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3
「頑張ってね。塩月くん」
「ありがとうございます。水野先輩!」
「塩月くん、これよかったら塩飴食べて!」
「嬉しいです!午後から頑張れます!」
塩月が経理部に顔を出すと皆、好意的だ。水野先輩初め、経理部の女性陣と話す時間は塩月の気分転換になっていた。
すると、女性の一人が「御笠社長だわ!」と黄色い声を上げた。出入り口から、御笠と新しく付いた美人秘書がやって来た。
「わー!あれが噂の女性秘書ね」
「えー!やっぱりそうなの?」
わいわいと話す女性陣の声に水野が「社長には奥さんと子供さんがいるじゃないですか」と言った。御笠の妻が亡くなっていると知っているからこそ、水野が言い出したくなったのだろう。
「でも御笠社長、指輪外してたし」
「最近、ずっとあの美人秘書といるんだもの!」
「それは仕事だからでしょう」
水野が御笠をフォローし続ける様子に、塩月はムッとした。塩月としては御笠に好きな人がいるのもまた事実なので、言い出さずにいられなかった。
水野先輩みたいにそこまで俺は優しくない。
「わからないですよ。社長だってハメ外したい時あると思いますし」
「そうそう最近、また分野広げるからってさらに忙しいじゃない?美人秘書を入れたのも忙しくなったかららしいけど。この前二人で笑い合ってたのを見かけたし、社長も満更嫌じゃないはずよ」
「いいご身分だよな」
こちとら失恋して傷心した挙句、社長に遊び相手にされて。仕事が忙しいから、次の恋人探しをする余裕がないのに。社長は好きな人と一緒に常に仕事してるなんて、いい気なやつ。
「塩月くん、暑い中外回りが大変なのもわかるけど、それ以上愚痴ったら、上に言うよ」
上とは北原のことである。ややこしくなるのは目に見えているし、何より水野に嫌われるのはごめんだった。
「…水野先輩がそう言うなら、もう言いません」
「あらあら、塩月くんは水野くんに弱いのね」
「先輩に嫌われるのは本当勘弁なんで…じゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
塩月が経理部に見送られて外を出ると、外回りから帰ってきた北原と会った。
「お疲れ様です」
「塩月、今夜は勝負だからな!絶対に勝つ!」
「わかってますって。水野先輩の膝枕をかけて!」
「水野もなんで塩月に甘いかな…」
「部長は恋人で、俺は大事な友達なんです!」
「わかってるよ…」
塩月は、北原と水野の膝枕をかけて水野宅で飲むのが増えた。
オセロ、将棋、囲碁、トランプに飽き足らず、最新の対戦ゲーム。
塩月は、北原と勝負をし、水野のご飯が食べるのが最近の楽しみになっている。
水野の友達であることが、塩月にとっての唯一、癒しだった。
充実している御笠を見て、塩月はついイライラしてしまった。
こうなったら北原の邪魔をして気分転換をしようと塩月は決めた。
その後思いの外、外回りが長引いた。塩月が腕時計の時刻を見ると夜、七時を回っている。今日は直帰します、と北原に連絡をすると「もう水野の家に来ているから来い」と返事があった。
どんな晩ご飯なんだろう、楽しみだな…!浮き足立ちながら、水野が好きそうな差し入れのデザートを買って行くことにした。
「お邪魔しまーす」
チャイムを押して、ドアを開いた。すると「おかえりなさーい!」と可愛い女の子の声がした。
「ま、真凜ちゃん?!」
「郁人が来るって聞いたから、北原のお兄ちゃんに連れて来てもらったの!」
郁人だっこーと嬉々としてねだった真凜を抱き抱えながら、もしかして御笠がいるのでは?と内心、気が引けた。
いや、別にいていいんだけど…なんか会いたくない気分なんだよな。
「塩月くん、お疲れ様」
「お疲れー!本当真凜に好かれてんなー塩月」
北原が先に水野の手料理である照り焼きを頬張ってた。水野は塩月の分の照り焼きを持ってきたところだった。
よかった、社長はいない…ってなんで俺は、安心してんだ?
