5人が本棚に入れています
本棚に追加
2
「そんなことだと思った」
光橋は一連の流れを聞いた後、そう言った。
「こっちはめっちゃ泣いてんからな!」
「すぐ見て勘違いしたんだなってわかったよ。伊達眼鏡で隠したって目が腫れてるのもわかった。声も掠れてたしな」
まるで関わりのなかったようにビールを淡々と飲む姿に彩夏はカッとなった。
「なんなん!わかってて、心配の一言もなく現れて!十年も経って憧れの人が台無しや」
「俺は聖人君子か何かか?初恋の人に憧れて高校に入学したそのパワーのすごさは認めるが、俺を自分の理想の塊みたいに思うな」
「わ、わかってるよ。昔と同じで優しくない口調やし。めっちゃ腹立つ態度やし」
「まあまあ二人とも落ち着いて」
立夏が間に立った。
「とにかく晩ご飯、出前とろう」
清人がスマホから出前のメニューを出して、話を変えた。
一時間後。出前がやってきた。彩夏の知らない大学時代の光橋の話や社会人になりたての頃の話を聞いた。
彩夏は三人の会話をひたすら聞いていた。
「あ、ビールがない」
清人が冷蔵庫を開けて言った。
「僕が買ってこようか?」
立夏が席を立った。
「じゃ、二人で行く?」
清人が嬉しそうに言う。
「え、でも?!」
立夏は彩夏と光橋を見て心配していた。
「彩夏ちゃん、大丈夫?」
「う、うちはいいけど…」
ちらっと光橋を見たが、顔色は何も変わっていない。
「光橋がいるから大丈夫だって。コンビニに歩いて五分もないし。じゃ、光橋頼むな」
「ああ」
立夏が彩夏にガッツポーズをしながら、部屋を出た。彩夏は心もとなくなりながら、深呼吸した。
しんと鎮まりかえる部屋に、彩夏は落ち着かない。
「光橋さん、げ、元気してた?」
「見たらわかるだろ?」
「そ、そうやな」
光橋はテーブルの端にあった新聞を見つけて、広げた。
光橋の顔が見えなくなり、彩夏はじっと新聞を見た。
こうして新聞があれば、ずっと見てられんのになあ。
手は昔よりも長くて細いけど、腕は逞しい。腕時計が似合っている。
やっぱり光橋さん、カッコいいなあ。
彩夏は顎に手を置いて、光橋をじっと見ていた。
「何、見てんだ?」
新聞越しに声が聞こえて、彩夏はビクッとなった。
「な、なんで?!」
「影の動き見てたらわかる」
「なっ!!」
「相変わらず、なんでって口癖なんだな」
「口癖なんか、どうでもいいやん」
「そうだな」
違うそんなことが言いたいわけじゃない。言いたいわけじゃないのに。
「コ、コーヒー飲む?」
「俺はいい」
「わ、わかった」
いても立ってもいられず、彩夏はキッチンへ向かう。
キッチンからリビングにいる光橋さんの横顔が見えた。
このぐらいの距離がちょうどいいんかも。
そう思いながら、彩夏はやかんに火をかけた。
光橋をちらちらと盗み見しながら、ドリップコーヒーにやかんのお湯をいれようとした。
すると、やかんの先がズレていたのか、床に熱湯がこぼれ落ちていた。彩夏は驚いて手を離した。
やかんがキッチンの床に落ちて、彩夏の足元に熱湯がかかった。
「あっつつ!!」
やかんが床に落ちる大きな音と彩夏の声に光橋が現れた。
「まったく…」
光橋はキッチンタオルで床を拭いて場を納め、冷凍庫にあった保冷剤を取り出した。
彩夏の間近に光橋の顔があった。
「何やってんだ」
「ご、ごめんなさい」
やけどが痛いのと恥ずかしさで半泣きになった。今日は本当に心臓が忙しないと彩夏は思う。
「俺をちらちら見てるからこんなことになるんだろ?」
「わ、わかってたんなら、止めてや」
「止めることじゃないだろ」
「なんで?うちに集中しろとか言えばええやん」
「俺が言う前提で話すな」
「なんで?」
