第二話 知らずの幸福

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第二話 知らずの幸福

「いいかい、(リン)。瞼を閉じ、耳を閉じ、頭の芯と身体の内側を空洞にしなさい。身体は器だ。気の流れを通すだけの筒なんだよ」 「その説明じゃ、良く分からないよ。それに、お父さんが言うような『き』なんて、全然視えて来ないもん」 「視えるというのは、何も視覚のことだけを意味するのではないよ」 「じゃあ、何なの?」 「心の内側――僕たちは皆、視覚だけでなく心の眼を開いて、人間の深淵を探っているんだよ」 「心の、うちがわ…?」 「心眼さえ出来ていれば、運命の気は誰にでも読める。しかし、今や心眼を正しく扱える者はこの国には殆ど居ない。僕たち未来記録士(レコーディスト)の能力は、この激動の時代に必ず必要とされる日が訪れるだろう」  紀一(きいち)は、未来記録士(レコーディスト)としての心構えや記録の仕方、記録符(レコード)の書き方を凛に熱心に指導した。 しかし、未来記録士としての能力が通用しない人間がいることは、教えてはくれなかった。 『いずれ、戦がまた起こるぜよ。おまえさんも、気をつけえ。国の道具になるか、ほれとも、国に逆らって自分の道を歩くのか。いずれにしたち、命を粗末にしやーせんようにな』 (……お父さん。私、初めて出会ったんです。どんなに心眼で見つめても、運命の流れを決して視ることが出来ない人に……) * * * 1  障子の隙間から漏れる朝日は、鉛のように重い目蓋をこじ開けて、まどろみから容赦なく引き剥がす。夢と現実の境で彷徨いながら、凛は腰の辺りまで下がっていた掛け布団を引っ張りあげ、再びすっぽり頭から被り直した。 まだ、眠っていたい。……夢の中でもいいから、父の声を聞いていたい。 「お父さん……」 (今、何処に居るの?)  夢の中の優しい父に救いを求めようとする凛だったが、そんな彼女の些細な願いも虚しく――。 「おーい、凛!起きてるかー?開けやがれ!」 「……もう、うるさい人だなぁ……」  聴こえて来たのはドンドン玄関の戸を叩く音と、武蔵(むさし)の叫び声だった。築三十年を数えるボロアパートの、立てつけの悪い引戸をあれだけ叩き続ければ、いつ風穴が空いてもおかしくない。 隣が空き部屋でなかったら、早朝の騒音で怒り狂った隣人が、凛の部屋に殴り込みに来たかもしれない。 (良かった……。この部屋がお化け騒ぎのオマケつきの人気の無い物件で…)  武蔵がこの調子では、二度寝も居留守も通用しそうにない。 凛は諦めて掛け布団をはぎ、上半身を起こした。寝相の悪さではだけた寝巻きの胸元を正してから、寝癖で乱れた髪はそのままで玄関へのそのそ向かう。  内鍵を開け、戸を開いた瞬間。 「うわあーッ!出たーッ?!」 先ほどまで威勢よく戸を叩いていた武蔵が、玄関前から後方へ飛びのいた。へなへな腰を抜かすと、地べたに座り込んでしまう。その狼狽え様といったら、健康的な武蔵の褐色の肌が青白く見えるほどだ。 「は?まっ、まさか……幽霊ですか!?ホントに居たんですか!?」  流石に異様さを感じた凛は、きょろきょろと周囲を見回し、最後に背後を確認した。 ……だが、それらしき気配はない。あるのは穴ぼこだらけの襖とぐしゃぐしゃに丸まった布団だけだ。 「あああーッ、黒髪のお化けーッ!!助けてー!なんまいだぶなんまいだぶ……」 「……はい?」  武蔵は凛を指差し、ぶつぶつ念仏を唱えている。「お化け」の正体が自分であることに漸く気が付いた凛は、顔面にかぶさっていた後髪を手ではけてから、冷静に言い放った。 