「郁人、水野くんのご飯すごく美味しいの」
「知ってるって」
よくわからないが、いないならそれでいい。塩月は目の前に出された美味しそうな照り焼きとサラダと味噌汁、ご飯を一心不乱に食べた。
「真凜ちゃん、食べた後のお腹に乗るのやめて、きっつい」
「だって郁人、あれから真凜と遊んでくれないんだもん」
「ごめんって」
「本当は御笠も来るはずだったんだけど、食事会という名の会議が入ったらしくてな」
「社長、さらに忙しくなってるから…真凜ちゃんも寂しかったんだよね」
「でも真凜、北原のお兄ちゃんと水野くん、それに郁人がいるから今は寂しくないよ」
「いい子だね」
水野が頭を撫でると気持ちよさそうに真凜は微笑んだ。
それから四人で遊びに興じた。負けたのは、塩月だった。
「俺の勝ちだな!さ、真凜ちゃんを塩月が御笠の家に送るんだ」
真凜は途中で眠ってしまった。この罰ゲームは、北原発案のものだった。
「水野先輩ー!」
「ごめんね。手加減するのも悪いなと思って」
「そりゃ水野先輩が負けて部長と二人になるのは嫌ですけど」
「なら本望だろ。ほら、これ以上俺たちの邪魔はするな!」
「くそーっ!今度こそ先輩の膝枕をかけてくださいよ!」
「そんなに俺の膝枕がいいのかな?」
「真凜ちゃんだって寝てるんですから!」
水野の膝枕で気持ちよさそうに真凜が寝ていた。
勝負は勝負だ。今日は仕方ない…と塩月は言われるままに真凜をおぶってタクシーに乗った。行き先は御笠の住む一軒家だった。
北原から塩月が真凜を送る事は伝えていると言う。
まさか社長と会うことになるなんて…。
北原部長繋がりがあることをすっかり忘れていた。
今更顔を合わせるからと言ってどうと言うわけじゃないが、塩月は何故か戸惑っていた。
「郁人、ありがとう」
御笠が玄関先にやってきて、真凜を抱き渡した。まだスーツな所を見ると先程帰宅したのだろう。
「いや、別に…」
「真凜ちゃん、寝ちゃったんですね」
廊下から同じくスーツだが、髪は下ろしてオフモードの女性が御笠から真凜を受け取った。
「あ…美人秘書さん」
「美人だなんて!でもありがとう」
「いや、本当ですから」
「ふふっ、いい社員さんだね。但さん」
「当たり前でしょ?香菜子、真凜を頼む」
「うん、寝かせてくるね」
営業モードの笑顔でその場を乗り切るも、内心塩月はモヤモヤしていた。
「ありがとう塩月くん」
「いえ、別に…」
「さっきまでの笑顔はどこに行ったの?その不機嫌そうな顔、社長にすべきじゃないよね」
「そうですか?」
「そうだよ」
「俺は充実してる社長を見て羨ましいだけです。じゃ、帰ります」
「待って塩月くん」
「まだ何か?」
「なんでそんなに不機嫌なの?」
「だから社長には関係ないですって」
「そう、ならいいけど。気をつけて帰ってね」
「言われなくてもそうします」
背中を向けて塩月は黙々と駅前まで歩いた。まだ電車はあるはずだ。
社長だけ幸せになるだなんて、ムカつく。
塩月の脳裏にぐるぐると先程の光景が浮かぶ。塩月は、真凜含めて幸せな光景を見せられると、ひどく自分が寂しい人間だと思い知らされる。卑屈になってはいけないとわかっていても、どうして自分だけうまくいかないんだとその日は思わずにはいられなかった。
塩月自身元気がないつもりはなかったのだが、同僚が「塩月疲れてんなら、今度会社のみんなでキャンプ場でパーっと集まるから」と誘ってきた。
パーっとってなんだ?と蓋を開けると、営業部主催の一泊二日のキャンプだった。家族、友達、恋人参加可になっていた。
北原も誘われていて一緒に水野もやってくると聞き、塩月は参加の連絡を同僚にした。
そして当日。気が知れた同僚とその友達や家族だけだと思っていたが、同僚は予想以上に女性を連れて来た。
御笠が話を聞きつけ、隣接されたバーベキュー会場を貸切したと言う。
場所は困らないからって、プチ合コンじゃないか。これは同僚の私欲もあるな。
「塩月さんー!食べてる?」
「あ、食べてますよ!」
「水野さんもほらー」
「あ、ありがとう」
水野先輩が困っている!ぐいぐいこられるのが苦手なんだよ!
