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冬を超えて、季節は春。
三月二十四日から彩夏の学校は春休み。
光橋製薬株式会社は決算月で忙しい。
その時期に三日間。秘書課に彩夏と伊月の職場体験が決まってた。
あえて忙しい時期なのは、雑務に手がつけられない為に彩夏と伊月に手伝ってもらいたいから。
二人は、業務時間の一時間前に松井の案内で秘書課を訪れた。まだ誰も出社していない。
「業務時間より早く出社してもらったのは、業務が始まると説明する時間がないからなんです。お二人とも早い時間からありがとうございます。さて、二人にしていただくのは主に会議が行われる際の準備、パソコンなどの電子機器の整理整頓になります。新しい機器を導入して、その際に出たゴミの整理もあります。会議等の秘書業務として同行を一緒にしてもらうこともありますが、主な業務はそうなります。質問はありますか?」
「だ、大丈夫です」
彩夏は緊張で口がうまく回らない。
「私も大丈夫です」
「この後、秘書課の皆さんに紹介します。名前と簡単な挨拶をしてください」
「簡単な挨拶って…?」
「よろしくお願いしますだけでいいですか?」
「構いません」
伊月は家柄もあるのか、緊張に飲まれず、ピシッと背を正している。
伊月ちゃんさすがやな…!
「伊月さんは伊月コーポーレーションのお嬢様だと知らずお声がけしてしまい、失礼しました。しかし、よくご両親がお許しになられましたね」
「両親はまだ未成年で学生なので社会勉強として参加するのは、大丈夫だとのことでした。光橋社長も彩夏ちゃんを通して理解を得ていただいてますし。ただ改めてお願いですが、念の為、私が伊月のものだと言うのは伏せておいてください」
「承知しました」
松井は笑顔で答えた後、一通り秘書課のあるフロアを案内した。角にある小さな部屋が彩夏と伊月に与えられた作業部屋だった。乱雑に置かれたファイルやパソコン、電子機器が散乱していた。
「設備をしてから綺麗に片付ける間もなく、決算月がやってきてしまいまして…お恥ずかしい限りです」
彩夏と伊月はその場を見て、用意したリクルートスーツとヒールよりも動きやすい格好とスニーカーになりたいと思った。
「さて、そろそろ社員が参ります。彩夏様はこれから石橋さんとお呼びしますね」
「はい!」
「挨拶の際、社長をお呼びして一言いただけるようにしていますので、その際は何分、二人とも初対面のふりをお願いしますね」
「え、あっ、はい!」
彩夏に一気に緊張が高まる。
「わかりました」
伊月は相変わらず、堂々と対応している。
彩夏のリクルートスーツを見立てた旦那ー社長と初対面のふりを大勢の前でしなければならない。助けを求めるように、伊月を見ると、少し楽しそうに口元を緩ませている。
これ、松井さんも伊月ちゃんも絶対楽しんでるやろ!!
「こちらが、私の知り合いの娘さんたちで、今回、職業体験と雑務を三日間することになった石橋彩夏さんと伊月紗名さんです」
「平原女学院に通う高校二年の伊月紗名です。よろしくお願いします」
伊月はお嬢様だけあって、大人の前で慣れた挨拶だ。綺麗に手を前に重ね、四十五度にお辞儀をした。
「同じく平原女学院二年の!石橋彩夏です!よろしくお願いしますっ!」
彩夏は四十五度以上、お辞儀を勢いよくした。
「そんなに深々と下げなくて大丈夫よ」
「そうだよ。社会体験なんだから、楽にね」
「決算月とはいえ、他の部署よりまだ秘書課は余裕あるから、わからないことがあったら聞いてね」
他の秘書の人たちの優しい言葉に二人は胸を撫で下ろした。
「おはよう」
秘書課の続きドアが開いて光橋がやってきた。
「おはようございます」
秘書課の皆が一斉に頭を下げるので、二人も慌てて頭を下げる。
「みんな顔を上げてくれ。君たちが社会体験できた学生さんたちか?」
すごい!光橋さん、普通に話しかけてきた!
二人が頭を上げるとビジネスモードの猛々しい顔つきの光橋がいた。
彩夏は濃紺のネクタイに目がいく。今朝、彩夏が選んだものだ。
「はい。私の知り合いの娘さんたちです」
「無理せず、頑張って。将来の為に生かしてくれ」
光橋が伊月に手を差し出す。伊月はありがとうございますと笑顔で握手をした。
次は彩夏だった。彩夏は光橋の目を見てしまったら、心臓が破裂しそうなので、少し目線を下げて手を握った。
えーと、言わなあかんのは!
