さらば初恋

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さらば初恋

六歳まで隣に住んでいた一條陽(いちじょうはる)が引っ越して行った時のことを、片井都(かたいみやこ)は今でも鮮明に思い出すことができる。そのくらい陽は自分にとって大切な存在だったし、幼かった自分の印象に残るほど稀で美しい容姿をしていた。  きれいに丸くカットした黒髪の下で主張する切れ長の瞳と、くっきりとした二重を飾る細く長い睫毛。いつもよそ行きのようなシャツとネクタイ、ジャケットと対の膝丈のズボンを履いていて、そのせいか普通の男の子が好むような服を汚す遊びは一切しなかった。昆虫よりも花が好きで、またそれが貴公子然とした陽には良く似合った。  花の種類にも詳しくて、陽の家の庭木についても細々と説明してくれた。ハーブやプチトマトなど食卓に縁の深い鉢を回った後で、垣根のように弦を絡ませた小さな花に目を奪われた。 「それはね、茉莉花。ジャスミンだよ。僕が生まれた年に、お母さんが植えたの」 「ジャスミン? これ、ジャスミンなの? お茶にもなる、あれ?」  興味深そうに白い花弁に伸ばした都の指先を、何か言いながら陽が止めたように思う。その時、ひどく怖いことを聞かされたような気がするが、どうにも良く覚えていない。それからすぐに、陽が山形に引っ越すことを聞かされて、花どころではなくなったせいかもしれない。陽と離れるのはとてもショックで、都は泣いて泣いて顔がパンパンになった挙句に冒頭の言葉を陽に告げた。都が泣きすぎたせいで陽は逆に自分がしっかりしなくてはと思ったのか、終始笑顔で都を慰め、突然の逆プロポーズも動揺せずに受け入れた。  紛れもなく、あれは初恋だったと思う。  ただその初恋は、都と陽が中学に上がった際、地味に続けていた文通で互いの制服姿の写真を交換し、一目見た時に儚く散った。  そこには嘗ての美少年ではなく、セーラー服姿で艶やかな髪を湛えた清楚な美少女が写っていたのだ―― 「女の子じゃん!!」  都が思わず叫ぶと、傍らに居た母が半笑いで手元を覗き込んだ。 「あらー陽ちゃん、綺麗になって。子供の頃は王子様みたいに可愛かったけど、やっぱり女の子ね」 「お、お母さん知ってたの?」 「そりゃそうよ。陽ちゃんのお母さん、こんな格好だけど女の子なんですよってちゃんと言ってたもの」 「……私には、言ってくれなかった。てか、誰も教えてくれなかった。陽も自分のこと、僕って言ってたし」 「まあ、子供の内はどっちでもあまり関係ないわよね」 「いや、大事だからそこ!」  都の嘆く声を母はどうでも良さげにスルーした。親にとってはその程度のことだ。それでも都自身は思いのほかこの事実を引きずり、更に四年後、陽が今度そちらに行く用事があるので会いたいと言って来た時も返事の前に少々悩んだ。 (でも会った方が、きっと吹っ切れるし)  そう決意して前向きな返信をすると、不思議とそれだけで腹が据わった。
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