何より自分が学生時代を見ているようで塩月は心が痛い。水野は優しいから冷たくあしらわないけど、これ以上はしんどいだろう。
「あの水野さん…」
「君たちはどこに勤めてるの?」
水野先輩に話を振る女の会話を遮って、得意な営業トークで塩月は話を変えた。
女性たちを笑わせながら、塩月は一体何をやっているんだろうと内心落ち込んでいた。
水野を助けたことに後悔しているのではない。水野は眉間に皺を寄せた北原にさっき手を引かれて、周りに声をかけられてもはっきりと「俺は水野と話があるから」と言って場所を移って北原とバーベキューを楽しんでいる。
問題なのは会場の一番奥にいる社長夫婦とその子供を見て「素敵すぎる」と男女揃えて言っていることだ。
北原部長と水野先輩にあいつがくること、聞いておけばよかった…。
到底届かない理想像に、自分が情けなくなるだけだ。こうして営業モードでい続けられるのは、水野先輩がいる他に耐えられる理由がない。
幸せそうに笑っている水野先輩も見れたし、キリのいいとこで帰るかな…。
「ねー塩月くん!」
「なになに〜」
一番推しの強そうな女が強引に腕を組んできた。羨ましそうに同僚が塩月を見ている。
俺にとっちゃ別になんとも思わないんだけどな。
「塩月ばっかりに女子たち話しすぎー」
同僚は負けじと塩月の隣にやってきて、髪をガシガシと触る。
「こいつ落ち込んでると思いきや調子に乗りやがって〜」
「ちょっとやめなよー」と女が言うが、同僚はやめようとしない。
俺に敵意を向けてどうするよ!モテたってどうにかするわけじゃないだし。ま、こう言うの昔から慣れてるけど。
塩月は反発してもめんどうだから「やめてくれよ」と適当に笑っていたら、足元に誰かが抱きついてきた。
周りの視線が一気に集中する。
「郁人、会社の人たちとのお遊びは終わった?次は真凜と遊んで」
むっとした表情で見上げる真凜の目は、一度言ったら何としても譲らない御笠の目と一緒だった。
「郁人、行くよ!」
「え、あ、ちょっと!」
周りが呆気に取られている間に小さな女の子に手を引かれてずんずんと奥に進んでいく。
「パパー郁人、連れてきた!」
「まったく誰に似たんだか…」
塩月が御笠を睨むと御笠は笑ってごましていた。
「塩月くん、よかった?」
香菜子が心配そうに声をかけるので、塩月は「大丈夫です。抜け出したかったんで助かりました」と言った。
「あ、じゃあ、新しいお皿とお箸もらって来るね」
「すいません」
久しぶりに三人だけになった。塩月は真凜が話すことに耳を傾けていた。
「郁人はモテるのね!真凜はやっぱりまだ子供だからな〜」
「大丈夫、真凜ちゃんの方があの女の子たちより可愛いから」
「あたりまえじゃない!パパが郁人の邪魔するなって言うからガマンしてたけど、もう無理!バーベキュー食べたら、真凜と川に遊びに行くんだからね」
「わかったよ」
「水野くんと北原のお兄ちゃんも連れてこよ〜」
楽しそうに話す真凜に塩月は、真凜の機嫌は回復したと安堵していたのだが、御笠が話しかけて来て一変した。
「本当に真凜が連れて来てよかった?随分楽しそうだったのに」
「何だよその言い方?」
「他意はないよ。そっちこそ不機嫌になって俺に話しかけてこないで」