「今、何時だと思ってるんですか!?こんな朝っぱらから、幽霊なんて出る筈ないでしょう」 「へ?お前、……もしかして、凛……か?」 「むぅ。ちょっと待っててください。今、顔洗ってきます!」  大口を開けて呆けている武蔵を玄関前に残し、凛は怒り心頭で部屋へ引き返して行った。 洗面所に閉じこもり、壁の鏡に映る自分の寝起き姿を確認してみる。 (……黒髪のお化けだなんて、相変わらず失礼な人なんだから!そんな風には、ちっとも…)  凛の髪の毛は、肩を越える長さのセミロングである。普段は髪を左右に束ねているから、武蔵は凛が髪を解いた姿を見たのは初めてだろう。おまけに、寝起き姿の凛は浴衣も着崩れし、花も恥らう乙女の姿と遠くかけ離れていた。 無心で蛇口から流れる水をすくい、凛は顔を洗い続けた。気恥ずかしさと居たたまれなさで、頬を真っ赤に染めながら。 「凛。お前は一度、女らしさっていうものを学習した方が良いぞ。占いなんかで青春を浪費してる暇があったらな」 「わっ、私は早く立派な未来記録士(レコーディスト)にならないといけないんです。だから、そんなもの勉強している暇なんてないんです!」  我ながら苦しい言い逃れをしている自覚はあったが、凛にもちょっとしたプライドはあった。そもそも、時刻はまだ午前七時半。早朝から武蔵が訪ねて来るなんて露にも思わず、凛はすっかり油断してしまっていた。 「今日だって、早く起きるつもりだったんですよ。昨日の夜、良く眠れなかったせいで……」 「お前、まーだ気にしてやがんのか。真剣 新助(まつるぎ しんすけ)の未来が視えなかったことを」  用意した武蔵専用の湯のみ(ふちが欠けている)に、またしても出がらしの茶を注ぎながら、凛は表情を曇らせる。濁った液体がふちの残り一ミリほどまでたっぷり注がれていくのを見守り、武蔵は顔を歪める。 「その無駄なサービス精神、なんとかならねえのかよ。そんなになみなみ注いじまったら、零れちまうだろうが!」 「運命の気流が視えない人なんて、この世に存在するんでしょうか。私は修行中の身ですが、これまで何十人と視た中であの人が初めてなんです」 「人の話聞いてねえし!」  武蔵は仕方なく上半身をかがめ、湯飲みを持ち上げることなく直に口をつけると、ずーっと啜る様にして茶を飲んだ。 「……あっち!!」 ――そして、案の定自爆した。 「行儀が悪いですよ、武蔵さん」 「てめえが、こんなぎりぎりまで注ぐからだろうが!しかも、めっちゃ熱ちぃし!」 「熱い方が、美味しいと思ったんです」 「出がらしだろうが!?熱かろうが温かろうが、同じだっつーの!つか、オレは猫舌だ!」 「そんな、狸みたいなお顔で……?」  平然と武蔵に突っ込みを入れつつ、凛は桃色の湯飲みを静かに一口すすった。 「やかあしい!仕事先に連れてってやらんぞ!」 「口が過ぎました。ごめんなさい、ネコさん」 「猫じゃねー!ったく、可愛げの欠片もねえ!」  仕事が関わってくると、凛は素直に(表面上だけ)武蔵に頭を下げる。 変わり身の早さがあまりに早くて、武蔵はどうも面白くないらしい。「けっ」と舌打ちをしてから、不機嫌そうに続けた。 「先方は、お前の記録符(レコード)に期待しているらしい。お前は先方の望むとおりに未来予報をしてやればいいだけだ」 「……はい」 「どーしたよ?」 「なんでも、ありません。私、頑張ります」  俯いた凛の細いうなじは、武蔵の目には酷く頼りなく映った。 普段は強がっているとはいえ、凛はまだ十六歳の少女だ。 幼くして母を亡くし、育ての親の祖母は既に他界している。