながら、告げる。 「お前が私を呼んだのだから、部屋にいると思っていた」 「……そう。まぁ、とにかく入って。色々と聞きたいことがあるから」  随分と軽率な思考を持っているな、と思いながらも、カインを部屋に通した。ソファに座ると、カインは向かい側のソファ――その背後に立つ。  セリナは、フィンに持ってきて貰っていた水差しからコップに水を注ぎつつ、カインへ問う。 「王女様の病名は?」 「わからない」 「知らない、じゃなくて、わからない」 「そうだ」  水を飲みながら、カインの様子を伺い見る。特に感情を押し殺しているようには見えない。「愛する婚約者」のことを問うているのだから、少しくらい辛そうな顔をしてもいいのに。 (……女嫌い、ねぇ)  つと目を眇めたが、すぐに視線を落とす。 「病状は?」 「眠っておられる」 「意識がないってこと?」 「ああ。一度も目を覚まされない」 「……昏睡状態ってことね。他に症状は?」 「ない」  え、と顔をあげる。 「熱や痛みは? 発疹とか」 「何もない。ただ、眠られている。ずっと」 「ずっと、って。どのくらいよ。まずいわ、昏睡状態は長く続かないのよ? 衰弱死する前に、なんとかしないと!」  すぐにでも王都へ向かおう、と立ち上がったセリナとは反対に、カインは落ち着いたまま口を開く。 「王女殿下は、もう半年以上眠ったままだ」  ぴた、とセリナは動きを止め、まじまじとカインを見つめる。相変わらずの無表情は、冗談を言っているようには見えない。 「……病状はなく、眠っているだけ?」 「そうだ。侍医はこのままでは衰弱死すると告げたが、それから半年近く過ぎた今も尚、王女殿下は眠られている。陛下は一類の望みをかけて、名医を集め王女殿下の病を治そうとなさっているのが現状だ」  セリナはソファに座り直して、ため息をついた。ふと、手にコップを持ったままだったことに思い至って小棹の上に置く。 「眠り姫って童話、知ってる? 王女様が、永遠の眠りにつくの」 「知らない」 「あら、そう。童話ではね、王女様は罪を犯すの。そしてその罪の証として、呪われてしまうのよ」  ぴく、と初めてカインの眉が動く。しばらく待ったが、カインは何も言わない。にやりとセリナは笑った。 「怒らないの? 王女殿下に対して無礼な、って。呪いなんて非現実的な、って」  カインの瞳を見つめる。  髪と同じ漆黒の瞳は真っ直ぐセリナを見つめ返してくるが、やや感情が表に出てきたようだ。この感情は、動揺だろう。  無感情の仮面が崩れつつある。 「用はそれだけか。もう用がないのなら、私は戻る」 「急がなくてもいいの? 王女様は、いつ衰弱死してもおかしくないのよ」 「あいにく、王女殿下の姿は健康そのものだ。頬も薔薇色、髪も艶やか、どこも悪くはない」 「ふぅん」  適当に相槌を打つと、カインは話は終わったとばかりに踵を返した。 「呪いって信じる?」  大きな背中に向かって、問う。カインは勢いよくセリナを振り返る。その瞳はこぼれんばかりに見開かれており、無表情の仮面が壊れて感情が漏れてきたことを知って、思わず笑ってしまった。 「ねぇ、信じる?」 「お前は医者だろう。医術と呪術は違う」 「昔は似たようなものだったのよ。魔法薬の調合が現代の医学に進化したの。魔術の要素が廃れただけ。……実在するのよ、魔術は。特に、呪術の類は現在も使われている」  こういう話をすると、大抵の者は脅えるか笑うだろう。  けれど、カインはどちらの様子も見せない。黙って聞き、ひたすらに厳しい表情を作っている。 (察してた、ってところかな)  おそらく、カインも王女の昏睡状態に不信を抱いていたのだろう。医学では治せないものなのではないか、と。  ややのち、押し殺した声が耳に届く。 「治せるのか」 「種類によるけど。……ねぇ、もう少し傍に来て」 「なぜ」 「治療に必要なの」  カインは露骨に嫌な顔をしたが、セリナの向かい側のソファに座った。間にある机に手をついてセリナが身を乗り出すと、カインは限界まで後ろへ身体をそらした。  カインの、黒い瞳をじっと見つめる。  セリナは、おもむろに手を伸ばした。その手がカインの首筋に触れようとした瞬間、手袋をはめた手で、腕を叩かれる。 「触るな」 「……なるほど。だから、女嫌い、ねぇ」  カインは息を詰めた。まじまじとセリナを見つめてくる。 「根強いわね。一族自体が呪われてる。かなり殺してきたんじゃないの、獣の類を。しかも、雌ね。腹に子どもがいる犬……いや、狼かしら」  カインからは、禍々しい恨みの感情が溢れている。けれど、それは彼自身の感情ではない。カインに憑いている、ナニかのもの。  犬神つきという有名な呪術がある。犬を生贄として定期的に殺すことで、家に繁栄をもたらすというものだ。もっとも、使用されるのは犬だけではない。猫や山羊、鶏も多く、その他の家畜や珍しい生き物、中にはヒトさえ生贄にする家もあるという。 「あんたの実家、貴族なんでしょ? どうやって富と地位を手に入れたの?」  カインは目を眇めた。その視線は鋭利で、射殺さんばかりに睨みつけてくる。 「……確かに、実家はかつて狼神つきの儀式を行っていた」 「なんだ、知ってるんじゃない。その積り積もった呪いの塊が、あんたに憑いてる。腹に子を宿した狼を殺したのがいけなかったわねぇ。