「どっちがだよ!俺は恋人探しに忙しいの!キャンプに来たのだって、同僚が気を利かせて…とにかく幸せそうな社長と違って、俺はそう簡単に行かないんだって」
「僻むなんてらしくないな」
「僻んでなんかない!腹が立ってるだけだ!香菜子さんいるなら、遊んでんじゃねーよ」
「聞き捨てならないな」
「ごめーん!塩月くんの分のお皿もらうのに時間かかって!あ、但さん!飲み物ノンアルコールでよかったよね…ってなんか大切な話してた?」
「香菜子ちゃん気にしないで。パパと郁人、よく喧嘩するから」
しれっと話す真凜の口を塩月は手で封じた。
「いや、ちょっと仕事のことで熱くなっちゃって!社長、真凜ちゃん、北原部長のとこ連れて行きますね〜」
「……わかった」
足速にその場を去って、北原と水野の元へ行き、真凜の相手をした。上機嫌な真凜と水野先輩が川遊びするのは微笑ましい。北原部長は邪魔だけれど、さっきの場所にいるよりはマシだ。
冷静になって塩月は、喧嘩するような場面でないのにつっかかる自分を不思議に思った。
真凜の世話をしていた時、些細な世間話からお互いに譲らずに喧嘩になった事はある。黙ったままで時間を過ごして、お互いに時間が経てば何事もなかったように振る舞っていた。
やっぱり顔見たら腹が立つんだよな。
「塩月くん、今日、泊まってくの?」
「え?」
「いや、塩月くん、バーベキューしてた時、帰りたそうだなって思ってたんだよね」
川の中に入った北原と真凜を見ながら川岸で休んでいると水野が話しかけて来た。
真凜の相手をするのは自然と交代制になっている。
「ああ…まあ、同僚たちの気回しは俺には意味ないですから。もう慣れましたけど」
「そっか…」
「水野先輩は今日泊まるんですか?」
「うん、テントを各々これから張って泊まるんだってー!楽しみ」
「北原部長となら楽しいってやつですか」
「そうなるかな」
「惚気ないでくださいよー!俺の周り充実してるやつばっかで寂しいんですから」
「周りってさ、社長も入ってる?」
「えっ?」
「何となくね。社長に対して塩月くん偉く冷たかったじゃない?ほら美人秘書連れてたのを経理部で見た時」
「そりゃ入ってますよ!社長の態度見てたら腹が立って仕方ないんです。人を散々からかっておいて、自分は好きなやつと真凜ちゃんとで仲良くして」
「塩月くん、それってさ…」
「社長に水野先輩も腹立ちますよね?」
「俺は立たないよ。ただ塩月くんが社長に偉く執着してるなって、俺絡みの部長の時とは違うし。もしかして美人秘書さんに妬いてたりする?」
「…妬く?」
「社長、あの美人秘書さんと再婚するってなったら、塩月くん腹が立たない?」
「立ちます」
「ならそれって、嫉妬なんじゃないかな?普通なら羨ましくはなるけど、怒るほどの事じゃないでしょ?」
「いや、まさか、それはないと思います」
「そうかな?」
「郁人!水野くーん!見てみてカニさんがいた〜」
真凜の声によってその場の話は中断されたが、塩月は水野の言葉に驚いた。
嫉妬?いやいや、それはない。割り切った関係だったはず。きっと先輩は、俺が社長にされたことを知らないから…。
でもセフレにだってこんな風に腹は立たない。
距離が近すぎるから?真凜がいるから?