父の紀一だけが身寄りだったのに、現在はその父すら行方不明という状況だ。都に一人きりでは心細いに違いないだろう。 「あー、そんなに心配すんなって。いつも通りかましてくりゃいいじゃねえか。なんなら景気づけにオレの運命、予報して行っても良いぜ?」 「えっ、本当ですか?武蔵さん、いつも記録符(レコード)を嫌がるのに……」  天パーの前髪をかき上げながら武蔵が慰めの言葉をかけると、凛は瞳を輝かせてぱっと顔を上げた。 「嫌がっても結局おまえ、いつもやってるじゃねえか」 「で、では、遠慮なく!」 「あ、ああ…」 ――なんだか、嫌な予感がする。  武蔵は今更ながらに自身の軽率な発言に後悔したが、時既に遅しだった。 凜は、着物の胸元から記録用の札(薄水色の和紙を長方形に切ったもの)と、専用の色鉛筆(桃色)を取り出した。そして、いつもの様に両の瞼を閉じ、対象に意識を集中する。 (目に見える視界ではなく心眼で、人間の本質を、気の流れを掴むこと…) 復習をするかのように、夢の中での紀一の会話を繰り返しながら、武蔵の内側を凝視していく。再び目を開き、ビジョンを記録する。 「武蔵さんの本日の運命は――……」 「……」  武蔵は、ごくりと喉を鳴らした。 占いは信じないと普段から公言する武蔵だが、お化けを恐れるなど、実は小心者の一面がある。 「軽い火傷の確率が九十九パーセント。女難の確率が、六十三パーセント出ています」 「……それ、毎回思うけど予報するまでもなくねえか?」 「は?」 「いや。なんでもねえ。とりあえず、茶を飲んだら行くぞ……」 重苦しいため息をつく武蔵だったが、彼の繊細な舌先が凛の出したお茶のせいで火傷状態だったのは言うまでもない。 2  武蔵に連れられて凛が訪ねる「仕事先」とは、都の外れの街道沿いに立地する、立派な洋館だった。 西洋の文化に影響され始めた茜音(あかね)では、裕福な商人や珍品好きの貴族たちの間で洋風建築が流行し始めている。  もっとも、豪奢な屋敷を建てられる身分の人間は、指を数えるほどしか都に存在していない。町民たちの多くは貧困に喘いでおり、もっぱら木造建ての平屋暮らしだ。屋根は藁葺きかトタンで、せいぜい瓦を用いるのが主流になっている。 「あの、武蔵さん。こんな立派な屋敷の方が、雇い主さんなんですか?」  身分差を感じた凛は、屋敷を前に足が竦んでしまった。 白い壁には、センス良く敷き詰められた赤レンガの色身がよく映える。屋敷全体を覆う蔦みどりが鬱々とした雰囲気を醸し出し、凛の緊張感を煽っていた。  屋敷の扉まで伸びる石畳のモザイクタイルは、純白を貴重とした配色の中に遊び心溢れるパステルカラータイルが黄金律で配置されたもの。眼前に聳える入り口の門は漆黒の鉄柵で、高さ約二メートルはあるだろう。 「親父の知り合いの貴族様の家だ。なんでも、お抱えの占い師が突然失踪したんだとよ。その代わりを務められる腕利きの占い師を探しているらしい」 「失踪?」 不穏な単語に凛が肩を跳ねさせると、武蔵は悪戯っぽく口端を吊り上げて笑う。 「あーほ。ビビんなって。お前に今回の仕事を頼んだのは、何もお抱えの占い師になれって訳じゃねえ。ここのお坊ちゃまの未来を視てやればいいんだ」 「……はあ」  凛は武蔵に背中をぽんと叩かれ、前に押し出される。下駄の足元が不安定に傾き、胸の前で握りしめた掌は冷や汗をかいていた。 なにせ、凛にとっては都に来て始めての『仕事』だ。緊張するなと言われても、自然と力が入ってしまう。 「いつもの威勢はどうしたよ?上手くやれば、今日の稼ぎだけで十分、紀一(きいち)さん探しにいけるぜ」 「え?」 