「なんでって本当に変わらないな」
ふっと口元が緩んで、彩夏は心臓がギュッと掴まれた。
「わ、笑うとこじゃないやろ?今、めっちゃ痛いんやから!」
「怒るのか、照れるのかどっちかにしろ」
「誰のせいでこんなんなってると思ってるん?!今日は夕方から今までもう死にそうや」
「そんなので死んだら身がもたないな」
「持たへん!もう光橋さんを追いかけてきた身にもなってや」
「昔からそのよくわからないパワーの持って行き方には感心するよ」
「それ、褒めてんの?」
「ああ、俺にはわからないからな」
「そりゃ一生わからんやろな!」
ぷいっとそっぽむいた彩夏に光橋は火傷を見る。
「水で冷やしたタオルの方がいいな」
キッチンにあった真新しそうなタオルを水洗いし、しぼったものを彩夏の足元に当てた。
「うっ…」
「我慢しろ。こうしてたら、時期に楽になる」
「ほんまに?跡とかつかん?」
「つかない」
「ほんま?」
「俺の言うことが信じられないか?」
「信じるよ。光橋さんの言うことやもん」
彩夏はほっと胸を撫で下ろす。
「本当、昔と変わらず忙しないな」
「それって成長してないってこと?」
「成長してないだろ」
「ま、まだ再会して間もないのに、そんなこと言い切れるん?!」
「それよりも変わらないでビックリしてる」
「それってどういう…?」
詳しく聞こうとしたら、立夏と清人が帰宅した。
「ただいまー」
清人ののんきな声の後、立夏が声を上げた。
「彩夏ちゃん、どうしたの?!」
慌てた立夏に話を完全に遮られ、光橋との会話はそこで終了した。
「念のため、シャワーで冷やした方がいいな」
光橋の冷静な声に、立夏も風呂場に行くことを進めた。
「制服のスカートも濡れちゃってるから、そのままお風呂入った方がいいね」
「うん、今日はシャワーにして。もうパジャマに着替えるわ」
「じゃあ、浴室に置いておくから行っておいで」
「ありがとう。立夏さん」
ふと立夏と清人の向こうにいる光橋と目が合った。
彩夏はバッチリ目が合って恥ずかしくなりながら、浴室に向かった。
三十分後ー
「お騒がせしました」
「やけど大丈夫?」
清人が心配そうに彩夏を見た。
「うん。ヒリヒリするけど、大丈夫」
「今日はもう休んだ方がいいね」
立夏がキッチンで洗い物をしながら、彩夏に話しかけた。
「あれ、光橋さんは?」
「帰ったよ。明日も仕事だしね」
「そうなんや…」
ほっとしたような残念な気持ちが混ざる。
清人が頭に手を乗せる。温かくて落ち着く手だった。
「光橋からの伝言、泣かなくても、また会いに来るってさ」
彩夏は予想外の言葉に何も言えない。
「光橋くんって、罪深いね」
立夏がため息混じりに言った。
彩夏は喜怒哀楽の激しい一日に疲れきっているはずなのに、アドレナリンが出過ぎてなかなか寝付けなかった。
「泣かなくてもまた会いに来る…ってそれ、めちゃくちゃ彩夏ちゃんのこと考えてるね!」
彩夏は翌日、伊月に一連の出来事を報告した。伊月は興奮しながら彩夏を見た。
彩夏は昼食の中庭には人気があまりないので、この話題も気兼ねなくできた。
「ホンマ、嫌になるわ」
立夏の手作り弁当は清人ときっちり二人分用意されている。煮物も卵焼きも繊細で優しい味付けだった。
「その嫌は、本当に嫌じゃないやつだね」
「やめてや伊月ちゃん。そんな可愛いもんやない。どうせなら、本当にその秘書と結婚して欲しいかったわ」
「本心じゃないくせに」
「だ、だとしても。不毛すぎやろ!片想いの続きは楽しいけど、めっちゃしんどい」
「まあ、前途多難には違いないよね」
「あんなハイスペック社長が、ロリコンまっしぐらになるわけないやん」
「面白いけど、自虐しちゃダメだよ。彩夏ちゃん」