そもそも嫉妬をするようなやつか?
塩月は答えが見つからないまま、三人と遊んだ。
「どうしてこうなった…」
張られたテントの下で、何故か御笠と二人きりになった。
北原と水野のテントに無理矢理入る予定が、水野が「真凜ちゃん、俺たちのテントで寝る?」と言い始めたのだ。
塩月よりマシだと北原も水野の提案に乗った。それを聞きつけた御笠が「なら塩月くん、こっちに」と呼ばれた。
「じゃ、塩月くん。また明日ね」
「郁人、明日も遊ぼうね!」
塩月は水野と真凜に手を振られ、何も言えなくなってしまった。
ランプがついたテントの寝袋にすぐさま入って背を向けた塩月に御笠はため息をついた。
「そんなに俺と話すの嫌?」
「別に話すことなんか」
「じゃ、どうしてそんなに不機嫌なの?」
「そっちだって突っかかってきたくせに」
「郁人が楽しそうだから、ムカついた」
「それは俺の勝手だろ?」
「そっくりそのまま返すよ。いい加減こっち向いて話さない?それとも郁人、ヘソ曲げてる?」
「そんなわけないだろ!」
勢いよく御笠の方を振り返ると、顔が当たりそうなほど、距離が近かった。
「…近い」
「仕方ないでしょ。テントなんだから」
またそっぽを向いたら何と言われるかわからないと塩月は御笠の目をじっと見る。
「郁人が機嫌が悪いのは俺のせいだって水野くんから聞いた。最近、話す機会もなかったし、理由がわからない」
「忙しいんだから仕方ないだろ。別に仲がいいわけじゃないんだし」
「じゃあ、理由を教えて」
「どうして社長なんかに」
「俺が知りたいからだよ。郁人が何故不機嫌なのか」
「知ってどうするんだよ」
「郁人を不機嫌にさせたくないって理由じゃダメかな?」
社長はわかるまで聞いてくるつもりだ。これ以上突っぱねてもキリがないと塩月は口を開いた。
「俺は…社長が幸せそうだからムカついたんだよ」
「幸せそう?」
「水野先輩は、社長のせいだって言ってたけど、社長だけじゃない。水野先輩も好きな人とうまく言って、幸せそうだから…なんで俺だけって腹が立ってたんだよ」
「ちょっと待って、水野くんはわかるけど、どうして俺が好きな人と幸せそうってなるの?」
「誤魔化すなよ。美人秘書さん、めっちゃ仲良さそうにしてただろ。仕事だけじゃなく、真凜にも懐いてて、三人いい感じになってるのは言わなくてもわかる」
塩月の言葉に御笠は眉間に皺を寄せた。
「何だよ。その顔」
「何だか勘違いしてるみたいだけど、美人秘書は恋人じゃない。彼女は…香菜子は亡くなった奥さんの妹だよ」
「えっ、嘘だろ?」
「嘘ついてどうするの?もし彼女が本当に恋人なら認めてるよ」
「そ、そうか」
あれ?なんで俺ほっとしてるんだ?