「給金、一回三十万(えん)!!」 「ええ!?」  武蔵が凛の耳元に小声で囁いた金額が、更に凛の身体を竦ませる一因となった。 一回の記録符(レコード)でさえ、紀一は「一万圓」で視ていたと聞く。 一般の占い師でも(赤星(あかぼし)の数や内容、人気にもよるが)鑑定で取る金額はせいぜい三万圓ほどだろう。 「そんな大金はいただけませんっ。そんなの、巷で占い師を騙り、高額な金品を巻き上げている詐欺師と変わらない額じゃないですか!?」 「しーっ。でけえ声で詐欺とか言うな!とにかく、中に入るぞ」 武蔵は、鉄柵を両手で押し開け、先にすたすた門の中へ入って行ってしまう。 「ま、待ってください!」 ――置き去りにされるのは困る。凛は下駄を鳴らしながら、武蔵の派手な寅柄の着物の背を慌てて追いかけていった。 * * * 「お待ち申し上げておりました、武蔵さま。そちらのお嬢さんが、そうですかな?」 「ああ。凄腕の占い師だ」 「…未来記録士(レコーディスト)です」  屋敷の門をくぐって呼び鈴を鳴らすと、すぐ扉が開かれた。初老の男性が凛と武蔵を丁重に出迎える。痩せこけた頬にやや腰の曲がった姿勢は、重ねた年齢のためというより病的なものの影響に見えた。  やつれた外見であってもそこはかとなく気品を感じられるのは、彼が身に纏う衣類が上等だからだろう。 洋服と革靴は、凛も都で何度か見たことがあった。タキシードと呼ばれる正装は黒い上下で上着はボタンという留め具で着脱する。シャツの(ボタン)は随分と小さいものだった。あの釦一つ一つ留めるのは、普段和服しか着ない自分には難しそうだな、と凛は思った。 「坊ちゃまは、自身の運命を知りたがっておるのですが……」 「はい」  老人の後に続いて長い廊下を行く間、凛は落ち着かない心地で壁の絵画や装飾品を眺めて歩いた。 天井には、貧しい村出身の凛が生まれて初めて見る煌びやかな照明がぶら下がっている。ガラスの粒が無数に吊り下げられ、藤の花のように垂れている形状が優雅で凛の目を奪った。物珍しげに見上げる凛に気づいた武蔵が小声で「あれはシャンデリアっつーんだと」と、教えてくれた。 「お坊ちゃまは、占いの結果が気に入らないと、すぐに占い師を首にするのでございます。雇っては解雇し、呼びつけては追い出し…。そんなことが、かれこれ一年ほど続いております」 「ええっ?」 「そうなのか?」  武蔵も、老人の言葉にぎょっとした表情を見せる。 「じゃあ、占い師が失踪したっていうのは……?」 「……」 凛は恐る恐る訊ねたが、老人の背中からは答えは返って来なかった。 「こちらの部屋でございます。坊ちゃまを、宜しくお願いいたします……」 「おいッ、ジジイ!」 「おねがいいたします。坊ちゃまの未来を、照らして差し上げてください……」  武蔵が暴言で呼び止めたが、老人は深々と頭を垂れた後、長い廊下の奥へ消えていってしまった。 「とりあえず、その坊ちゃまとやらに会ってみようぜ」 「はい……」 『お前は、人々の未来を照らす、灯台になりなさい』 父の言葉を胸に抱きながら、凛は意を決して扉のドアノブを掴み、引いた。  開いた先の光景は、一面雪景色のような白だった。 この屋敷の外観は全体的に純白なのだが、部屋の白さと言ったら目が眩みそうなほどだ。壁は勿論、カーテンのレース、テーブル、二脚置かれた椅子、壁際に置かれている本棚と戸棚……視界に存在する物すべて白一色。 「キミたちが、そう?」  凛と武蔵が唖然と室内を見渡していると、白銀の天蓋つきベットに横たわっている人影が声をかけてきた。依頼主の少年だった。 