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「だから私はこれからも1人だと思っていた。あの人に出会うまでは。」
淡い桃色のワンピースに身を包んだ主役の彼女は3分ほどステージに立ち、声高に台詞を放つ。澄んだ彼女の言葉は100人の客にしっかりと届き、全員の視線が集中する中で彼女は堂々と”友人がいないヨウコ”を演じていた。
ヨウコの台詞の後、場が暗転する。学生服に身を包み、机と椅子を持った出演者たちがぞろぞろとステージに湧き上がる。
再び照明が焚かれると、そこは高校の教室だった。各々制服を着た男女が幾つかのグループに分かれて話を進めている。その中でヨウコは退屈そうに机の前で読書をしていた。
ステージの左袖からワイシャツに赤いジャージを着た男性がやってくる。手に持っていた黒い冊子のようなものを仰ぎながら、教師役の男性は声を張った。
「全員席つけー、転校生紹介するぞ。」
その一言で生徒役の面々は歓声をあげる。学園物の作品ではよく見かける流れだった。
どんな人が来るのか今か今かと待ちわびている中、教師役の男性の背後から1人の女性が現れる。その彼女を見て北川は思わず息を飲んでいた。
鎖骨までかかったしなやかな黒髪はペンキ塗りたてのように艶があり、歩く度にその毛先が揺れる。ワイシャツの裏で豊満な乳房が揺れながら教師の隣に立ち、その女性はステージの上に散りばめられた机と椅子を舐めるように眺めた。
眩い照明に当てられた女性の目は宝石を埋め込んだようにぱっちりとしており、氷を削ったような輪郭、すらりとした鼻筋に少し尖った唇は柘榴を吸ったように赤い。黒いスカートから覗く足は決してモデル体型とはいえなかったが、程よい肉付きで健康的な印象を受ける。
しかし北川が驚いていたのは美貌だけではなかった。
「初めまして、ハルミと言います。」
無機質ながら澄んだ声が会場内に響く。人型の薄いベールを全身に纏っているようなオーラを滲ませ、ハルミ役の女性はその丸い目から鋭い視線を飛ばす。北川は咄嗟にパンフレットの裏面に視線を落とした。
ハルミ役の女性は長谷桜といった。劇団マハラジャに所属して2年ほどが経つ、新人女優らしい。その謳い文句も納得であると北川は考えていた。
圧倒されるオーラを放つ長谷桜はこの作品における”虹を見たことがない女性”だった。セットは目まぐるしく変わりながら主人公のヨウコと会話を繰り広げていく。役柄によるものなのか分からなかったが、陰気な性格のヨウコと比べてハルミは時折明るく、度々核心を突く台詞を吐き捨てる性格だった。
マイクを通していないにも関わらずハルミの声は世界の裏側まで届くほど大きく、それでいて真っ直ぐとしている。100人の前で不思議な女性を演じる長谷桜は大胆かつ不器用な一面を見せながら、100人の心をがっしりと握って離さなかった。
物語は時に短く、時に長く進んでいく。クライマックスにかけてハルミは解離性同一性障害であることが発覚し、窓の向こうに虹がかかる景色を前にして虐待を受けていたという。その過去を語っているハルミは顔の下半分は笑いながら、顔の上は悲しみに塗れている。その演技力は目を見張るものがあった。
「だから私は虹を見たいの。傷ついて、アパートの四畳半から見たあの汚れた虹じゃなくて、ありのままの姿で、ヨウコの隣で…。このままじゃ皆みたいに、普通に生きていられないから。」
苦しそうな表情で吐露するハルミを見て、北川は一筋の涙を零した。長谷桜は当初凛とした立ち姿だったにも関わらず、過去のしがらみを話すハルミは、弱者そのものであった。
全てに嫌気がさして空っぽになった彼女の中に、ヨウコという人物が介入したことでハルミは突然満たされた思いとなり、それに驚きながらも葛藤し、ヨウコだけではなく、本当の自分と向き合い始める。たった1時間半の出来事にも関わらず彼女の人間的成長が垣間見え、北川は涙していたのであった。
そして北川が抱いていたのは、ハルミという難しい役どころを演じた長谷桜への羨望だった。
顔も名前も知らない100人の前で、別の人物を演じきるその度胸は、一体どこから湧き上がるのだろうか。北川は次第に長谷桜と自分を重ねてしまい、その落差にため息をついていた。
(どうしたらこの人みたいに、主人公みたいになれるんだろう。)