「でも自分でツッコんでないとやってられん」
「再会して、社長をまた好きになっちゃったんだね」
「ぐっ…」
彩夏は喉に食べ物が詰まって慌てて水筒からお茶を飲む。
「大丈夫?」
「ゴ、ゴホッ…!伊月ちゃん、勘弁してや」
「確信ついちゃった?」
彩夏は首を縦に振る。
「むしろ幻滅してたら、いっそ次の恋ができた気がする」
「諦められないのも、辛いね」
「まあ、しゃーない!こうなったら、とことんや!ここまで来たら、盛大にフラれる。それまで、全力や!」
「その意気だよ!彩夏ちゃんのそのパワーをぶつけなきゃ!」
「ありがとう!伊月ちゃん!」
「彩夏ちゃんなら大丈夫って気がするんだ。社長の心を動かせるって思えちゃう」
「ほんま?」
「信じなきゃ!私は応援してる!」
「あ〜!もう、伊月ちゃん、好きや」
白昼堂々、彩夏は喜びのあまり伊月に抱きついた。
梅雨入りした六月。
彩夏はようやく光橋の顔をちゃんと見ることができた。週のうち、一回は清人と立夏の家に訪れるようになったのだ。
清人が強引にと言いながらも、光橋も外で飲むぐらいならば、ここの方がいいと言った。
今日は立夏の手料理ができるまで、彩夏と清人と光橋でテレビの対戦ゲームをしている。
「なんだ弱いな」
光橋ははじめてプレイしたはずなのに、彩夏に勝った。
「うう…なんでこんな強いん?」
「みんなのプレイを見てたらなんとなくな」
「光橋さんってほんま腹立つ!」
「じゃあ、光橋、次は俺と」
清人との勝負は互角でギリギリで清人が勝った。
「くそ…」
「感激や。清人にい!光橋さんの負け姿や!」
「ゲームとラグビーだけは俺が勝てるからな」
「もう一回だ」
眉間に皺を寄せて二人が勝負するのを彩夏は楽しんだ。
結果はやはり清人の勝ちだった。
「ご飯できたよ!」
立夏の言葉に切り上げたが、光橋はやはり悔しそうに眉間に皺を寄せていた。
「光橋、仕事はどうなんだ?」
清人が立夏の作ったもつ煮を食べながら言った。
「社長として、新入社員への研修が済んだ。新年度のスタートも好成績を切れた。花屋に来た日はなんとか春先からの仕事が落ち着いた日なんだ」
「月に何度かこうして飲んでるの一年ぶりか」
清人が思い出すように言う。
「三人でよくこうして飲んでたん?」
「一昨年までね。去年社長に就任してからは忙しかったから清人くんと連絡取るぐらいで」
「生存確認しなきゃと思って。社長って気を許せる相手もなかなかいないだろうし」
「石橋がいて助かった。去年は本当にキツかった」
「二十七歳で社長なんて。周りからの反感も期待もすごかったでしょ?」
立夏が心配して言った。
「勿論」
「まあ、光橋は小さい時からこうなることは決まってたもんな」
「光橋さん、そうなん?」
彩夏の問いに清人が答えた。
「光橋は一人っ子だからな。親御さんに昔から社長になるのは決まってた。だから本人ができる限り好きにさせたいって考えで。だからスポーツ科のある高校に入学して俺と出会ったってわけ」
「そうなんや。高校で知り合ったのは聞いてたけど、知らんかった。そういえば立夏さんは、その高校の先輩やんね」
「うん。そうだよ。僕は茶華道部に入ってた」
「みんなモテたやろなあ」
「まあ、それなりにね」
「清人くん、自分でそれ言う?」
立夏が自慢げな清人を見て笑う。
「まあ、ラグビーをしているときは、別人に見えるからな」
光橋も清人を見て言った。
「そりゃ二人に比べたら俺は天地の差だけどさ」
「ええな〜!私も三人と同じ高校がよかった」
「いいことばっかりじゃないよ。進路だってあるし」
「部活に勉強に恋に忙しいかったな」
懐かしそうに清人が遠くを見る。