「塩月くんこそ女の子たちと楽しそうだったんじゃない?」
「水野先輩が絡まれそうになってたから、助けただけ。真凜ちゃんが来なかったら、隙を見て帰るつもりだった」
「そうだったんだ」
柔かに微笑んだ御笠は塩月の頭を掴んで、わしゃわしゃと触った。
「ちょっと、何だよ急に」
「郁人は同僚に簡単に触らせてたなって」
「別にあんなのスキンシップだろ?」
「そうだけど、やっぱり簡単にさせるなんて許せないな」
塩月は御笠の言葉の意味がわからない。
「やめろって!」
「ごめんごめん。郁人、卑屈になる必要はないよ。郁人が好きになる人はまた現れる」
「どうしてそう言い切れるんだよ」
「郁人が明るく振る舞って他人に気遣っていること、水野くんに優しいところ、真凜に対してわがまま聞いてあげるところ、ムキになってるところ…素敵だと思うよ」
「ほ、褒めても何も出ないから!」
「郁人、照れてる?」
「俺で遊ぶな!」
「機嫌が良くなってよかった」
「急に抱きつくな!」
「喜びの表現だよ」
御笠の心臓の音が聞こえる。でも、いつものミントの匂いはしない。何だか、寂しい。
「社長」
「何?大人しくなったと思ったら」
「あの石鹸の匂いしないなって。近場のスーパー銭湯行ったから当たり前なんだけど。俺、あの匂い好きだな」
好きだから、あの匂いを思い出すから塩月はあえて使わなかった。
「…郁人は使ってないの?」
「俺は使ってない。使うと社長のこと思い出すから嫌なんだよ」
「随分嫌われてるね」
「俺は御免だけど、社長が好きな人とうまくいくといいなとは思ってるよ」
「…郁人って時々怖いよね」
御笠が苦笑しながら、塩月を見下ろした。
「何でだよ!素直に応援するって言ってるだけだろ?」
「はいはい」
御笠に頭を撫でられて、塩月は不思議と落ち着いていた。
俺をからかって何が楽しいのかわからないし、食えないやつだけど、ちゃんと俺を見てくれたのは、嬉しかった。
社長が好きになった人が羨ましいな。いつもこうして甘やかしたり、甘えたりする。そう言うの羨ましい。俺だって社長みたいな人が…。
「え?」
「どうしたの?」
「いや、何でも。寝たいんで寝ます!」
塩月は背を向けようとしたが、御笠は拘束を離さない。
「ダメだよ」
「何で!やめろって」
「嫌がる姿が見たいからに決まってるでしょ」
「性悪なやつ…もう知らない。勝手にしろ」
諦めて御笠の胸元に頭を埋めながら、塩月は目を瞑った。
俺、もしかして、社長の恋人になりたいって思った?それって要は社長が好きってことじゃ…。
塩月は御笠に背中に手を回されて、心臓がさらに速く音を打つ。
とりあえず、今日はこのまま寝よう。
塩月は目を瞑って、これ以上考えないようにした。
寝ようと思うのに、なかなか寝付けなかった。朝方眠りに少しついたが、浅かった。
理由は隣にいる人物のせいだとわかっているから余計に塩月は辛かった。
「くそーっあんまり眠れなかった」
「興奮してた?」
「そんなわけないだろ!」
「あー!郁人とパパ、仲直りしたのね」
真凜がテントを除いて、笑顔でそう言った。
「真凜、北原と水野くんは?」
「朝ご飯できたよって、真凜二人を呼びに来たの!」
「わかった。真凜ちゃん行こっか」
塩月は御笠を無視して先にテントから出た。
社長を好きになるとか、認めたくない。でも意識してるのは事実だ。逃げようもない。
「郁人、何か悩んでるの?」
「え?」
「真凜、何かできることある?」
「大丈夫だよ。寝不足なだけ。水野先輩の顔見たら目が覚めるから心配しないで」
親と一緒で察しが良すぎるな、この子。
「ならいいんだけどね!郁人が元気ないと真凜、心配になるから」
「ありがとう」
真凜は優しい。これからすくすくと育って、きっと御笠に負けないぐらいの優秀な女性になると塩月は思った。
そんな時、俺は近くにいていいわけがない。
俺っていっつも不毛な恋してるよな…。
それでも、好きな人たちには幸せで合って欲しい。その気持ちは変わらない。
告白なんて御笠になんて言われるかわからない。
そもそも言いたくもないし、言ったらこの関係が変わってしまうのが怖い。
情けないなと思いながら、塩月はいつも通りに相変わらずからかってくる御笠と言い合いを続けた。
それを見ていた北原や水野、真凜。美人秘書の香菜子まで笑っていた。
塩月はこれでいいんだと言い聞かせながら、その日、キャンプを終えた。
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