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 母親は父親に邪険にされていたが、それでも父親を尊敬していたし、娘の雅美にもたっぷりと愛情を注いだ。今思えば、母親は聖母のような女性だった。だったというのは、もうこの世にはいないのだ。  母親は肺がんを患った。発見したときはステージ4で、もはや手がつけられない状態だった。  享年五十五歳だった。若すぎる死に雅美を含めて母親に近しい人たちが悲嘆に暮れた。父親は涙一つ見せなかったが、わたしたちの知らないよころで泣いていたのかもしれない。  雅美の絵は二科展や院展ではそれなりの評価を得た。だが、市場ではたくさんの作品の中に埋もれてしまった。  芸術の世界は甘くはない。雅美はいつしか、絵筆をとる情熱を失ってしまった。  父親の紹介で、雅美は美術館の職員という職を得た。毎日、好きな絵に囲まれて生活できることを感謝する一方、絵筆を置いてしまった悔しさを忘れていいのかと、自身を叱咤する。相反する感情に揉まれる日々。そんなとき、雅美は猪俣幸三という男と出会う。  猪俣は雅美が勤務するY美術館の絵を買い付けに足繫く通っていた。歳は四十代後半で、五十代後半の父親と年齢の差はない。雅美から見たら、恋愛の対象ではなかった。  しかしながら猪俣には、若い男性にはない魅力を兼ね備えていた。もちろん、芸術に造詣が深いということもあったが、なにより身体中から発散される自信。そして、雅美への紳士的な振る舞い。これだけでも、雅美にはポイントが高い。若輩の男性には到底、手に入らないものをすべて持っていた。  人が恋におちるとき、魔法がかけられると、よく聞く。雅美はそのような非現実的な事象など、はなから信じてなかった。だが、いざ体験してみると、己の穿った見方に恥ずかしくなる。
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