「そう言えば、彩夏ちゃん。勉強しないといけなかったんじゃない?」
「あ、そうやった。高校生になってはじめての期末が七月の上旬にあるんやけど…」
「まだ六月入ったばかりだし、時間あるんじゃない?」
清人が不思議そうに言う。
「期末やから、教科も多いし。うちは努力してなんとか食らいついて高校入ったもんやから」
「そういや、中三の夏、俺らつきっきりだったね」
「そうだね」
立夏と清人は互いに見合う。
「合格できたのは、あの夏のおかげやで」
「ってことで、今度は光橋くんの番ね」
「えっ?」
立夏の発言に、光橋が珍しく声を上げた。
「なんで俺が勉強を?」
「僕は彩夏ちゃんの絶対的な味方だからね」
「り、立夏さーん!」
「なんなら俺とゲームでもう一戦して。負けたら彩夏ちゃんの勉強を見る。七月のテスト期間まで。どうだ?」
「清人にい」
感激する彩夏に光橋はため息をつく。
「二人は本当に甘いな」
そう言って光橋は席を立ち、テレビの前に向かった。
「で、範囲は?」
結果は光橋の負けだった。
テレビの前のテーブルに彩夏は勉強道具を広げている。
「えーと」
彩夏にとって嬉しい展開ではあるが、近くに光橋がいるのは緊張する。
「緊張するな」
「な、なんでわかんの!」
「見ればわかる。とにかく勉強に集中しろ」
「そんなん光橋さんがおんのに、無理言わんとってや!」
「無理じゃない。慣れろ」
「慣れへん!だってめっっちゃかっこいいねんで!そんな人に勉強教えてもらったら、緊張する!」
「…ったくそんなんでよく俺に教えてもらおうとしたな」
「好きな人に教えてもらいたいんは当たり前やん!」
「だったら好きな人の言うことを聞け。今すぐ慣れろ!」
「無茶言わんとって!」
リビングにいた二人がたまらず笑い始める。
「ははっ!本当、二人は十年の間を埋める間もなく仲良いね」
立夏は笑いすぎて涙目になっていた。
「光橋相手に真っ向勝負できるのが俺たち以外には彩夏ちゃんだけだな」
「笑い事じゃないだろ。良くも悪くも小学一年から成長してないだけだ。とにかく範囲を書いたプリントか何か見せろ」
「…はい」
彩夏は成長してないとはどういうことなん?と言い返したくなったが、やめた。
事実、見た目は十年成長しても、全く中身は変わっていない。自分でもそう思う。
「苦手なのは?」
「数Iと物理」
「じゃ、まずはそこからだ」
かくして彩夏は光橋との時間を手に入れることができた。
次週に清人と立夏の家にやってきた光橋は、ノートパソコンを取り出して一枚の紙をプリントアウトした。
「何このスケジュール!」
「見ればわかるだろ。今パソコンで作った期末テストまでのタイムスケジュールだ」
「それはわかる。スケジュールも平日はわかるとして。土日までびっちりやん」
「5教科と副教科3科目。副教科は暗記するところは確実にな。5教科は中学の点数と中間を聞いて、%を出した。苦手科目、得意科目における対応時間。予習復習時間。テストは教科書を見たら、だいたい出るべきと問題は読めるが、基本がわからなきゃ意味がない。予習復習は今後も続けた上で、さらに問題を解く。わからないところは聞け」
パソコンを見ながら、真剣に話す光橋に彩夏は驚いた。
「まさかそこまでって顔だな」
「だって、光橋さんいやいややったし」
「一度決めたら、約束は守る。だが今後見ることはない」
パソコンの画面を閉まって、光橋は清人が注いでいたビールを飲んだ。
「さすが社長、仕事が早い」
清人は彩夏のスケジュールを見ながら感激していた。
「僕も彩夏ちゃん助けるから、頑張ろ」
「ありがとう。立夏さん!」
「二人に頼るのはタイムスケジュールの把握だけにしろ。どうしてもわからないなら…」
