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平日の14時過ぎでも渋谷駅前の人混みは計り知れなかった。町の中心に立てばそのまま渋谷に飲み込まれて消えてしまうのではないかと不安を覚えるほど、様々な人々が鰯のように蠢いている。どこから来てどこへ消えていくのかも分からない人間の流れを眺めながら、北川は黒いスカートのポケットから携帯を取り出した。
画面を点灯させることなく、真っ暗なまま耳元へ持っていく。前を流れる鰯たちから見れば、彼女は待ち合わせをしながら誰かと電話していると思うことだろう。しかし北川はスマートフォンを強く握りしめながら、ぼそっと呟いた。
「皆どうやって普通に生きているんだろう。」
アイドルグループの立ち姿が大きく張り出されている看板の前、連続ドラマの主演を務めたこともある男性アイドルの鼻にもたれかかり、北川は鼻から息を抜いた。
「普通に息を吸って吐くだけがどうしてこんなに難しいんだろう。」
ビデオカメラを構えた大学生が街中を撮影しながら、自分にレンズを向けて何かを話している。周りを行き交う通行人はそんな彼には目もくれず、各々が目的地へと歩いていく。
「普通って何?」
答えの出ない問いは渋谷の喧騒に紛れた。その喧騒を奏でている人々にもそれぞれ悩みがあって、人生があり、大切な誰かがいる。しかし北川はそこにいる全員が自分よりも幸せそうに見えてしまい、再びため息を漏らした。
「きっと主人公にはなれないんだよね。」
口に出さなければ、その鬱屈とした思いが胸の内壁をガリガリと削って自分を傷つける。それを常に危惧している北川はその思いを逃がすために、相手のいない電話を頻繁に行っていた。
自分は誰かの人生においてただの脇役でしかない。
そう心の中で自らを嘲笑し、北川は顎の先を胸元へ沈ませた。
「愛梨!お待たせ。」
駅の方から声がかかり、彼女は慌てて携帯をポケットに仕舞う。
短い茶髪を振って北川の元に駆け寄ってきた岡田麻央は高校時代の友人で、何度かお互いの家に泊まりに行くほどの仲だった。卒業後は東京の専門学校に進学したという岡田は、白いレースのロングスカートに淡いオレンジのニットシャツを着ている。裾を渋谷の風にたなびかせて彼女は言った。
「ごめん、誰かと電話してた?」
「ううん。大丈夫。」
小さく首を横に振って北川は呟く。トートバッグを肩にかけ直していると、岡田は彼女の顔を覗き込んだ。
「なんか元気なさそうだけど。嫌なことでもあった?」
北川の身を案じる彼女の一言で、昨晩の出来事を思い返す。ラブホテルでセックスをした後に”いつもの癖”が出てしまったとは、仲の良い岡田にも言えないと北川は思い、胸の奥にそれを閉じ込めた。
「何も無いよ。それより今日はありがとうね、わざわざ誘ってくれて。」
「いやーよかったよ、今朝いきなりの連絡だったのに付き合ってくれるなんて。」
岡田はショルダーバッグの中を弄ると1枚の封筒を取り出す。その中からさらに1枚の紙を取り出すと、北川に差し出した。岡田の背後でビデオカメラを持っていた男性が通行人を捕まえてインタビューをしているのが目に入る。
「はい、これチケットね。」
細長い紙の上には様々な文字がプリントされている。その中でも一際目立つのは『劇団マハラジャ』という団体名だった。
「専門学校の友達が主演やってるんだよね。晴れ舞台だから見に来てって言われてさ、チケット渡されたはいいものの、私演劇自体見たことなくて。愛梨がいなかったらぼっちだったよ。あー安心。」
団体名の下でその次に主張していたのは『虹が滲む頃、僕らは…』という演劇のタイトルであった。どういう内容かも分からずにまじまじと眺める。北川も彼女と同じく演劇を見るのは初めてであった。
会場は渋谷駅前のスクランブル交差点を渡らず、道玄坂を進んで右手にあるライブハウスの裏にあった。卒業して間もない高校の思い出話に花を咲かせながら、2人は開演間近に迫った東京バレーシアターへ足を運んだ。
古いアパートのエントランスに入り、地下へ続く階段を下りていく。隠れたバーを思わせるよう扉を開け、受付を務める男性にチケットを渡す。
すぐ目の前に広がっていたのは100前後のパイプ椅子、白い特設ステージだった。教壇のようなそのステージは白い垂れ幕に眩い照明に囲われ、既に大勢の客がパイプ椅子を埋め尽くしている。
そのステージから離れたところには物販があった。茶色の長机が行儀よく並び、TシャツやDVDなどが置かれている。
「私たちこっちだ。最前列じゃん。」
幼子のようにはしゃぐ岡田の後に続き、ステージのすぐ目の前に腰掛ける。手を伸ばせば壇上に手が届きそうだった。
「あ、愛梨ごめん。パンフレット渡すの忘れてた。」
膝の上に置いたトートバッグから虹色の大きな紙を取り出す。それを受け取って北川は表と裏を交互に眺めた。
生まれてから1人も友達を作ってこなかったという主人公の女性は、生まれてから一度も虹を見たことがないという謎の女性に声をかけられる。虹を見てみたいと話す謎の女性に、主人公は友達になってくれたら見せてあげると条件を出す。しかし中々雨も降らず、曇りばかりが続く数ヶ月で2人は様々な人々を巻き込みながら成長していくというヒューマンストーリー。
あらすじが書かれている裏面の下には出演者の名前と顔写真が貼られていた。劇団マハラジャはかなり大きな劇団らしく、さっと眺めただけで40人を超える劇団員が並んでいる。岡田の友人はヨウコという役名だった。
少しして100人の客が話す声の中で、マイクを通した女性の声が会場内に響いた。
『今回は劇団マハラジャの第32回公演、虹が滲む頃、僕らは…にお越しいただき、誠にありがとうございます。観覧の注意点です。写真撮影は厳禁となっております。そして非常口は…』
その声を聞きながら北川はパンフレットを膝の上に伏せた。開演にあたってのアナウンスは1分ほど続き、やがて会場の照明がぼんやりと暗くなる。
その明かりが完全に消えた時、ステージの白い壁に細い虹が滲んだ。
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