17人が本棚に入れています
本棚に追加
第一話 未来記録士の少女
『いいかい、凛。僕たち未来記録士はみな、彷徨える人々の心を照らし、正しい道を示す導になる為にこの力を持って生まれてきたんだ。だから、お前もいつか、誰かの未来を照らし出せる光そのものになりなさい。どんな険しい荒波にも押し流されない、明るく真っすぐな未来の灯台にね』
1
「おい、ドケチ凛。せめて扇風機の一台くれぇ、買ったらどうなんだよ」
「……文句があるなら、部屋から出ていってくれませんか?武蔵さん」
茜音の都の残暑は厳しい。
暦の上では長月を迎えたこの時分さえ、日中の気温は優に三十度を越えるのが通例だ。
畳の上にだらしなく寝転がる武蔵は、汗一つかかず涼しい顔で長机の文に目を通す凛の横顔を恨めしげに睨みつけていた。
ただでさえ日ノ本の国は盆地なのに、茜音の都周辺は山岳地帯に囲まれている。夏の間は風の通り道が山に遮られる上、上昇気流の熱が地上へそのまま下降していく。
土地柄ゆえ、都は常に熱のこもった蒸し風呂状態に等しかった。
この真夏の灼熱地獄に、人類の画期的発明品である扇風機(都人の間では生活必需品になっているが、貧しい町民達には未だ広く出回っていない)を使用しないなんて、生まれも育ちも裕福な都商人の息子である武蔵には驚愕だった。
「というか、武蔵さんに視界の端でだらだらされると余計に暑苦しくなるんですが…」
「ああ?今日は、お前の引越しの荷物運びをわざわざ手伝いに来てやったんだろぉが。それが恩人に吐く台詞かよ?あーッ、あちー……。干物になっちまうぜ……。なんだって帝は、この夏クソ暑く冬アホ寒いトコに、都を移したりしたんだよ!」
隣国から都を守るため当時の帝が茜音に都を移動してからと言うもの、国民達は夏の猛暑と冬の大寒波に悩まされている。
武蔵の感想は、全国民の内心を代弁した一不満と言えた。凛は溜息をついて座布団を立ち、籠から取り出したウチワを二柄、寝そべっている武蔵の眼前へ突き出した。
「帝のお考えなんて、私たち市井の者には分かりませんよ。嘆いても愚痴っても暑苦しくなるだけです、諦めましょう」
「けっ。お前はその年齢で達観しすぎなんだよ。フン……都をどこに移動しようが、戦なんざ無くなりゃしねえじゃねえか」
文句を言いつつ凛からウチワを受け取った武蔵は、胡坐をかいて二刀流で構えると、左右から仰いで懸命に風を送った。……が、ウチワとは難儀な物で、涼を求めて躍起になればなるほど消耗し、逆に身体が発熱してしまう。
「ああああーッ、風がクソぬるいんだよ!ちっとも涼しくなんねーわ、畜生がーッ!」
武蔵が半ばヤケクソになってウチワを振り回している間、一方の凛はいそいそと部屋の掃除に精を出し始めた。
本日、凛が引っ越してきた物件は、家賃ひと月三千五百圓と破格の六畳一間だが、築三十年の年季の入ったボロアパートで、風呂なし・クーラーなし・トイレ共有の三重苦。
お世辞にも住み心地がいいとは言えず、玄関との仕切りの障子は黄土色に黄ばんでおり、あちこち足の親指でくりぬいた丸い穴が空いていた。
極め付けに、深夜になると‟首なし女の幽霊”が出ると騒ぎが起きたこともある、曰くつきの部屋である。
「つか、女が住むトコかよ。風呂なし六畳間の幽霊アパートって!」
「ここから歩いて二十分くらいのところに、ちゃんと銭湯もあります。それにお化けなら、私霊感ないので心配要りません」
見えぬなら、存在しないも同じこと。
凛は平然とそう言い放つと、畳に転がっていたハタキをつかんだ。
「お前は占い師の癖に、シックスセンスっつーモンねーのか?」
「とにかく、武蔵さんには一切ご迷惑をおかけしないよう努めますから。私のことは放っておいて下さると有り難いです……」
電球の傘に分厚く積もった埃をハタキで叩き落とすフリをしながら、凜はさり気なく武蔵の頭の上でハタキの先を振った。
「てめッ、凜!ワザとやってんだろ?」
塵まみれになった武蔵はごほごほ派手に咽ぶと、そ知らぬ顔で掃除を続ける凛を三白眼で睨みつけながら、わざとらしく声を張り上げる。
「そうかいそうかい。折角知り合いのツテで、仕事先を斡旋してやってるっつうのに、可愛げない女だぜ」
「そこはとっても感謝してますけど、武蔵さんは、わたしの仕事を理解してくださらないので……いやなんです」
凛は、ハタキを握りしめたままの体勢で、武蔵をキッと睨み返した。大きな瞳は埃の浴びすぎで充血している。彼女の長く黒々した睫の上に、白い塵が降り積もっていた。
「占いなんざ胡散臭ぇから、オレ様は一切信用できないのよ」
「私は占い師じゃありません。何度言ったら分かるんですか。未来記録士です!」
「へいへい」
凛は真っ赤なふくれっ面になると、武蔵の顔面にハタキを振り上げた。