スケジュールの紙にの裏に、光橋はIDを書いた。
「このIDを入れたら、連絡先が出てくる。登録しておけ」
「こ、これって、光橋さんの連絡先!」
清人や立夏から十年もあれば聞くタイミングはあった。しかし、光橋の邪魔になりたくなかった。憧れの人に連絡するなんてとんでもないとも思っていた。
「ほ、ほんまに連絡していいん?」
「わからないところがあれば、写真撮るなり、文章を打て。折り返し連絡する」
「う、うん…でも仕事に支障でるようなら、無理に…」
「期末テストの企画進行なんて。会社のプランニングや予算削減や戦略会議とかに比べれば大したことない」
「そ、そうなんか…」
あまりにも違う世界の難しいことに、彩夏は自分の小ささに落ち込む。わかってはいても一回りは大きい。しかも十年も離れていたら、なおさら遠い。
「住む世界が違うのは、今に始まったことじゃないだろ?自分の小ささに悩むより、できることをしろ。行動力とパワー、素直さが取り柄なんだから、落ち込むだけ無駄だ」
「なんで光橋さん、うちの頭の中わかるん?」
「顔見ればわかる。あ、連絡先がわかったからって余計な質問してくるなよ」
光橋に睨まれて、彩夏はそこまで見透かされていたかと驚く。
「とにかく夕飯を食べたら、三時間はやるぞ」
「は、はい!」
厳しい家庭教師の元、彩夏は気を引き締めた。
ドキドキなんぞしていられない。頑張って光橋が考えてくれたスケジュールをこなし、よい結果を残したい。そうすればきっと喜んでくれるはず。
彩夏はこれが本来の夢に近づいているかわからないけれど、憧れの人に勉強を教えてもらえる幸せを噛み締めようと決めた。
六月中旬の週末。
梅雨前線が日本列島に上陸してからびくりとも動こうとせず、連日連夜、雨だった。
時刻は午後五時過ぎ。
「清人にいと立夏さん、大丈夫かな?」
週末久しぶりに二人でデートすると電車で出かけたが、大雨洪水警報と暴風警報が出ている。
午前中は小降りだったが、昼から首都圏の降水量が一気に増える程、大ぶりになった。
彩夏はリビングで光橋のスケジュール通りの教科を一人勉強をしていた。
科目は英語。単語、文法、読解。見ているうちに混乱してきた。一旦、スマホの天気情報を見る。
「うわー電車止まってるやん!さすがにそこまでとは」
外を見ると窓を叩きつけるような暴風雨。
「なんか怖いな」
ゴゴゴと雷雲が迫る音もしてきた。テレビは勉強中つけない。しんとしたリビングはいつもと違ってひんやりしている気がした。
「二人がいてこそ安心できる上京暮らしやと痛感するわ」
独言を言っていると、スマホに立夏から着信があった。
「もしもし、立夏さん!」
「彩夏ちゃん!清人くんと帰ろうとしたら電車止まってて。ほかの路線電車もストップしてるから、帰れそうにないんだ…」
「え、ほんなら、今日はどうするん?」
「駅前のビジネスホテルに泊まろうかなって。明日の朝には電車も動いてるだろうから…でも、彩夏ちゃん、大丈夫?」
「う、うん!大丈夫!マンションのセキュリティはバッチリやし、テレビつければ大丈夫!」
「本当?今すぐ本当は帰りたいんだけど…」
「気にしないで!久しぶりの二人きりのデートやん!外でお泊まりかって、うちが来てからずっとなかったやろうし」
「ありがとう彩夏ちゃん。何かあったらすぐ連絡してね」
「代わって立夏さん…!清人だけど、立夏ちゃん、ごめんな」
「いいよ!清人にいも立夏さんも気をつけて」
「ありがとう。お土産あるから楽しみにしてて。あと、知らない人が来たら宅配でもチャイムは出ないこと」
「うん、わかってる。じゃあね」
通話を聞いてから、心配している二人の声を聞いて、彩夏は寂しくなった。
