30人が本棚に入れています
本棚に追加
/62ページ
46
物事を深く考え続けてしまう、北川はそれすらもHSPのせいだと思っていた。自己肯定感の低さは治りつつあるもののそれ以外の症状は健在である。
その事について深く考えると視点や受け取り方も変わっていった。
30度を超える真夏日を記録したという東京の空は海を薄めたような色をしている。熱された鉄板から逃げる甲殻類のように人々はコンクリートの上を足早に歩いていく。頬を伝う汗を拭いながら北川は呟いた。
「木乃香さんお腹空きました?」
「あー確かに、空いてるかも。」
濃い青色のワンピースに黒く小さなショルダーバッグを肩から提げ、真宮は腹部を摩りながら答える。池袋の路上は内側から燃やされているようにメラメラと陽炎が昇り、太い大通りの先が霞んでいた。
サンシャインシティへの入口が見え、2人は迷うように吸い込まれていく。屋根が1つあるだけでひんやりとした空気が体を撫でてくれた。
「何食べます?」
試すように北川は問う。3本のエスカレーターは狭く、真宮の後ろに立った彼女は携帯を取り出してそう言った。画面にはサンシャインシティに入っている飲食店の一覧が映し出されている。
「うーん、愛梨が食べたいやつでいいよ!」
くるっと背後を振り返り、真宮は柔らかく微笑む。
「じゃあ…イタリアンとか、あーでも暑いから涼しいもの食べたいですよね。」
「そうだね、ひんやりしたいなぁ。何か食べたいやつある?」
北川は下唇を噛んだ。返したい言葉をごくりと飲み込み、携帯の画面に目を通す。
エスカレーターを降り長い1本道を抜けると広々としたショッピングモールが広がっている。2人はそのままエスカレーターに乗って最上階に上がった。下の階とは違って静けさが目立つフロアに出ると飲食店が左右に並んでいた。
「あそこ行きません?お蕎麦。」
「いいじゃん、久しぶりに蕎麦食べたかったんだー。」
軽々しく同調して真宮は赤い暖簾がかかった入口へ向かう。その後ろ姿をぼんやりと眺めていた北川は小さなため息をついた。
「ん?どうしたの、愛梨。」
店の前で振り返る真宮はいつもと変わらない笑顔を浮かべている。その表情が妙に苦しく、その裏側が見えずに北川は首を横に振った。
「何でもないです。行きましょ、お蕎麦。」
彼女は何を望み、何が彼女にとっての幸せなのだろうか。若い女性店員に案内されてテーブル席に腰掛けた北川はその事ばかりを考えていた。
もしかしたら自分は何かに気が付いていないのではないか、北川は熟慮の末にそう結論づけた。
知らぬ間にSOSを発信しており、それに気付けていないのかもしれない。それは長年の悩みなのか、性依存症と性嫌悪に関する事なのか、それとも長谷桜としての悩みなのか、すぐに答えは出ないものの、それを探り当てなければならないと彼女は考えた。
もしかすると気付けなかった事で彼女との距離が生まれ、ダイバージェンスフレンドが崩壊する可能性もある。どんどんと深く考え込んで自分だけ不安になるというHSPの悪循環だと分かっていても、そう推測せざるをえなかった。
「愛梨、愛梨?」
真宮の言葉にハッとして我に帰る。前に座った彼女は尖った唇をすぼめて首を傾げていた。
「な、なんですか?」
「いや、ずっとぼーっとしてるから。何かあったのかなと思ってさ。」
まだ何の答えも出ていないため、そう簡単に真宮のことを考えているとは口に出せなかった。しかし彼女はにこりと笑みを浮かべて続ける。
「私で良かったら話聞くよ。ダイフレなんだから。」
やっぱりこの略称はどうなんだろう、何かを誤魔化すようにそう付け加えて真宮はメニュー表に視線を落とす。彼女は天ぷら蕎麦を注文するらしく、付け合わせのアイスを選んでいた。
「あ、そういえば次の役アイス屋さんなんだった。台本読まないと。」
どこか退屈そうに彼女はそう呟く。しかしこれが真宮木乃香の素であり、それを晒け出せるのがただの友達ではない、ダイバージェンスフレンドということである。
その彼女をぼんやりと眺めていた時、北川はある言葉を思い出した。
まだ彼女の本名を知らぬ頃、演技の評価を求められて話し合っていた北川は、彼女の生き方に対して主人公のようで羨ましいと言った。しかし真宮は、それと反対に淀みのない瞳でこう言ったのだった。
『でも私だって自分を主人公だとは思ってないよ。主人公だと思ってないから、私は演じるの。』
その当時は役者魂からなる言葉なのかと思い込んでいた北川だったが、もしかしたらまるで違った意味合いだったのかもしれない。
北川は自分が注文するメニューを考えるふりをして、これまでのやり取りを思い返していた。そうすると真っ先に浮かんだのは優先順位であった。
真宮は常に北川の意見などを優先していた。まるで自分は意見など何も持っていないように、昼食に夕食、さらにはどこに遊びに行くのか、それすらも北川を常に優先している。それは日常の些細な言動だけでなく、ダイバージェンスフレンドとしての性の発散にも見られた。
裸で抱き合い情けない声を上げる2人だけの性の時間、彼女は常に北川を責める役割を担っていた。それは北川の家に宿泊してから如実に表れていた。何故か真宮は自分への快感を許さず、常に北川への快感を優先している。やがて行為が終わると彼女は満足そうに微笑むのだ。
『愛梨が幸せならよかった。』
その言葉にどういった意味が含まれているのか、いくら考えても答えは出ないまま、北川は自分が注文するせいろそばの写真をぼんやりと見つめていた。
最初のコメントを投稿しよう!