武蔵はその直撃をなんなく避けると、気だるそうに立ち上がった。栗色のパーマがかった癖っ毛を、左手で乱雑に掻きあげている。
「むぅ。武蔵さんなんて、これでも喰らってください!」
ハタキを放り出し、自身の着物の懐から桃色の鉛筆と紙切れの札を一枚取り出した凛は、そこへ手早く何事か書き付けると、部屋の襖に手をかけた武蔵に向かって勢いよく投げつけた。
……武蔵の紺色の羽織に貼り付けられたのは、凛お手製の「記録符」だった。
「こらぁ、なにしやがる、凛!またけったいなモン……!」
武蔵は背中を確認しようとするが、首を捻っても札は見えず、手で剥がそうとしても丁度あと少しで指先が届かずどうにもできない。かゆいところに手が届かない状態に、武蔵は「ふぎーッ」と子どもの様に喚いた。
「その札には、今日の武蔵さんの未来予報を記しました。水難の確率が三十五パーセント。女難の確率が、五十七パーセント出ています」
「女難はお前のことだろ、間違いなく!つうか、東も西もって、オレはどうやって家まで帰るんだよ!?この阿呆!」
「北か南の方角から、ぐるっと大回りしてなんとかして帰って下さい」
凛は冷笑を浮かべたまま、武蔵の背中をぐいっと押し出した。「手前覚えてろよ、絶対いつか泣かしてやる!」といつもの捨て台詞で去っていく武蔵を見送りながら、ふっとため息をつく。
(お父さん。わたし、必ず、立派な未来記録士になりますから……)
埃まみれの六畳一間の借家から、凛の未来記録士としての新しい生活が始まろうとしている。
武蔵の前では虚勢を張ったが、凛の華奢な体の内側は不安と期待とが混じり合い、ぐるぐるかき乱れていた。
2
古来から、人は自身や世界の運命を知るために、さまざまな手法を用いてきた。
占星術、四柱推命、風水、人相学、気学九星、方位学。俗に言う「占い」にもさまざまな形があるが、それはあくまでも、確実な根拠が裏付けられたものではなかった。
誰しもが、占いは不確かな指標と知りながら依存して、一方では確実な結果を求める傾向が強まっていった。
そもそも、何故人々がこれほどまでに、占いに固執するようになっていったのだろうか。
そのきっかけは、隣国「青藍」との因縁にあった。
日ノ本は、青藍と二十数年間の長きに渡って対立関係にあり、つい三年前には国境にある「桜藤山」で桜藤の乱と呼ばれる戦が勃発したばかりだ。
桜藤の乱は日ノ本の勝利で幕を閉じ、青藍の領土だった南海域の離島の一つが、日ノ本の領土となった。
しかし、勝敗に関わらず双方共にその被害は甚大だった。
戦争にかり出された何百万と言う国民や、桜藤山付近で生活する罪のない村人の多くが戦で命を落とし、いまだ数百名を越える人間が行方不明になっている。身元不明者の殆どが生存は絶望的とされ、既に仮葬されていた。
現在両国の関係は膠着状態にあるが、未だに戦の爪跡は深く刻み込まれている。
都の若い男達は手当たりしだい徴兵され、戦が始まったらすぐにでも戦場に立てるように強制的に武術訓練を受けている。
軍事資金を蓄えるための政策の一つとして、国が定めた納税額は引き上げられ、払う金がなければ食料でも家具でも家畜でも、何でも役人に取り上げられる有様だ。
加えて今年の夏は降雨量も少なく、農家では満足に作物が育たない。作物の値段は高騰して、人々は更に困窮していった。
過酷な状況下の中で裕福な暮らしを維持できるのは、市で商いをしている商人や医者、追いはぎや野党から町人を守る用心棒くらいのものだ。
貧困者は未来に絶望を抱いており、時には激しい不満と憤りを露にするようになっていた。税の徴収に訪れる役人に反抗する者も増え、あちこちの村落で、絶えず反乱が起きている。
最早、国の未来に希望を見出せるものなど誰一人存在しない。
皆、自分たちの未来がどうなっていくのか、明日一日を生き抜けるのか……ただそれだけを知りたいと願い、平穏を望んでやまなかった。
先の見えない不安や、いつ戦が起きるかしれない恐怖から、神頼みするかのごとく占いへ依存する者が増えたのは、ある意味道理かもしれない。
そして当然、需要が増えれば供給も増えていく。
現在、茜音の都でも、さまざまな種類の占いを提供する店が増えていた。大通りに軒を連ねる有名甘味どころの数よりも、占い館の数の方が上回っている。
占いは儲かると知った者たちが、際限なく占い師や呪術師を名乗るようになり、巷に占い屋が溢れかえるようになると、店を経営するには国の許可が必要という掟までもが作られた。さらに優秀な占い師は「国家公認占い店」の証として、最高四つまで「赤星」という名誉が与えられるランク制度まである。
この赤星を与えられた占い屋だけが軒を連ねる大通りのことを、都では『占い横丁』と呼んでいた。
*
「お前が言ったんじゃないか!今日の日の高いうちに、街道を抜ければ安心だって!なのにその通りにしたら野党に襲われて……妻は……」
