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翌朝、立て続けに三枚の皿を割った。
片付けようとして、台の上にあったマグカップを肘にひっかけて落としかける。
音もなく近寄ってきていたエアが空中で受け止めて、ぼそりと言った。
「今日はもう何もするな」
思いがけないほど近い位置で響いた声に、ミレーヌは「ひっ」と息をのむ。
逃げ腰になり、実際に逃げ出そうとして、何もないところで転んだ。
床に倒れ込むほどに派手にひっくり返ったミレーヌに、エアは「えっ」と声を上げる。
「近寄らないで!!」
助け起こそうとしてくれる気配を感じて、ミレーヌは声を張り上げて牽制した。
すでに腰を落として側にかがみこんでいたエアは「なに……?」とぴんとこない顔のまま呟く。
出会った頃から、あまり変わったようには見えない、見慣れた顔。
意思の強そうな眉。澄んだ黒の瞳。通った鼻筋に、よく笑う唇。
(毎日見ていたのに。意識した途端になんかぜんぶ心臓に悪い)
エアが自分を引き取ったのは、行き場所が無く、自力では行きていけないほど小さな子どもだったから。
ときどき距離が近かったのは、あくまで「友だち」だったからだ。
それらすべてを勘違いして、もっと違う関係になりたいだなんて、望んで良いはずがない。
ミレーヌは危機感から、思いついたことをつい口走ってしまった。
「この家を出て……、どこかで暮らそうかと思っているの。魔法は使えないけど、薬草販売業になった暁には、同業他社としてエアと競合してしまうかもしれない」
「おお? なんの話だ。独立したかったのか?」
言うに事欠いて、開業を宣言してしまった。
エアは素直に困惑していた。確かに、これまでミレーヌからそんな相談をしたことがなかったので、「何を突然」といった疑問は当然だろう。
「独立というか……。ここに暮らしていると、みんなに『奥さん』って言われる……」
「なんだって」
眉を寄せて深刻な表情になってしまったエアを前に、ミレーヌは慌てて言い募った。
「エアも困るよね。まだ若いのに、他人の子どもを育ててばかりで、この先どうするの? 私のこと友だちだなんて言ってくれていたけど、本当はこんなに年齢差がある友だち大変だったよね!? 私こそ気づかないで、ごめんね」
甘えてしまっていた。
エアの人生を食いつぶしていることに気づかぬまま、いつまでも楽しく暮らしていけると信じていた。
(本当に、子どもで……)
無言でミレーヌを見つめていたエアは、ぽつりと呟いた。
「俺は楽しかったよ。いつまでもこの生活が続けばと思っていた。俺は大人だから、大人として生きていたけど。ミレーヌの友だちをしている時間は、子ども時代が少し延長したみたいで、本気で楽しんでいた。嘘じゃないの、わかるよな?」
唇にも目にも、いつもの優しい笑みが浮かんでいる。
それを見ていたら、もうだめだ、とミレーヌは軋むように痛む胸を手でおさえた。
目には涙が盛り上がってきて、嗚咽がもれた。
「もう子どもじゃない」
「そうだった。子ども生活が楽しすぎて、俺もそれを見てみぬふりをしていた。悪かった」
転んだミレーヌを助け起こしたそうに、手がさまよっている。
その手を掴めるものなら掴みたい、と思いながらミレーヌは迷いを断ち切って尋ねた。
「子どもじゃなくても、ここで暮らしていて良い? 今までずっと一緒に暮らしてきたから、これからもうまくやっていけると思う」
「俺はもう保護者は引退だと思う。それでも、まだ友だちという線が残っているなら、ぜひ」
すかさずエアが答える。
見つめ合ったまま、ミレーヌは床に座り直し、膝を両腕で抱え込んでからさらに言った。
「私、エアのこと好き。実はエアが街で女性に興味をもたれているのも、ずっとずっとずーっと前から気付いていた。私が最近『奥さん』って呼ばれるようになったのは、たぶん相手の勘違いだけじゃない。そうさせる何かが私にある。間違いない。……大丈夫?」
遠回しのような。
核心に近づいているような。
エアはくすっと笑ってから、迷っていた手を差し伸べてきた。
「いずれにせよ、俺はミレーヌ以外と暮らすつもりはない。この先の関係は要相談ということも含めて前向きに検討しよう」
ミレーヌがその手を取ろうとした瞬間、不意に出会ったときのエアの言葉が思い出される。
――ああ、そうか。寝ている子どもは重いんだな。
「もう大人なのに、寝落ちして運ばせてごめんね。寝ている子どもよりずっと重いよね」
手を取ることができずに躊躇った。自分はやはり彼の重荷ではないかという思いがよぎる。
そのミレーヌの手を掴み、助け起こしながら、エアは破顔して言った。
「嫌だと思ったことはない。この先何度でも任せてくれて構わない」
ただ、そうだな、と付け足して言った。
もう子どもじゃないというのなら、今後もしよければ一度起こしてみようかな。
それで、朝まで一緒に過ごすのもいいね、と。
ずっと痛んでいたはずの胸を癒やす仄かな甘さに、ミレーヌはエアの顔を見ることもできずに「考えてみます」と答えるにとどめた。
子どもたちは大人になっても、森の奥の小さな家で暮らし続けている。
そこはいつも、いつまでも居心地がとても良い。
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