「あかんあかん。しんみりしてたら怖くなる…とにかく勉強や」
彩夏は頭を左右に降った。スイッチを切り替えて、彩夏は光橋のスケジュール表を見た。
数時間後ー
「え、今、めっちゃ外ピカって光った!」
雷雲が間近になり、音が大きい。さらに空が光った。
稲光など普段そこまで怖くないはずなのに、一人だと恐怖心が増大する。彩夏の心臓がうるさい。
「べ、勉強に集中できひん…」
ベランダの窓を見る。気を紛らわす為、テレビをつけたけれど、内容は入ってこない。
再びカッと光った数秒後、地を割るような轟音が響いた。
「えっ!?」
ふっとテレビ音が消え、視界が真っ暗になった。
停電が起こった。
頭でわかっていても、彩夏の心臓は余計に音を激しくした。
慌てて握っていたスマホのライトをつける。
時刻は七時。彩夏は震える手で光橋の通話ボタンを押した。
彩夏はコール音に祈るような気持ちでいた。
「…どうした?」
「み、みつはしさん!助けて!」
彩夏はしゃがみこんで、叫んだ。
「落ち着け…今、家じゃないのか?」
「やけど、ま、真っ暗になって…」
「停電だな。どこも暗い」
「み、光橋さんのとこもなん?」
「マンションだ。時期に着く」
「い、家に帰りよるん?」
「いや…石橋と立夏さんのマンションだ」
「え?」
「エレベーターに乗るつもりが、階段になった」
「な、なんでうちがおるマンションに…」
「二人に頼まれたんだ」
「う、うう…」
「泣くな」
「泣きたくもなるよ!漫画じゃあるまいし、タイミングよく光橋さんが来るなんて思わんやん」
「…玄関前に着いた。開けてくれるか」
「開けたいけど、真っ暗でわからんし、それに腰が抜けてもた…」
「まったく、子供だな」
「子供や!まだ十代や!」
「…ムキになる元気があるならいい。落ち着いて。スマホのライトをつけろ」
言われるままに彩夏はライトをつけた。ゆっくり立ち上がり、玄関に向かった。
鍵を開けるとそこにはスマホライトに浮かびあがる光橋がいた。
「ひゃっ!!」
思わず尻餅をついた彩夏に光橋はため息をつく。
「なに怖がってんだ?」
「光橋さん、光に浮かびあがって、怖いねん」
「助けにきた扱いがそれか…」
「ふ…う…うゔ…」
いつもの光橋の声に彩夏は安心して涙が溢れそうになった。すると光橋が彩夏に抱きついた。
「み、光橋さん?!」
「子供に泣かれると困る」
彩夏は驚きで涙が引っ込んだ。
「…子供って」
「子供だろ」
背中に手を回されて、彩夏は気持ちがだんだんと落ち着いた。
光橋さんの心臓の音が聞こえて、自分と重なって心地いい。
「…もういいか」
まだこうしていたいが、光橋は離れたいらしい。
「えー!もうちょっといいやん!」
「もう涙は引っ込んだろ」
すっと離れた光橋にライトを向けると不機嫌そうだった。
「…彩夏、手を貸せ」
「光橋さん!!」
「な、なんだ?!急に」
いきなりの大声に光橋は驚く。
「今、彩夏って言ったやん!」
満悦の笑みに、光橋は驚く。
「泣いたり、喜んだり忙しないな」
手を引っ込めて背を向けた光橋に後ろから彩夏は抱きついた。
その行動に光橋は彩夏を怒った。
あれからすぐ停電が復旧した。
家にあったカップ麺を光橋と一緒に食べたら、勉強を見てもらった。
午後十時にはベッド入ったが、彩夏は眠れるはずもない。
光橋は持ってきたタブレットで作業をしながら、リビングのソファに横になっていつのまにか寝ていた。
寝顔見れるなんて、幸せすぎる!!
彩夏は床に座って、光橋の寝顔を見た。
二人で何かをしていることに慣れてきたが、十年夢見た光橋の側がこんなに刺激的で楽しいと思わなかった。
上京して、三ヶ月…!ますます目が離されんなんて…!