緋色の鼻緒の下駄をからころと鳴らしながら、凛が占い横丁の通りを歩いていた時、どこからか言い争う男女の声が聞こえてきた。つと足を止め、声のする方へ視線を向ける。
「わたくしは、占いの結果を申し上げたまででございますわ。現に、あなたは野党に襲われたにもかかわらず怪我一つない。無事に助かったじゃあ有りませんか。占いは、外れてはいませんですわよ」
「貴様……!ふざけるなよ!お前のせいで……」
どうやら、通りの一軒の占い屋の前に人だかりが出来ているようだ。取り囲む野次馬達を掻き分けながら移動して、凛はその様子を窺った。
「聞いた話じゃ、故郷の農村にいる家族に会いにいく道中で、奥さんが野党に連れ去られたらしいじゃないか」
「占い師ってのも、卑怯なモンだわな。占いの結果が外れても、都合の良いことを言って逃げやがる。あることない事言って金ふんだくって飯食ってんだから、良いご身分だよ」
「それに頼る奴らも奴らだけどなあ、自業自得だろ」
野次馬の町人の言葉が、凛の胸に棘のように突き刺さった。妻を野党に奪われたという男性は、怒りで顔を紅潮させながら占い師の首根っこをつかんだ。
女は、西洋の伝承にある魔女が好むような漆黒のローブを身に纏っていた。胸元には、水晶や金でこしらえた首飾りをジャラジャラぶら下げており、いかに優雅な暮らしをしているのか一目で分かる。
「最初に申し上げましたわよ。占いとは、あくまでも可能性なのですわよ。当たるも八卦、当たらぬも八卦なのですわ。あなたもそれを承知で、わたくしに依頼をしてきたのでしょうに」
「……くそっ!」
男性は忌々し気に舌打ちをして占い師を解放し、肩を落としたまま覚束ない足取りで大通りの人ごみに消えていった。騒ぎが収まり、野次馬達がぞろぞろと退散していく。やがて、閑散とした占い屋の前に凛ひとりが取り残された。
この館は、西洋の建築物を参考にしているらしい。日ノ本では馴染みのない赤レンガと白材を用いて造られた、洋菓子みたいな色彩の家屋だった。
占い屋の脇の看板には『必ず当たる!星の吉凶占い』という謳い文句が書かれている。文字の傍らに、申し訳程度に添えられた「赤星」が一つだけあった。
「あなたも、わたくしに占って欲しいのですかしら?」
呆然と立ち尽くす凛を見つけた占い師の女は、ふくよかな頬をつやつやと光らせながら微笑んだ。
「結構です。私は、自分の運命を知りたいと思わないから」
凛は、目の前に差し出された女の手を毅然と振りほどく。
「まあ、恐ろしいことですわ。無知ほど、愚かなことは有りませんことよ。このご時世を生きるうえで……」
「占いも未来記録士の仕事も、迷える人たちの道しるべになることだと思います。未来の選択をお手伝いをするだけ。悪戯に期待させたり、口から出まかせを言うのとは違います」
「はぁ?なんですの?……それは一体、どちらの学問かしら?わたくしはこれでも、手相、人相、占星術、タロット、水玉、霊感……占いに関する知識と能力がありますのよ。あなた、おかしな言いがかりやめてくださる?」
女の形相がみるみる嘲笑へと変わるのを凛は見て取った。だが、その反応も無理はないかもしれない。
未来記録とは、占いの分野においてかなり特異な存在だからだ。未来記録士の能力を持つとされる血族は、凛の生まれである「花加」一族と、隣国・青藍に移り住んだと伝えられている「一文字」家だけだと、凛は父から教えられて育った。
一般的な占い師たちの間では未来記録士の存在は噂や言い伝えでしか知られておらず、現代では認知していない人が殆どだ。
武蔵のように未来記録士という職業を知っていても、他の占い師と混合して捉える者もいる。
凛は着物の胸元から、自身の桃色の色鉛筆を取り出すと、記録符に一言書き付けて、それを占い屋の看板に貼り付けた。
「なにをなさるのよ!?」
「先ほどの男性が、お役所にあなたの占い屋を訴えると未来予報に出ています。調査の結果、その赤星が偽装だと判明する確率が高いので、店じまいの準備しておいた方がいいですよ。では、失礼します」
「なっ、……わたくしの星はっ……」
占い師が口をぱくぱくしている内に、凛は左右に束ねたおさげを揺らしながら、大通りの中心へ再び引き返して行った。
3
明るい桜色の着物を身に纏い、通りを早足で進む凛の胸中はその軽やかさとは裏腹に穏やかではなかった。
占い師を騙り不安を煽って人々に嘘を吹き込んだ挙句、高額な金を巻き上げているのはあの占い屋だけではない。占い横丁に並ぶ占い屋の内、正当な占いを人々に提供している店は一体どれくらいあるのだろうか。
都の現状を目の当たりにしたところで、凛は己の信念を曲げることはなかった。「未来記録士とは、迷える人々の道しるべであるべきだ」と言う父の言葉が、常に心の支柱になっているからだ。