「未来が視えるんだってね?」  凛と武蔵は、ゆっくりと声の主の方へ歩み寄る。「坊ちゃま」と呼ばれていた少年が、ゆるやかに上半身を起こした。 「ボクは、リアム。キミの名前は?」 「凛です。花加 凛(はなか りん)」  凛が消え入りそうな声で答えると、少年はそっと笑みを浮かべた。人形のように綺麗な冷笑に、引っ込んでいた凛の不安が再び湧きあがる。  リアムと名乗る少年の瞳は、澄み切った夏空に似ていた。首の辺りで切りそろえられた細い金の髪は、窓辺から差し込む陽光に照らされて煌めいている。 「おまえ、異国のもんか?」  凛が少年の美貌に見惚れていると、背後に立っていた武蔵が呟くように言った。 「うん、母がね。もう死んじゃったけど。昔から病弱だったんだ」 「お前の未来を視るために、こいつがやって来た。お前の願いは未来を知ることなんだろ?」 「……そうだよ。ねえ、リン。教えて欲しい」 リアムは、ベッドサイドに佇む凛の手を取った。 「……うっ」  ぞくりとするほど、冷ややかな掌だった。凛はとっさに悲鳴を上げるところだったが何とか堪えた。 氷を掴んでいるようで、体が芯から凍えそうになる。 「ボクは占いなんて、どうだっていいんだ。ただ、答えが知りたいだけなんだ。占い師が言う気休めの言葉も、希望的観測も求めていない。知りたいのは、確実な結果だけなんだよ。キミには、それが出来るんだよね…?」 「それは……内容によります。でも、わたしが視るのは未来の可能性だから、占いとは違います」 ――気休めや、安易なごまかしを言わないこと。迷える人々を導くために視えた運命の予報は偽らないこと。それは紀一の教えでもあり、凛のポリシーだった。 「そうか。じゃあ、お願いするよ。……ボクが死ぬ日を、教えてくれないか?」  白い窓辺の外で、さわさわと庭の木立が揺れていた。 凛はリアムの切実な願いを、ただ黙って受け止めた。 「死ぬ日、だと」  沈黙が降りた室内の中で唯一、武蔵が低く呟く声だけが響く。 「阿呆か、お前!そんなこと知ってどうするつもりだ!?」 「どうもしないよ。ボクはもうウンザリなんだ。治る見込みの無い病に苦しみながら、明日『死ぬかもしれない』と怯えて、一日中ベッドの上で死ぬ瞬間を待っている生活なんて…」 「だからってなあ!」  顔を見なくても、武蔵が眉間にしわを寄せて拳を握り締めている様子が凛には予想できた。 ――武蔵が、自分の身を案じていることも知っていた。 未来記録士と言っても、凛には遠い未来の結末が視えるわけではない。何年後とか何十年先とか――そこまでの運命は気を視たとしても正確に予報できない。 「遠い未来までは、わたしには視えないんです。明日とか一ヵ月後とか。それくらいのビジョンなら視えるけど…」 「うん、ならそれでいいよ。じゃあ、『死ぬとき』が視えるまで、毎日ボクの未来を視て。ずっとボクの傍に居てくれない?」 「それは……っ」  凛の手を通じ、リアムの心の悲鳴が伝わってくる。渇いた蒼穹の眼差しに訴えられ、凛は喉を詰まらせた。 「てめえがくたばる日まで、凛にココに居ろってのかよ!?」 リアムの一言に血相を変えた武蔵は、病弱なリアムに今にも飛び掛らんばかりの勢いで迫った。 「武蔵さんっ」  凛はリアムの手を離すと、武蔵の胸を両手で押し返して止めようとする。 「こんなふざけた依頼、受けることねえぞ。仕事ならまた探せばいいだろ」 リアムの提案には、さすがの凛も当惑するしかない。依頼人が望むなら『正しい未来予報』を示すのは未来記録士(レコーディスト)としての正当な仕事だ。 けれど。 (リアムの死の瞬間が視えるまで、傍に仕え続けるなんて……) 「ちっ。