「そ、そのネクタイ、お似合いですっ!」
思わず先程目に入っていたことが口に出た。やってしまったと彩夏はますます目線が下がる。
「う、あ、ごめんなさい!失礼しました!」
彩夏の慌て振りに周りが笑う。彩夏は顔から火が出そうだった。
「構わない。このネクタイは気に入っているんだ。そう言ってもらえると嬉しい」
「ど、どうも!」
彩夏が頭を恐る恐る上げると、光橋は呆れた目をしていた。
彩夏は心の中で必死に謝った。
「それぐらいでとって食わないから安心してくれ…じゃ、頑張って」
光橋は背を向けて、社長室へと戻った。
朝礼を終えると、彩夏は一気に脱力した。
「ぜったいみ…し、社長怒ってる!」
「大丈夫です。あれは心配している目でした」
「ここからだよ。彩夏ちゃん!」
松井と伊月に小声で励まされた。彩夏はとにかくやれることを頑張ろうと決めた。
秘書の仕事は、社長や役員の業務のサポートとスケジュール調整、対話の際の補助、社長の会議にも参加しておく必要がある。
松井の説明を思い出しながら、彩夏と伊月は雑務をこなす。
作業の合間に聞こえてきた会話に耳を澄ませると、電話での対応が英語で二人は秘書課の能力の高さを知った。
また会議の準備と会議に同行すると、社長や役員の一歩後ろで、彼らから聞かれたことに答えたり、メモを取ったりする姿はそつなく、格好がいい。彩夏と伊月は秘書たちをじっと観察した。
職場体験は、16時までとなっている。
気がつくと退社時間になっていた。明日は早めに出勤しなくてよいので、10時からとなっていた。
「食堂でも、いろんな人がいてな。いろんな人の話が聞けて刺激的やった!」
「心配したが、無事にまず一日が終わって何よりだった」
光橋が帰宅したのを知るや。彩夏は光橋のマンションを訪ねた。
光橋は濃紺のネクタイを解いている所だった。
「明日は光橋社長に病院の関係者がアポがあるよな?うちが松井さんと二人で参加するからな」
「そうか…」
「どうしたん?ボーっとして?」
「いや…まだスーツだったのか?」
「気を張ってたのか、立夏さんが入れてくれたお茶飲んでたら、そのまま椅子に座ったままで。光橋さんが帰宅したのがわかるまで動く気になれんかったんよ」
光橋が彩夏の胸元を見る。
「何?」
光橋の手が彩夏の一番上のボタンを取った。
「な、なんなん?!」
突然の行動に彩夏は戸惑う。
「息苦しいだろ?スーツは俺が選んだだけあって、きちんと体格に合ってる。大事にしろよ」
「もちろんや。採寸して一から仕立ててくれためっちゃいいスーツやもん!」
光橋はジャケットをクローゼットにかけた。それから彩夏を見た。
「ん?」
光橋の右手が彩夏の右頬に触れる。彩夏の片頬を包み込むほどに光橋の手は大きい。
「なんやくすぐったい…」
そしてそのまま、彩夏の小さな口元を自分の口に近づけた。
やっぱり変なタイミングでキスするんやな…。
彩夏は目を閉じた。
翌日、午前からまた片付けに追われていた。大量の段ボールと機材。ファイルの電子化に向けて処分される空のファイルの山はまだたくさんある。
「ほんま雑務やな…」
「学生ができることなんて、これぐらいだよ。他の人の姿を見ていたら、難しいことばかりだし」
「ほんまなあ…」
二人はファイルの外側に書かれたシールを剥がす作業を続けているが、タイトルの意味はわからない。
「午後から彩夏ちゃんは、社長とのアポだよね。このフロアの応接室を使うって言ってた」
「うん。伊月ちゃんは役員と部下の会議で会議室Bやっけ?」
「そう。彩夏ちゃんは人数少ないから見てて緊張しそうだね」
「でも昨日の広い会議室よりも近くで光橋さんの仕事を見れるから、楽しみや」
彩夏は胸を高鳴せながら、ファイルのシールを勢いよく剥がした。
午後の応接室のセッティングをした彩夏と松井。そして光橋は来客を応接室に招いた。
セミロングの黒髪に紺のパンツスーツを着た女性は柔らかい雰囲気を纏っているが、目はぐっと力が入っている。
「T大学病院の臨床検査部長の菊池です。この度は治験薬に関してのご相談に参りました」
彩夏は会話の内容はわからない。松井は側であれやこれやとそつなくデータを出したり、パソコン上に文字を打ち込んでいる。
彩夏は壁際で立ち、その様子を観察する他ない。昨日もそうだったが、ただただ圧倒されるばかりだった。
「ではその方向でこちらの担当に話をつけます。後日担当者から連絡するよう伝えます」
「よろしくお願いします」
三十分ほどで話はまとまった。
松井が彩夏にお茶を下げるようにと目線で合図をした。彩夏は応接室のテーブルに近づく。
「少し席を離します」
松井が時刻を確認にして、スマホを取り出していた。どこかに連絡しなければならなかったのだろう。
彩夏はお盆を持って、湯呑みを取った。
「まさかこのような形で再会するとは思っても見なかったけれど。私も立場のある人間になって、光橋くんと接することができてよかった」
菊池の発言に彩夏の手が止まった。
思わず彩夏は光橋の顔を見るが、光橋は目線を下にしていた。
光橋さんの顔、うちにしか見せへんと思ってた困惑した顔してる。一体どういうこと?!