「はいよ、お譲ちゃん!林檎十個で六百圓ね!毎度あり」
大通りの端っこにある八百屋で林檎を十個袋詰めで購入した凛は、手の中に残った僅かな小銭を見つめて苦笑いした。これが、今の凛が持つ財産の全てだった。
林檎は、武蔵の大好物。それも、黄金の蜜がたっぷり入った甘いものでないと文句をネチネチ垂れるので、ひとつ選ぶだけで苦労する。おかげで凛は、ほぼ百発百中おいしい林檎を選び出せるほど「林檎目利きの達人」になった。この能力が未来記録士としてのスキル向上に繋がればどれだけ良いかと心底思うほどに。
凛に、都での仕事を紹介し、引っ越し準備を手伝ってくれたのは、父の古くからの知人である武蔵 秋都だった。が、武蔵は占いはおろか、未来記録士という職業そのものに否定的だった。
常に怠惰な態度を崩さず、傲慢かつ傍若無人な振る舞いをする武蔵は、凛には理解し難い男だ。
しかし、凛は都に頼れる親戚も居らず、武蔵の世話になっているのは事実だ。都にいる間は争いを起こすことなく、武蔵と友好的な関係を築き上げていかなければならない。それが凛の悩みの種だ。
林檎の袋を掲げた凛が、自宅アパートへと戻る途中のことだった。
「そこのいとさん。いとさん」
「はい?」
背後から、聞き覚えの無い声に呼び止められた。凛はいぶかしげな表情を前面に出したまま後ろを振り返る。
「わたし、いとさんって名前じゃないですけど…。人違いじゃないでしょうか?」
もしかしたら、誰かと自分を見間違っているのかも知れない。凛が律儀に否定をすると、その人物は何故か面白そうにくつくつと笑い出した。
「すまんすまん。‟そこのお嬢さん”と、ゆうたちや」
「……何かご用ですか?」
凛は改めて、その人物の姿を観察した。
黒地に染め上げられた落ち着いた雰囲気の着物に灰色の袴を身に纏っている、二十代くらいの精悍な顔立ちの男だった。足元は、西洋からの輸入品として近頃日ノ本でも見かけるブーツという履物を履いている。
この時季には見るからに暑苦しそうな恰好だなと、凛は思った。
気候の変化に弱い武蔵などは、夏場は素足に草履ばかりだというのに。
「おまさん。もへんどて、花加紀一の娘さんがやないかね?」
「え?」
茜音では耳馴染みのない方言の中に、凛にとって聞き逃せない父の名が混じっていた。
凛が探し求めている人物――唯一の肉親の、紀一。
「父のこと、知っているんですか!?」
居ても立ってもいられず、凛は謎の青年に飛びかからんばかりの勢いで詰め寄っていた。
男は一瞬目を見開いたが、ふっと表情を緩めると柔和な笑みで答えた。
「ああ、よう知っちゅう。まっこと世話になったから」
「そ、そうなんですか……?」
見ず知らずの人の前で取り乱したことを面映ゆく感じながら、凛は改めて、正面の男性を見つめてみた。
現在、茜音の都は優れた実績を持つ占い師の殆どを、王城に集結させている。占い師たちは安定した生活と収入が約束される代わりに、生涯王城に仕え、国王と国家のために尽くすよう命じられるのだ。
それは、占いを生業にする者にとって一種のステータスであるが、事実上は国の道具として一生を捧げることを意味している。
凛の父である花加 紀一も、十年前から、国家公認の呪術師として招集され、この都の王城に仕えていた。
が、三年前に、青藍との戦の勝率を予報するため、戦場へ連行された情報を最後に消息不明となっていた。
「私は、父の情報が少しでも分かればと思って、都に移って来たんです。些細なことでもいいので、何かご存じでしたら教えて下さいませんか?」
凛の胸のうちは正直なところ、不安しかなかった。
桜藤の乱では、数え切れない人々が犠牲になっている。まして、父の紀一は訓練を積んだ兵隊でもなく、武人でもない。戦渦に巻き込まれたら、まず生き残れないだろう。
父の行方が分からなくなってから、凛は何度も紀一の運命を記録士として予報しようとしてきた。しかし、記録符には欠点があり‟予報を記録する対象が記録士の目前にいないと正確な確率が割り出せない”のだ。
対象人物の生年月日や写真などの「情報」は精度を上げるために不可欠だが、未来記録士にとって一番必要なものは、当人が放つ「気流」だ。
いわば、その人が生まれながらに持つ「運命の流れ」を読み、浮かんだビジョンを札に書き下ろすのが記録。また、一人の人間が持つ「運命の流れ」は必ずしも一つではない。つまり、未来の結末はひとつとは限らない。
――未来記録士は、目に見えない「気」をイメージでつかみ、数多の運命の可能性の一つを迷える人々に示す存在なのだ。
「花加紀一は、生きちゅうよ。わしも、あいとを探がしちゅう」
「……えっ!?今、なんて!?」