占い師が失踪する理由も分かるぜ」 武 蔵は忌々しげに呟くと、ぐいっと凛の腕を掴んで引っ張った。 「帰るぞ、凛」 「待って!武蔵さん……」 凛は両足で必死に踏ん張って武蔵の手を振りほどき、ベッドに座っているリアムと目を合わせた。 「リン?」  無言のまま瞼を閉じた凛に、リアムが不思議そうに首を傾げる。さらりとした金髪がパジャマの肩に滑り落ちた。  凛はリアムの「気」を心眼で読み取るべく、意識を研ぎ澄ませる。脳裏に浮かぶビジョンは映像となり、凛に未来を報せてくれる。 (リアムの中にある、この景色って……)  凛の脳裏に、薄桃色の花びらが幾重も散っていた。ふわりふわり。初雪がやわらかく降り積もるように、リアムの周囲に桜が舞い散る光景が鮮明に視えた。 リアムが自ら閉じた扉の奥に封じ込めたもの。『死』を望む以外の、真の願いは……。 「桜の花……」  桜舞う世界に佇むリアムを目にして、凛は目頭が熱くなるのを感じた。 勿論、彼の周りに桜の花びらが見えているのは心眼でリアムの運命の気が視える、凛ただ一人だけ。 涙を堪えようと思っても、胸が締め付けられるように切ない。制御できない感情は、凛の瞳から涙になって滴り落ちていった。 「リン……?」 「リアムの本当の願いは……死ぬ日を知ることなんかじゃ、ないじゃないですか」 「どういうこと?」  零れた涙を着物の袖口で拭うと、凛は毅然とリアムを見据えた。先ほどまでと明らかに違う凛の態度に、リアムが大きな瞳を見開いて驚いている。 ――人々の迷いの海を照らす灯台とは、その人が真に望む願いを視て、感じ取って、そこへ導いてやること。それが出来るのは未来記録士である自分しかいない。 凛には父の言葉の本当の意味が理解できた気がした。 「リアムの願い、叶えに行きましょう。それがわたしの仕事です」 「はあっ?」  武蔵が素っ頓狂な声を上げるのと、凛がリアムの手を再び握りしめるのは同時だった。凛はリアムの手を引き、ベッドから下りるのに手を貸してやった。 「こらこらこら、阿呆凛!てめえは何をやってんだ!?」 「武蔵さん。桜を見に行きましょう!」 「はああああああっ?阿呆をすっ飛ばして、てめえは大馬鹿か?この秋月の真っ只中に、桜なんて咲くわけがねえだろうが!」 「冬桜なら、この時期の山に咲いてますよ」 「登山しろってか!このオレ様にっ?」  ベッドから下りたリアムは、凛と殆ど背丈が変わらなかった。元々小柄な体型なのだろうが、病のせいで痩せ細った姿は凛よりずっと幼い子供のように見える。 「で、桜を見に行ければ、てめえは給金を払うってのか?」 「そうだね。それでいいよ。どうせ、もうここに居るのは飽きていたもの。じいやも一人で外に出たら駄目っていうけど、キミ達が一緒なら許してくれるだろうし…」 「なんで、オレがてめらのお守りして、仲良く桜なんぞ見に行かなきゃなんねーんだ!?」 「武蔵さん、お願いします」  凛は大声で抗議する武蔵に頭を下げるが、武蔵は「割に合わない」、「タダ働きはしねえ主義だ」、「給金の半分は紹介料として寄越せ」とぎゃあぎゃあ喚き出した。 「桜…懐かしいな」  リアムは、ただ静かに微笑んでいた。最初に扉を開いて挨拶した際に見せた冷酷な笑みとは違う、血の通った表情だった。 (お父さん。もう一度会える日まで…わたしにできる仕事を、精一杯頑張ります)  茜音(あかね)の都で、凛の未来記録士としての初仕事が、こうして幕を開けたのであった。
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