確かに呪術としての効果は強いけど、恨みも強い。あんたにかかってる呪縛は、子孫繁栄を阻むもの。つまり、異性の肌に触れるとなんらかの呪いが発動する仕組みになっている。……だから、女嫌いを通している、自分が呪われた身であることを隠すために」  セリナはソファに身を沈めると、にやりと笑った。 「呪いをその身に浴びているあんたは、呪術の存在を知っていた。だから、王女様が目覚めない様子を知ったとき、実は呪いなんじゃないかって思った。私が、王女様の病気の原因が呪いかもって言って驚かなかったことが、その証拠。おそらく王女様は何らかに呪われている。そして、あんたは狼神つきが原因で呪いにかかってる」 「……何が言いたい」 「私、本物でしょ? 医術は勿論、魔術にも精通してるのよ。古代医学を学んだから。だからもし王女様の病気の原因が呪いなら、治せるかもしれない。でも、王女様が呪われてるなんて世間に知れたら醜聞もいいところよね? 王女様を治せても、事情を知っている私を、国王や地位ある者たちが消そうとするかもしれない。そこで、取引よ」  セリナは、机に手をついて少しだけ身体を乗り出した。  にやりと笑い、カインの目を見て告げる。 「王女様を治せたら、私を逃がして。こっそり手引きしてくれるだけでいいの。あんたは私が勝手に逃げたことにすればいい。私を自由にしてくれたら、あんたの呪いも解いてあげる」  カインは徐々に目を見張っていく。 「……解けるのか」 「断言はできないけど、可能性はある。どうする? 王女様の呪いだけ解けたら、あんたは王女様と結婚するんでしょ。夜の営みで肌を合わせないわけにはいかないし、呪われた身であることがバレちゃう。あんたは勿論、魔術を行っていた実家も失脚。……それとも、私を逃がして全部まるっと上手く済ませる?」  カインは深く息を吐き出して、端正な顔を顰めた。 「……国王陛下は素晴らしい方だ。王女殿下を救ったお前を殺すとは思えない」 「それならそれでいいのよ、あんたとの取引は保険ってとこ」 「陛下には取り立てて頂いた恩義がある。私は陛下を裏切れない」 「別に裏切れってわけじゃないわよ。そもそも、その恩義ある陛下に、あんたが呪われた身であるって知れてもいいの? 王女様との結婚が控えてるんでしょ」 「結婚はしない。例え、我が身の呪いが解けてもだ」  え、とセリナは目を瞬く。 (嘘よね。それじゃ、取引材料が……いや、でも、なんとかなる、かも)  セリナは焦りを表情には出さず、ただ驚いた顔を作った。 「なんでよ、王女様と結婚できたら出世間違いなしじゃない。生涯安泰よ?」 「生憎、私の女嫌いは事実だ」  カインは立ち上がり、真っ直ぐにドアへ歩いていく。 「お前と取引はしない。だが、陛下は王女殿下を救った医者を処罰なさったりはしない」  振り返りもせずに、カインはそう言い残して去っていった。  セリナは軽く舌打ちをして、ソファに寝ころぶ。せっかくいい取引材料を得たと思ったのに。 「……駄目だったか」  けれど、あの真面目そうな騎士団長殿が国王について素晴らしい方だと断言するのだから、国王については杞憂だったのかもしれない。問題は、呪解する際に呪った相手を特定せねばならないことだ。かりにセリナが他言せずとも、セリナが呪解した段階で相手には伝わるだろう。  どの道、セリナは口止めのために命を狙われる羽目になる。 (面倒くさい。もう考えるのは辞めよ。なんとかなるって)  そう自分に言い聞かせ、画策はとりあえず明日に持ち越すことにする。今日はふかふかなソファで眠るとしよう。 「……ちょっと待って。もしかしたらベッドはもっとふかふかなんじゃないの?」  思い至った考えは、当たっていた。  ベッドに身体を滑り込ませ、シーツの肌触りを堪能しながらセリナは眠りにつく。こんな贅沢が出来るなんて、幸せだなぁ、と思いながら。  ふと、目を開いたセリナは記憶が混濁していることに気づいた。なんだか怖い夢を見ていた気がする。怖い夢……そう、故郷で疫病が流行って、自分以外の全員が感染してしまうという夢だ。  セリナは今、祖母の自宅兼診療所の資料室で本を読み漁っていた。土と藁を使って作った漆喰の壁だが、山奥に隔離されたこの町は災害も少なく台風や竜巻は勿論強風もほとんどないため、住処としては充分だ。  セリナは立ち上がった。  そろそろ昼になるから、怪我人や病人がいないか町を巡回しておかないと。  家のどこかにいる祖母に「出かけてくるー」と叫び、セリナは町へ向かう。町から少しだけ離れた場所にある祖母の家から、足取り軽く歩き始めて――そして、すぐに足を止めた。  祖母の家に続く道。そして、その道の奥に見える町の至る所に、人々が倒れている。年齢は様々、性別も男女混合。共通点は、生きているのにほとんど動きがなく、痛みのせいで意識さえ朦朧とし、もはや悶え苦しむ力さえ失っているということ。  セリナは、がくりと膝をつく。  夢ではなかったのか。現実だったのか。では何が夢だ。なぜセリナは、これから起こる地獄と己の罪を知っているのか。 (私は、このあと皆を――)  ずぶり、と手に蘇った肉を裂く感触に、絶叫した。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!