男性は、両のやや丸いつり目をゆるりと細めて言った。消息どころか安否すら不明だった父が「生きている」とこの人は言っている。凛にとっては待ちわびていた朗報だった。
「おまえさん、花加の娘なら知っちゅうか?この国の未来は、まっこと暗い。国は優れた武人より、腕利きの占い師ばかり集めちゅうからな」
「はい……。分かります。父も国に召集されていきましたから」
「いずれ、戦がまた起こるぜよ。おまえさんも気をつけえ。国の道具になるか、ほれとも国に逆らって、自分の道を歩くのか。いずれにしたち、命を粗末にしやーせんようにな」
諭すような口調で凛に告げた後、謎の青年は、唐突に背を向けて歩き出してしまった。凛はあわてて立ち去ろうとする背に声をかける。
「ちょっと、待ってください!まだ教えて欲しいことが……」
父の無事は判明したが、この青年と紀一の関係は不明なままだ。凛にとって、都で見つけた初めての紀一の手がかり、易々と手放すわけにいかない。
「あれ……?」
急いで青年の後を追おうとしたが、大通りの喧騒にふわりと紛れ込んだ男の姿は、人波にかき消え何処にも見当たらなくなっていた。
最後に凛の視界の端に残ったものは、青年の桧皮色の長髪が風に靡いている後姿だけだった。
*
「おい、凛!」
「なんだ。武蔵さんじゃないですか。どうしたんですか、そんなに興奮して」
引越してから、都で初めて迎えた朝。
元々少なかった荷物を整理し隅々まで掃除を終えた部屋は、凛の想像以上に綺麗になった。
凛は、実家から持ち出した檜のちゃぶ台の傍に、お気に入りの花柄座布団を敷いて畳みの上に腰を下ろすと、しばし休息タイムに突入した。
「ウルセエ、阿呆。とっとと入れろ」
「もう!相変わらず勝手なんですから」
……が、くつろいでいる所へ武蔵が訪れ「部屋に入れろ」と大声で喚いたので、仕方なく戸を開けて招きいれる。
武蔵はずかずか上がり込むと、座布団の上にどすっと腰を下ろした。
「のんきに寛ぎながら、茶ぁ飲んでるんじゃねえ!てめえのちんちくりんな占い札のせいで、オレは昨日災難だったんだぜ!?水難だの女難だの冗談だと思ってたら、帰り道で通り雨に降られ着物はびしょ濡れになるわ、家に帰ればお袋に親父が遊郭の女と浮気しただの、また給金が下がっただの、愚痴をえんえん聞かせられるしよ」
「だから、占いじゃありませんってば。あれは武蔵さんの運命を記録した記録符なんです」
「意味が分からん!」
ぶっきらぼうに後頭部を掻く武蔵は、生地に朱と金の刺繍で龍の模様が施された高級そうな着物を身に纏っていた。胸元は大きく開いており、やや浅黒い胸元が露になっていた。相変わらず派手好きな人だなと凛はこっそり思った。
「だいたい、お前……どうするつもりだよ。先方は明日にでも、お前を連れてきて良いって言ってるぜ?」
「それなんですけど、武蔵さん。私やっぱり、自分の『力』で働きたいんです…」
武蔵は茜音の都で、刀や槍、西洋の輸入品である拳銃までを幅広く取り扱う武器屋を営む商家の長男だ。
武蔵の父親は役人として城勤めをしており、店の商いは武蔵が家族と行っているようだが、かなり裕福な家柄である。仕事柄顔が広く、凛の仕事先を斡旋してくれる約束になっていた。
凛は紀一の情報を集めつつ都で修行を積むつもりだったのだが、実際に都の現状を目の当たりにして思った。
自分の未来記録士としての能力を、正しく活かしていきたい。それが未来に悲観する人々を守る手段だと考えたのだ。
紀一も未来記録士だ。父が本当に生きているなら、未来記録士として働く自分の噂を耳に挟めば、姿を現すかもしれない。凛は一縷の望みを抱いていた。
が、武蔵は凛の決意を訊いて重苦しい溜息をついた。
「阿呆。ここで占い屋を開くには国の承認がいるんだぞ?それも、次回の国家公認呪術師試験は半年も先の話だぜ。年にたった一度の試験のために、何千何百っつー自称占い師の卵たちが各地方からぞろぞろ集まってきやがる。国に認められんのは、その中のたった一握りだ」
「武蔵さん、占いには否定的なのに随分お詳しいんですね」
「親父の受け売りだ。親父は役人だからな。それに、呪術師試験には受験料も納めなきゃならねえ。どのみち、文無しの今のお前には何もできねえってこった」
凛は、すっと立ち上がって台所に向かった。
武蔵の分の湯飲みを持ってくると、急須から出がらしになったお茶を注ぐ。
武蔵は縁のかけた湯飲みに注がれる茶葉交じりの茶を見つめながら、がっくしと肩を落とした。
「今すぐには、お店は出せないかもしれません。でも、未来記録士としての力を活かすことは出来ます」
「どうやって?無許可で店でも開くつもりかよ。見つかったら投獄だぜ」
武蔵は差し出された渋い茶を一気飲みすると、怪訝そうな眼差しを凛に向けた。
「父が三年前に戦にかり出された時の、足跡を追跡してみたくて……」
「はあ!?」