喜びに包まれながら、彩夏はいつのまにか目を閉じていた。
「ん…?」
翌朝、彩夏は首の痛さで目が覚めた。
「…起きろ」
目の前のソファに光橋がいないのに、声が聞こえる。
「え、朝ごはん作れるん?!」
キッチンにいた光橋が作って持ってきたのは、エッグペネディクトだった。
「なんか、めっちゃオシャレ」
「電子レンジで作れる」
「ほんまハイスペックやな。光橋さんって」
「大学から一人暮らししてるからな」
向かい合わせに座って、彩夏は朝食に舌鼓を打つ。
「でもこんなん作れたら、彼女の面目丸つぶれや」
「彼女には作ってない」
「いたんや…彼女!」
「そっちが聞いてきたんだから落ち込むな」
「そりゃ二十八やしおるって思ってはいたけど!ショックや!」
「めんどくさいな」
「でも…今はおらんわけやから、大丈夫か」
「立ち直りが早いな」
「そりゃハイスペやからモテるやろうけど、その性格やと無理やと思う。めっちゃムカつくいい方するから」
「…自分の好きな人に向かってなんていい方するんだ」
眉間に皺を寄せながら、光橋はブラックコーヒーを飲んだ。
「好きな人って言っても、いいとこと悪いとこあるやん。そこを含めて好きにな…」
自分で何を言っているのかと彩夏は我に返って顔を赤くする。
「自分で言って恥ずかしくなって、固まるな」
淡々とした表情で手を合わせて、光橋は席を立った。
「もう帰るん?」
光橋はジャケットを着て、カバンを持った。
「ああ。今、二人が最寄駅に着いたって連絡あったからな」
「そっか…」
彩夏は光橋の後ろについて、そのまま玄関に向かった。
「昨夜はありがとうな」
「二人からのお願いだからな」
「そうか。あ、エッグなんとか美味しかった」
「エッグペネディクトな」
「うん、それ!美味しかった!」
「勉強抜かるなよ」
「任せて!」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
パタンとドアが閉まって、彩夏は脱力した。
今、めっちゃ夫婦ぽかったやん!とか思ってしまった…。
それから数日後。
子供だからこそ、背伸びがしたいと言うけれど。彩夏はそれを身をもって痛感していた。
「これが精一杯の今のオトナ秘書やな」
鏡に映る彩夏は自分に言い聞かせる。
タイトな形の黒いワンピース、ショッキングピンクのティントリップ。黒マスカラ。
背伸びした十代の子供だが、ヒールを履けば、せめて二十歳には見えるはず。
母からもらったハイブランドのお古カバンには、光橋から頼まれた忘れ物の資料が入っている。
先日の停電の日にやってきて置き忘れていたもの。
今日は土曜だが皆が仕事だった。
急遽、彩夏が光橋の会社に持って行くことになったのだ。
よって彩夏はオトナになりたい欲が出た時セットを身につけた。
これは上京する際に用意して持ってきたもの。
お小遣いをコツコツ貯めて、ネットでコスメ、アクセ、服や靴まで購入した。
「やっぱり用意しといてよかった」
最後に香水をふって、彩夏は光橋の会社に向かった。
電車で三十分。着いたオフィスビル街で一際目立つ、光橋製薬会社の文字。
土曜出勤している人もいる為か、人はまばらながらもいた。
周りが自分を見ている気がしながら、彩夏はオフィスに入った。
受付には一人の受付嬢と警備員がいた。
「すみません。し、社長にアポイントを取っている石橋彩夏です」
光橋に彩夏が行くと連絡した際にこう伝えるように指示された。
「石橋彩夏様ですね。お待ちください」
連絡を取ったのち、エレベーターで社長室のある21階に行くように指示された。
来客用のIDを首から下げた彩夏は、エレベーターに乗り込む。
「やっぱり、痛いたしいことに…」
誰もいないエレベーターの中で、ようやく痛みを感じていた右踵の靴擦れを見た。
「でも、もうあと少し…」
光橋に会って渡すというミッションをこなせばいいのだ。
ピンポーンと音が鳴ると、目の前に花屋で出くわしたホワイトスーツの女性がいた。
「お待ちしておりました。石橋彩夏様ですね」
「う、は、はい!」
お辞儀をされて、思わずお辞儀をし返した。
案内されるまま、奥の部屋に通された。
「この部屋が社長の部屋でございます。社長は会議の最中でして。社長室で石橋様にはお待ちいただくようにと」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
「石橋様は新しい秘書の面談でしょうか?」
「え?」
「社長が面談以外に何の来客かおっしゃらなかったので、ご用件が気になりまして。秘書がちょうど足りないからかと…。社長の元に女性のお客様といえば、秘書の新しい面接と決まっていたものですから」
「ま、まあ、そんなところです」
「では失礼します」
「どうも、ありがとうございます」
頭を下げてパタンとドアが閉まり、彩夏はため息をついた。
「な、なんでうちが、新しい秘書に?!」
ただ大人っぽいオシャレをして、忘れ物を届けただけなのに。
社長のデスクの前に、応接用のソファがあった。
彩夏は一旦そこに座ったが、やはり、あの場所に座らずにはいられなかった。
やっぱり、社長の椅子、座りたい!