菊池を見ると目が合った。
「あっ、すいません!す、すぐ下げます」
「学生さん?」
「は、はい!平原女学院の二年です。社会体験として、秘書業務を手伝ってます」
「初々しいな。私の学生時代を思い出す。実は光橋社長とは、大学の同期だったの」
会議時のやりとりの緊張はない。柔らかい表情で菊池は彩夏に話しかけた。笑顔がとても素敵だと彩夏は思った。
「そうやったんですか!」
それであんな意味ありげな会話?にしてはあの光橋さんの表情なんやったんや?!
彩夏はもう一度、光橋を見る。困惑顔ではない。凛々しい顔つきに戻っていた。
「君の目覚ましい活躍を見れて嬉しい」
「ありがとう」
菊池の笑顔は心から嬉しそうだった。
彩夏は二人の関係がさらに気になるが、職務中である。
彩夏は目の前のお盆を下げることに集中した。
数分後。湯呑みを下げた彩夏はもう一度、誰もいない応接室を覗く。
先程二人が向かい合わせに座っていた場所を見た。
なんか光橋さん、昨日から様子がおかしい気がするんよな…。
「ん?」
彩夏は小さなガラスの破片のようなものが床に落ちているのを見つけた。
よく見るとイヤリングだった。
「これって菊池さんのイヤリング?」
秘書室にいた社員に声をかけると、菊池はまだ来客用IDを返していないと言うことだった。
まだ社内にいるのかも!
彩夏はエレベーターに向かって走り出した。
一階に降りると会社の関係者と話をして別れたところだった。
「あの!菊池さん!」
「あなた…さっきの学生さん?」
息をきらした彩夏に菊池は足を止めた。菊池はイヤリングのお礼に、自販機で飲み物を買ってあげるという。
「そんなうちなんかに!」
「いいの!気にしないで。時間は大丈夫?」
「今日はもう私が任されてる雑務に戻るだけなので少しなら」
伊月はまだ会議室にいるはずだ。特に社員からの指示もない。ここで少し休憩をしていても大丈夫だろう。
ラウンジのベンチに彩夏と菊池は座った。
「石橋さんって言うのね。よろしく。はい!オレンジジュース」
「ありがとうございます」
「いえいえ。実は平原女学院は私の母校でもあるの」
「そうなんですか!」
「うん、そう」
二人は平原女学院で話が盛り上がった。それから彩夏は様子を見て、気になっていた話題を切り出した。
「光橋…社長と大学が一緒だったんですか?」
「そうよ。私は薬学部。光橋くんは経済学部で学部は違うんだけど、同じ教授の講義があってね。たまたま隣になったら、共通の友達がいるってわかって仲良くなったの」
「そうなんですね」
「石橋さんは光橋くんの知り合いなの?」
「いや、松井さんを通して今回、職場体験をしたので、社長は知り合いというか…その…」
「あ、わかった!光橋くんに一目惚れしたのね」
間違ってはいないが、かなり昔だ。まさか今までのことを話すわけにもいかない。彩夏はゆっくり頷くしかなかった。
「光橋くん、昔からモテててたけど、クールだからなかなか近づけないよね」
「そ、そうですね…」
彩夏は口が裂けても一目惚れした後、十年片想いし、一方的に好きと言い続け、結婚までこぎつけたとは言えなかった。
彩夏はオレンジジュースのプルトップを開ける。菊池はブラックコーヒーを飲んでいた。
「大学卒業してから、同窓会で再会した時は嬉しくてね。まさか光橋くんが私と付き合ってくれるとは思わなかったなあ」
「つ、付き合ってたんですか…?!」
「石橋さんそんな目が飛び出しそうな顔しなくても!」
菊池は笑っているが、彩夏は持っていたオレンジジュースの缶を落としそうになった。
「元カノってことですよね?」
「三年以上前になるけどね」
「なんで別れたんですか?」
「光橋くんが何考えてるかわかんなくなっちゃって」
「へ、へえ…」
彩夏はオレンジジュースを飲むもまったく味がしない。
「光橋くん、あれから彼女できたのかな?今日も昔と変わらず仕事マンだったから、彼女ほったらかしにしてないといいけど」
隣に光橋の彼女どころか、妻がいると菊池は知らない。
「菊池さん、光橋さんとどれぐらい付き合ってたんですか?」
「半年ぐらいかな?光橋くんが社長に就任する前ぐらいに別れたんだけど。こうやって数年後に私がキャリアアップして、社長の光橋くんと話すなんて」
菊池は感慨深い表情をした。
「菊池さんはまだ、光橋さんが好きなんですか?」
彩夏は気がつくと心の声が口から出ていた。
「もう一度話はしてみたいかな?」
菊池は空になった缶をゴミ箱に捨てた。
それってやっぱりまだ気になってるってことよな…。
「そろそろ行かなきゃ!じゃ、頑張ってね」
「あ、はい!ご馳走様でした…」
菊池が会社を去ってくのを彩夏は見送った。
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