小声で武蔵に言い返しながら、凛は袴の膝の上で拳をきつく握りしめた。
凛の宣言を聞いた武蔵は素っ頓狂な声を上げ、座布団から立ち上がる。
「正気かよ?国境付近まで行こうってのか?戦時中でねえとは言え、村人の反乱や紛争が、あちこちひっきりなしに起きてるんだぞ」
「それは知ってます。でも、父が生きていると聞いたら、じっとなんてしてられません。私には、父しか身寄りがないんです。どうしても、行方が知りたい。現地を訪ねれば、もっと情報が得られるかもしれないから」
「紀一さんが、生きてるだと?……誰から聞いた?」
「……それは」
武蔵の鋭い視線が、凛の頭上から注がれた。凛はじっと俯いたまま、昼間出逢った青年の言葉を思い返していた。
「お前が誰からそんな話を聞いたか知らねえが、紀一さんの行方は、三年たった今でも分からねえんだ。オレがお前を都に連れてきたのは、お前に紀一さんを探させるためでも、未来記録士とやらの店を開かせるためでもねえぞ」
「え?」
感情を押さえ込めようとするかのような声音で、武蔵は凛に告げる。
「紀一さんに、頼まれてんだよ。何かあったときは、お前の面倒をみてくれってな」
「父が……武蔵さんに?」
相変わらず乱暴な口調の武蔵だったが、ほんの少し照れくさそうに、短い後ろ髪をかきあげた。凛は武蔵が言いよどむ姿を初めてみた。
「とりあえず、落ち着け。紀一さんを探すのは、もう少し情勢が安定してからでもいいだろ。都にも、紀一さんを知ってる人間がいるかも知れねえ」
嗜めるような武蔵の言葉に、凛は押し黙った。
――大通りで出会ったあの赤毛の男性は、まだ都にいるのだろうか。彼ならば、紀一の手がかりを握っている可能性がある。
「とにかく、当面の生活を考えろ。何でもいいから働くしかねえぜ。明日から、先方のトコへ連れてってやるから」
「はい……」
凛の本心は、すぐにでも紀一を探しに行きたい気持ちでいっぱいだった。しかし、武蔵の言う事は全て正論だ。今は働ける場所があるだけで有難い話。情報収集するにも無一文では移動さえ出来ない。
「ごめんおせ。お邪魔するがで」
――沈黙が降りた二人の部屋の外から、戸を叩く音と共に陽気な声が聴こえた。
凛と武蔵、二人同時に玄関を見詰める。幽霊騒の起きるボロアパートの突き当り、表札すらない凛の部屋に、武蔵以外の来客があるなんて珍妙な事もあるものだ。
「知り合いか?」
「いいえ。都には武蔵さん以外に顔見知りはいないです……」
不審に思いながらも、凛にはあの独特の鈍りに聞き覚えがある気がした。武蔵は襖を開けて、玄関へと足を運ぶ。が、次の瞬間。
「なッ!?」
「玄関の戸が開いちょったがから、入らせてもろうたぜよ」
武蔵が襖を開け放った刹那、彼の正面にはすでに男性が立っていた。流石の武蔵も驚愕の表情を浮かべ、襖から飛びのいて距離を取った。
「おい、凛!お前、鍵かけてなかったのかよ!?いつ盗人に入られてもしらねーぞ!?」
「ち、違います。普段はしっかり戸締りしてます。さっき、武蔵さんを部屋に入れたときですよ!あんまり武蔵さんが暴れるから、すっかり忘れていたんです……」
いくら武蔵に気を取られていたとはいえ、玄関の鍵をかけ忘れるなんて信じられない失態だ。凛も頭を抱えるしかない。
「人のせいにしてんじゃねえ!っとに、不用心な奴だぜ」
「だ、だから……たまたまですってば……!」
武蔵と凛が顔を見合わせたまま火花を散らしていると、不法侵入者の男性はさも愉快そうに笑った。彼の纏う黒染めの着物と、肩にかかる桧皮色の真っ直ぐな長髪を見た瞬間、凛の脳裏に大通りでの出来事が蘇った。
「あなたは、昨日会った……?」
「ッ?……てめえは……まさか、真剣 新助か!?」
凛が男性を問い詰めようとすると、それより早く隣の武蔵が大声を上げた。
「まつるぎって?」
凛は首をかしげて武蔵の顔を見上げる。武蔵は凛を庇うように男の前に立ちはだかると、腰にぶら下げていた刀の柄に手をかけた。
「ちょっと、急にどうしたんですか、武蔵さん?」
「穏やかがやないのう。ちっくと、遊びに来たばあながに。のお、いとさん」
「え……」
事態がさっぱり飲み込めない凛は目を丸くして、対峙する武蔵と男を見比べるしかできなかった。武蔵は切れ長の双眸に鋭い殺気を込めたまま、真剣と呼んだ男を睨みつけて言う。
「五十万圓の懸賞金のかかったお尋ね者は、住居侵入罪の上乗せくらい、屁の河童ってか!?」
お尋ね者。武蔵の台詞を聞き、初めて凛にも戦慄が走った。
「昔の話ちや。はや時効ろう?」
「阿呆が!三年前くらいじゃ、時効になんねーよ!」
「まさか……。戦の最中に、戦場から脱走して、国が手配状を出して行方を追っているっていう……あの真剣 新助……さん?」
青藍との戦では、数え切れない死傷者を出しただけでなく脱走兵も続出していた。
