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「この芸人さんって今人気だよね。」
「そうなんですか?全然知らなかった…。」
雨が止むと湿気の残り香が街に漂い始めていた。熱気を逃がすために窓を開けると、冷たい風と共にその香りが部屋にも届く。
2人は風呂からあがり、ベッドの上で隣り合っていた。小さなカップに入ったチョコアイスを削って口に含む。ひんやりとした風味が口いっぱいに広がった。
思い付いたようにベッドから降りると、北川は開いた窓の前に立つ。音が無くなった夜の街。既に電車も運行していない。
「結構見晴らしいいね。」
いつの間にか後ろに立っていた真宮がふと呟く。2人は何の気なしに狭いベランダに出た。物干し竿の前に並んで冷たい床を踏みしめる。少し苦味のあるチョコレートの香りが跳ね返った。
生活の明かりだけを映した夜の壁はどこまでも続いている。今この国には平等に夜が訪れ、昼を忘れた世界が広がっている。砂糖の結晶のような小さい星屑を見つめて北川は呟いた。
「木乃香さん、私、ダイフレになれてよかったです。」
小さな満月が電灯のように輝いている。壁に貼り付ける雑貨のようだった。
「今まで素の自分を晒け出すのって怖かったんです。PCDも、HSPも、悩んでいても誰にも言えなかった。自分がおかしいだけで他の人は普通なんだから、このまま誰にも言えないまま生きていくんだって。そう考えるとどんどん塞ぎ込んじゃうんです。」
空の下で人間は小さな存在だった。あれが天井であるなら、人々は隅に溜まる埃だろう。その中で抱える悩みなどあまりにも小さく、自分ばかり誰かを頼るのは受け入れられない世界なのだ。
しかしその考えは、真宮木乃香との出会いで引っくり返ることとなった。
「こんな私でも、誰かに悩みを打ち明けていいんだって。誰かを頼っていいんだって。木乃香さんのおかげで気付くことができました。」
夜風は冷たい。シャワーと欲の熱で火照った体を削ぎ、パジャマを膨らませる。しかしその風がどこから吹いてどこへ行くのかは分からなかった。
しかし今、その風に吹かれているという事実が大切なのだ。
「私、木乃香さんのおかげで今結構楽しいです。」
頬の筋肉が緩んでふっと肩の力を抜く。疲れたように微笑んだ彼女は隣に立つ真宮を見た。
遠い目をしていた。
見えることのない黒い壁の向こうを見透かすような、寂しい表情を浮かべている。やがてゆっくりと北川を見ると彼女は柔らかく微笑んだ。
「愛梨が幸せならよかった。」
シャボン玉が割れる理由は主に3つである。埃などがシャボン玉の膜にぶつかって割れる、水分が蒸発して割れる、そして3つ目は重力によってシャボン玉の上部が薄くなるという理由だった。シャボン液は重力の影響で玉の頂点から底の方へと流れていく。それは上部の膜が薄くなるため、最終的には穴が空いてしまうのだ。
彼女の笑顔はそれに似ていた。
しかし北川は1時間ほど前にベッドの上で交わった時の疲れが来ているのかと感じ、あえて何も答えなかった。
びゅうと強い夜風が吹き荒び、2人は慌てて前髪を抑えながら笑い合った。狭いベランダには彼女たちの笑い声と空っぽの風の音だけが響いていた。
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