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何事にも優先順位は存在する。今はゲームよりも勉強をしよう、今はダイエットをしているのだから糖質は控えよう、人は常々何かを後回しにして何かを先に行う。それは人間相手にもそうだった。友人や彼女との約束があっても仕事の連絡さえくれば上司を優先する、それが当たり前として成り立っている。 北川も優先順位を決めていた。 淡い桃色のロングスカートは踝を覆い、熱風に揺られるとそれが靡いて彼女は鬱陶しそうに腕を摩った。汗を拭って白いノースリーブシャツの肩を直す。麦わらのバッグの中から茶色の封筒を取り出すとそこから1枚の紙を抜いた。 本郷劇場は下北沢駅から徒歩数分のところに昭和60年から構えている。歴史あるその劇場には今では地上波で活躍している俳優たちの軌跡が展示され、1つの観光名所としても有名だった。一本道の左手にある低い階段を登るとレトロな雰囲気の扉があった。 400人を収容できるホールに入り、暖色の明かりに照らされた客席を見渡す。大学の課題よりも劇団マハラジャの初回公演を優先していた北川は自分の席へと向かった。 右手の最前列、血を少し薄めたような赤色の座席に腰掛けるとふわりと沈んでいきそうだった。しかしその余韻に浸る間もなく彼女はカバンからパンフレットを取り出す。光陰のメテオは人数や役の変動もなく無事初回公演を迎えた。 一度リハーサルで見たものの、それでも北川は期待感に満ち溢れていた。あれからどう修正されたのかと比較するという別の楽しみも存在している。 そんな彼女は背後からの声に気が付かなかった。 「何だよ、関係者席余ったと思ったら自分で買ったのか。」 都築康弘は北川の背後からそう言うと、疲れた様子で彼女の前に立った。開襟したストライプシャツにグレーのスウェットパンツを履き、畝る天然パーマをジェルで掻き上げていた。 「あ、都築さん、お久し振りです。」 「ありがとうなチケット買ってくれてよ。」 その言葉を受けて北川は首を横に振った。徐々に客も集まり始めたため声を潜めて言う。 「だって以前見せていただいた時、とても面白かったんですもん。そりゃもちろん自分で買いますよ。むしろ木乃香さんにチケットを用意してもらうなんておこがましいです、そんな大した人間じゃないのに他のお客さんより幾らか得をして観るなんてそんなことできませんし、それに素晴らしい作品だからこそ対価を払うべきです。都築さんの脚本の努力、裏方さんのセットにかける努力、そして演者さんがこれまで魂を削ってきた結果、それらに対するこちらからの見返りというか還元というかそういったものを」 「相変わらずすっげぇ勢いだな。」 吐き捨てるように都築はそう言うとニヤリと笑った。北川自身もその勢いに任せた喋りに気付き、思わず照れてしまう。 すると都築は客席全体を遠い目で見た。 「そっか、木乃香さん、か。」 その時に彼女はようやく自分の言葉に気付き、咄嗟に掌で口元を抑えた。先程よりも低い声で申し訳なさそうに言う。 「ご、ごめんなさい、本名言っちゃった…。」 「別に大声で言わなきゃいいんじゃねぇの。それにまぁ、あいつのことを本名で呼ぶやつ中々いないし。」 ジェルが乾いて頭皮に痒みが生じたのか、指先で生え際を掻きながら彼は呟く。都築の背後には舞台を覆い隠す赤い幕があった。絨毯のような素材はつい指先を這わせたくなるほど柔らかいのだろう。 「他の皆さんは長谷さんって呼んでらっしゃるんですか。」 「まぁそうだな。つーか、マハラジャの中であいつの本名知ってるの、主宰と俺と…後3人くらいだよ。」 「えっ?」 北川は驚きのあまり間抜けな声で聞き返した。それと同時に頭の中で劇団マハラジャの全体図が描かれる。末端まで把握しているわけではなかったが、劇団マハラジャは演者だけでなく専用のスタッフや脚本家も数人所属している、人数も公演規模もかなり大きな劇団である。 その中で長谷桜は主演を何度も務めている役者だった。 「な、なんで皆さん本名をご存知じゃないんですか?こんなにも大きな劇団で人数も多いのに…」 「さぁな、そこまでは知らねぇ。他の役者とかは本名で呼び合ってるんだけどな。ただあいつが言おうとしないだけだ。」 そう言うと彼は腕時計を一度見た。 「もうすぐ始まるから、俺戻るわ。楽しんで。」 ぽりぽりと頭を掻きながら彼は北川の前から離れ、来た道を戻っていった。この作品の脚本を書いた彼にはまだやるべきことがあるのだろう。どこか疲れているように見えたのはそのせいなのかもしれない。 しかし北川が気になっていたのは真宮のことだった。 他の役者たちは本名で呼び合っているにも関わらず、何故彼女は本名を明かさないのか。リハーサルを見に行った際、劇団マハラジャは険悪なムードが漂っている雰囲気はなかった。仲睦まじそうな劇団だという印象があるため、より真宮の対応が浮いて感じられてしまう。彼女は未だに心を開いていないとでもいうのだろうか。 そんな彼女の頭の中に、都築のある言葉が過ぎった。 『あいつは別に羨ましがられる存在じゃない、あいつもあいつで、色々あんだ。』 一体彼女には何があるのだろうか。それは性依存症のことなのか、性嫌悪のことなのか、それとも別に何か問題があるのか。もやもやとした思いのままパンフレットを握りしめていると、ホール全体にアナウンスが鳴り響いた。 『本日は劇団マハラジャの第1回公演、光陰のメテオにお越しいただき、誠にありがとうございます。観覧の注意点です。写真撮影は厳禁となっております。そして非常口は客席の左右にございますので、今のうちにご確認ください。そして公演中は…』 北川はふと辺りを見渡した。400もある座席は既に人の頭で埋まっており、ざわざわとした微かな喧騒が大勢の客の上で雲のように漂っている。 すぐにパンフレットを仕舞い、カバンを足元に置いた北川は携帯の電源を切りながら舞台上の赤い幕を眺めていた。あの裏で90分以上誰かを演じる長谷桜、その本名を明かさない理由が分からないまま、会場はゆっくりと暗転していった。
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