敵前逃亡を図った兵達は例外なく罪に問われ投獄されたが、真剣のように懸賞金までかけられお尋ね者になった者は、他にはいなかったはずだ。
「どうして真剣さんだけ、お尋ね者になったんですか?」
「こいつが、王城に仕える役人の一人だったからだよ」
武蔵は舌打ちをしながら、背後の凛に告げる。
「役人?」
「ああ。それも重役だ。……親父から聞いた話だけどな」
真剣が紀一の情報を知っていたのは、紀一と真剣が王城で働く同僚だったからのようだ。一方、当事者の真剣は二人の様子を芝居見物でもしているかのように、楽し気に眺めているだけ。
「いやはや、仲が良くてしょうえいなあ」
「真剣!てめえ、こんな薄汚いボロアパートに住んでる貧相な町娘に、一体何の用があるってんだよ!?」
…庇ってくれているのだろうが、武蔵の発言はさり気なく凛を侮辱しているようにも聞こえる。凛は敵意をこめて武蔵の背中をじろりと睨んだ。
「紀一の娘のおまえさんに、ちっくとワシの未来を視てもらいたくてな」
「私に……?」
「用向きはそれだけじゃ。ほしたら、居ぬるぜよ」
「……」
武蔵の背中越しに見た真剣は、昨日の別れ際とすっかり同じ、穏やかな微笑みを浮かべている。一見とても懸賞金のかかったお尋ね者には思えなかった。
「私たちに危害を加えないって、約束してください。私が記録符を施せば、立ち去ってくれるんですね?」
「おい、阿呆凛!そんな野郎の言葉を、信用するんじゃねえ!」
武蔵の背中から身を離した凛は一歩前へ歩み出たが、まだ体は震えていた。
正面から視線がぶつかると、真剣は丸みを帯びたつり目を細める。
一縷の悪意すら感じさせない笑顔だ。凛は彼を信じると決意し、深く深呼吸した。
「わかりました。それなら、引き受けます」
「ああ、頼むぜよ」
武蔵はブスくれた顔で凛と真剣の様子を見守っていたが、刀の柄を確り握った状態で待機している。いざとなったら、いつでも真剣に切りかかる心算だろう。
凛は、袂から抜き取った符を一枚つかみ、真剣に意識を集中させる。
意識を研ぎ澄ませ、対象である人物の気を探ると、凛の頭の中には自然とイメージが浮かび上がってくる。例えば、対象者の水周りのトラブルを案じさせる場合、水滴の映像であったり、雨が降る光景だったり……。複数のビジョンが混在するケースもあり、その場合どちらの傾向がより強いか確率として札に記録し対象者の運命を割り出す。
いくつもある、未来の可能性。それを予報するのが記録符だ。
「あれ……?」
「どうした?」
壁にもたれるように立っている真剣と、襖の前に構えている武蔵の二人が、同時に凛に注目する。凛は呆然と立ち尽くし、ぽつりと呟いた。
「……視えない……」
「はあ?」
武蔵があんぐりしているのを他所に、凛はもう一度瞼を閉じ、まばたきを数回繰り返した後、再び真剣を眺めてビジョンを探ろうとした。しかし、何度集中しても結果は同じだった。
「どうしたが?」
「真剣さんからは、運命の気流が感じられないんです……。いいえ、逆……?たくさんの可能性がありすぎて、はっきりとつかみ取れないのかも……。こんなこと、今までなかったのに」
真剣の運命の気流は、今まで凛が読み取ってきたどの人間とも異なっていた。彼から浮かび上がってくる未来のイメージの中で、鮮明なビジョンが何ひとつない。
「どがなことでもしょうえいから、教えてくれやーせんか?」
「でも、記録符に書けるような未来が視えていないんです」
凛は、尚も食い下がって来る真剣に対して、申し訳なさそうに答えるしかない。
「頼む。どんなに小さなことでも構わんから!」
真剣は、必死そのものだった。酷く焦っているかのように感じられる。‟記録に自信が持てない時はいい加減な結果を告げない”と凛は決めていたのだが、真剣の瞳を見つめている内に、つい言葉が飛び出していた。
「紅い、色が視えました。真剣さんの周りに。炎のようだと思ったけど、本当に一瞬で消えてしまったので、はっきりとしたことが分からないんです」
――燃え滾る炎のような輝きが一瞬だけ、火花のように凛の脳裏で弾け散った。
が、次にはビジョンが途絶え、それ以上真剣の気には踏み込むことができない。
「……成る程な。そうゆうこらぁ」
「え?」
「いい記録、ありがとう。ほんなら、ワシは居ぬるよ」
「あの……真剣さん?」
ぽんぽんと凛の頭を手で柔らかく撫でた後、用件は済んだとばかりに、真剣は襖に手をかけて部屋を立ち去ろうとする。
「待て!逃げるんじゃねえ、犯罪者!」
武蔵はとっさに真剣の肩をつかみ、呼び止めた。……が、真剣が振り返った瞬間、武蔵の体は石像の様に固まりピタッと硬直した。
わずか一瞬の隙に何が起きたのか凛には見えなかったが、武蔵の忌々し気な舌打ちが聴こえ、凛は思わず悲鳴を上げていた。