光橋の気配を伺いつつ、彩夏は社長の背もたれの長い椅子に座った。
「ふ、ふかふか〜」
くるくると回転しながら、彩夏はデスクから部屋を見る。シックで無駄なものがない部屋は光橋らしい。
デスクの上も、資料が置いてあるだけで、ほかは何もない。
引き出しも見てみたが、入っていたのは、名刺だけだった。
「社長の名刺か〜」
彩夏は一枚とって、にやにやしながらそれを見る。一枚ぐらい、いいやんね。と思いながら、彩夏は、それにキスをした。
我ながらなんてことをと思うが、憧れの人の名前が書いてあるものを手にした喜びがそうさせた。
「おい、警察に突き出すぞ」
「わっ!!」
とっさに彩夏は名刺を隠す。
「隠しても無駄だ。座ってから全部見てた」
顔が一気に熱くなる。なんてタイミングで!と彩夏は顔を手で覆う。
「秘書に、新しい秘書の面接の方が、というから誰かと思えば」
「…うちはただ、これを届けに」
彩夏は席を立ち、カバンから資料を渡した。
「これは助かったが…さすがに名刺にキスするのは、引いたぞ」
「ぐ…っ」
項垂れた彩夏に光橋は「名刺はやるよ」と言った。
「し、失礼しました。か、帰ります!」
居た堪れなくて彩夏が去ろうとすると、光橋が止めた。
「ソファに座れ」
「な、なんで急に?!」
「いいから」
彩夏が言われるまま座ると、光橋は棚から救急箱を持ってきた。
「自社製品があって助かった」
消毒液と絆創膏を取り出して、彩夏の右足を持った。
「きゃっ」
「声を出すな」
彩夏は手で口を塞いだ。
光橋は踵に消毒液をかけて、絆創膏を貼った。
「しみるだろうが、化膿しても困るからな」
「…ありがとう」
「もう二度と、そんな格好で来るなよ」
「な、なんで?」
「秘書以外にも、ロビーで役員たち数人が社長を訪ねる女ー彩夏を見たと言っていた」
「だから?」
わけがわからず首を傾げる彩夏に、光橋は眉間に皺を寄せる。
「社長がどこかの可愛らしい女を連れ込んでるのかと思ったと言われた」
「かわいいって!」
「喜ぶところじゃない。まったく、変な格好をするから目をつけられるんだ」
「何を怒ってるんよ!ほんまわけわからん。こっちは光橋さんの為に一生懸命、オシャレしたのに」
「いい迷惑だ」
「なんやて!」
「その通りの意味だろ」
彩夏はさすがに今の言葉は堪えた。
「光橋さんのバカ!」
涙目で光橋を睨んだあと、彩夏は社長室から走った。光橋は追いかけて来なかった。
無駄なことをしてるんだと思うと、彩夏は惨めで情けなくて、涙が溢れた。
下りのエレベーターに人がいなくて、助かった…。
最初のコメントを投稿しよう!