解離した人格を使い分け、時に手を差し伸べたくなるほど脆く、時に誰も手がつけられないほど烈火の如く怒り、そして時には一輪の白い花のように微笑む。
長谷桜に羨望の眼差しを向けながら、北川は嗚咽した。
物語は無事クライマックスを迎えた。
本音をぶつけ合って笑い合えた2人はまじまじと互いを見つめ合う。その時に彼女たちは同時に何かに気付いた。それはハルミの背後にかかる鮮やかな虹であった。
ハルミはヨウコの瞳に写った虹に気付き、海辺を思わせるセットの真ん中で彼女たちはゆっくりと微笑み、やがて幕が閉じていく。100人の拍手に見送られながら劇団マハラジャの『虹が滲む頃、僕らは…』は終演した。
みっともなく泣いていた北川は慌てて涙をぬぐった。ぼんやりと暗くなっていた会場の照明が再び灯り、閉じた白い幕がまた開く。ステージの上に出演者全員が並んで手を繋いでいる。真ん中に立ったヨウコ役の女性の右隣、解離性同一性障害を堂々と演じきった長谷桜はにっこりと微笑んでいた。
やがて出演者たちのお礼を述べるコメントが始まる。その都度100人の客が一斉に拍手を送る。しばらくして順番が回ってきた長谷桜は太陽のような笑顔で声を張った。
「皆さん、本日は劇団マハラジャの公演にお越しいただき誠にありがとうございます。」
澄んだ声が会場に飛ぶ。その時に北川は思わず驚きの表情を浮かべた。彼女の素の声は幼子のように可愛らしかったからだった。常に冷静で、時折感情的な一面を見せるハルミを演じていたとは思えないほど、愛らしさのある柔らかな、ふわりとした声だったのだ。
「今回はハルミという難しい役をいただいたのですが、どう自分の中に落とし込むのか、随分と苦労しました。最初はもがきながら演じていたんですけど、徐々に自分と重なる節もあって、そのタイミングからハルミという架空の人物を愛することができるようになりました。本当はもっと上手く演じられたかもって後悔はまだありますけど、でも今はすっきりした気持ちです。彼女のことを考えながら葛藤していたのも今ではいい時間だったなと思います。」
大勢の客に臆することなく話している彼女は、分厚い殻を破ったような解放感を顔に滲ませている。小動物のように小さな顔は数十分前まで2つの人格を演じ分けていた。同一人物とは思えず、北川はいつの間にか長谷桜に見惚れてしまった。
「次はどんな役を与えられて、その役に対してどう向き合って葛藤するのか、ハルミを演じてみて今ではそんな思いも持っていますので、脚本家の方には是非悩ましい役をお願いしたいところです。」
どっと笑いが起こり、その瞬間全員の気が一斉に緩んだ。まだ物語の余韻に浸っていた人々すらも良い意味で現実に引き戻す。
改まって礼を言い、深く頭を下げた長谷桜を見て北川はある決心をした。
公演は終了し、出演者たちがステージから消え、100人の客がまばらに立ち上がる。岡田はショルダーバッグを肩にかけるとため息まじりに言った。
「いやー面白かった、ちょっと泣いちゃったよ。」
「私も。結構うるうるきた。」
妙な恥ずかしさから号泣したとは口にしなかった。晴れ晴れとした顔で彼女は椅子から立ち上がる。
「私一応楽屋挨拶みたいなの行くんだけど、愛梨はどうする?」
あー、と言って北川は辺りを見渡した。既に目をつけている場所を何故か見ないようにして、彼女は答えた。
「私はこのまま帰ろうかな。」
「ああ本当。じゃあまた遊ぼうね。」
「うん、誘ってくれてありがとう。」
慣れた別れの挨拶をして、岡田はステージの前から離れる。関係者入り口のところに立つスタッフに声をかけ、彼女は扉の向こうに消えていった。
それを見届けてから北川は急いだ様子で立ち上がると、そのまま物販へと駆け寄った。既に何人かの客がTシャツやカバンなどのオリジナルグッズの前で並んでいる。北川はその列の背後から長机の上に並んだグッズを眺め、ある商品に目をつけた。
『ボーイミーツサマーガール』と書かれたDVDの表面には、夕暮れに包まれた浜辺を遠くから映し出した景色に1人の女性がポツンと佇んでいる。裏面を見て北川は心の中でガッツポーズをした。
主演を務める男性が恋する水川波美、凛とした顔立ちの長谷桜がヒロインに抜擢されていると書かれた文字を見て、思わず頬が緩む。いつの間にか長谷桜の虜になっていた北川はレジの最後尾に並び、今か今かと会計を待ちわびていた。
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