「てめえ……ッ」
「……真剣さん!やめてくださいっ」
――武蔵の額に、銃口が押し付けられている。
「凛っ、近づくな!」
「でも……!」
武蔵は、取り乱す凛の様子に気が付いて声を張り上げる。
凛と武蔵が青ざめているのにも関わらず、当の真剣はと言えば、口元を吊り上げて楽しげに笑っているではないか。
「ふざけんじゃねえ……コイツを下ろせ!」
「はははっ。すまん、すまん。ワシは茜音では、常に命を狙われちゅう。やき、癖みたいなもんじゃ。どうしたち、手が先に出るな」
不穏な台詞を言い放った真剣は、何事も無かったかのように拳銃を自分の懐に収めた。先ほどまでの張りつめた雰囲気は立ちどころに消え、凛もほっと胸を撫で下ろす。
「真剣さん。帰る前に一つだけ聞かせてください。真剣さんも未来記録士なんですか?父の知り合いで、重役なんですよね?」
凛に問いかけられた真剣はばつが悪そうな笑みを浮かべて、武蔵から距離を空けた。武蔵も刀の柄からは手を離し、緊張は解かないまま真剣を見据えている。
「ワシは紀一の護衛として、あいつに付いて行ったやか。ワシが未来記録士の能力を持っちょったら、ワザワザおまえさんに記録符を頼まないきね」
「父の、護衛を?」
「紀一だけやない。戦場に連れられた他の占い師も、皆そうじゃった。占い師は戦う術を持たないモンが殆どじゃ。誰かが傍にいて守らないかん」
どくんと凛の心臓が鳴った。頭では理解していたつもりだが、改めて現実を突きつけられた心地になった。紀一は本当に、戦場にかり出されていた。それが仕事とはいえ、まともな軍事訓練を受けていない人間が戦場で無事にいられるものなのか……凛は、正直恐怖を感じていた。
「父のことを教えてください。父が生きているって言うのは、本当なんですか?」
「紀一は生きている。これはまことじゃ。しかし、今はそれ以上話すことは出来ない」
「……どういうことですか?ちゃんと教えてください!」
懸命に懇願する凛の言葉にも振り返ることなく、真剣は襖を開け放った。
「待ってください!」
彼に駆け寄ろうとする凛の腕を、武蔵が引き寄せる。不意に抱きとめられた凛は、武蔵の腕から逃れようともがくが、その拘束はきつくてビクともしなかった。凛の鼻先を、白檀の香りが掠める。武蔵が好んで焚く香の匂いだ。
「武蔵さん、離してください……」
「阿呆。放っておけ」
「でも」
真剣新助は、紀一に繋がっている手がかり。凛も冷静ではいられない。武蔵はなだめる様な口調で、腕の中の凛に語りかけた。
「あいつは、ただの犯罪者じゃねえ。よく考えてみろ、三年前の戦の脱走兵なんざ、わざわざ懸賞金まで出して探す必要ねーだろ?」
「え?」
「なんかあるんだろうよ、あいつ自身に。少なくとも、国のお偉いさんが捕まえようと躍起になるくらいにな。これ以上関わらねえほうが身のためだ」
「そんな……」
緊張の糸が切れた凛は、その場に力なく袴の膝をついた。
武蔵はぼりぼりと後頭部をかきむしり、わざとらしく気楽な声音で言う。
「あー。とにかく、元気出せや。明日から仕事先に連れてってやるから。給金さえ入りゃ紀一さん探しにいけるだろうし、国家公認呪術師試験も受けられるだろうが」
「……」
「しおらしくしてんのも、らしくねえぜ」
「あの赤い光……」
「ああ?」
武蔵が気恥ずかしさを殺して凛を慰めている最中、凛は呆然と穴の開いた襖を見つめていた。
「あれは、まさか真剣さんの運命じゃ、ない……?」
「はあ?」
人間の運命は、常に変動し続けるもの。
結末は一つではないが、数ある可能性のひとつが未来を形作っていくのだ。しかし、人間の「気流」がつかめないことなど凛には一度も経験が無かった。
「嫌な予感がするんです」
武蔵は凛の傍に近づくと、彼女の頭に手の平をそっと載せた後、二、三回軽く叩いた。懐かしいその動作に、凛は反射的に顔を上げる。
(お父さん……)
――武蔵の手つきは、泣きべそをかく凛をあやす時の紀一の仕草に酷く似ていた。
「お前は未来が視えるんだろ?だったら、なんも不安がることないじゃねえか。先方は、お前の未来記録士としての予報を期待してるんだからな」
「武蔵さんは、私が占い師じゃなく未来記録士だってこと、信じてくれるんですか?」
「信じるか信じねえかは、お前のこれからの働き次第だ。ま、頑張れや」
「……はい」
紀一が、かつて口癖の様に凛に伝えていた言葉が三つある。
一つ。『未来記録士とは、迷える人々の灯台であるべきだ』。
二つ。『未来記録士は決して、自身の運命を視ることが出来ない』。
実際、紀一の言葉通り、凛には自分の明日が何一つ視えなかった。
『先が視えない未来のことを真に恐れうるのは、未来記録士本人である』。
これが、紀一が凛に残した言葉、最後の三つ目である。
最初のコメントを投稿しよう!