雨のなかで

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雨のなかで

 六か月に及ぶ点滴治療は、最初の三か月は三週間に一回、後の三か月は一週間に一回、通いで行われた。後半の点滴は落としきるまでに二時間以上かかる。その頃には、世界はすっかり夏になっていた。点滴が終わると、蒼子は徒歩で家に帰る。時間は夕方だが、外はまだ明るい。蒼子は油断していた。傘を持たずに来たのに、帰り道急にぱらぱらと雨が降り出した。 「夕立だ。やんなっちゃうなあ。ウィッグが濡れちゃうよ」  蒼子は頭を押さえて小走りに走りだした。ふいに誰かに腕を掴まれる。見ると、水色のスーツに身を包んだ若い男のひとだった。色素の薄い肌と髪、吸い込まれそうな瞳。楽し気に微笑んだ口元。そのひとは開いた傘を蒼子の左手に握らせ 「行こう」 と言って、右手を取って駆けだした。蒼子はなんだか楽しくなって、その男のひとに導かれるままについていった。スクランブル交差点の真ん中で、そのひとは立ち止まった。蒼子から手を放すと、蒼子の正面に立ってタップを踏み始める。雨に濡れたアスファルトの水を弾いて彼は軽やかに踊る。  ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。  君も、というように彼は両手を広げほほ笑んだ。蒼子は戸惑う。すると、交差点を歩いていたひとが急に振り向いて、傘を片手に踊り出した。  ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。  あのひとも、このひとも。蒼子の周りにいるひとたちがみな、こちらを振り向いて満面の笑みで踊りだす。楽し気に踊っているひとたちは大きな輪を作って、そのなかに蒼子とさきほどの男のひとがいる。蒼子はすっかり楽しくなってしまった。周囲を取り囲むひとたちは、傘を使って息の合った美しいダンスを披露していく。色とりどりの傘が舞う。なんて素敵なんだろう。まるで夢みたいだ、と蒼子は思った。 「どこまでもゆける。どこまでもゆける。どこまでだってゆける」  人々は歌っていた。蒼子は男のひとを見た。彼は、さあ、というように手を延べた。もう踊るしかない。どこまでもゆける。どこまでもゆける。私はどこまでだってゆけるんだ。蒼子は踊り出した。男のひとの優し気な瞳を見つめながら。  ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。  男のひとは蒼子の手を取った。ふたりのダンスが始まる。なんの練習もしていないのに、息ぴったりに踊れることが嬉しかった。見つめ合い、くるりと回り、手を広げて。こんなに楽しいことがあるだろうか。胸がときめく、こころが弾む。ふたりで決めのポーズを取ると、 周囲からわあっと歓声が上がり、拍手が巻き起こった。蒼子の周囲が光を放っているように感じられた。拍手はだんだんと遠くなり、まるで雨音のようになり、蒼子はその場に静かに崩れ落ちた。濡れた地面に横たわって、そしてやがてなんの音も聞こえなくなった。 …………………
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