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ストーリーに変更点は無かったものの、舞台上の照明や細部にわたるセットの数々、そしてスクリーンに映し出される背景などが加えられ、光陰のメテオはより完成度を増していた。演者の衣装もきちんと整えられ、洗脳教育を受けた水城玲華は上下グレーのスウェット姿に寝癖だらけの酷いヘアスタイルで舞台上に現れた。真宮木乃香では見られない彼女の姿は照明に照らされ、文字通り輝きを見せている。 長谷桜として舞台に立つ彼女を中心に物語は進んでいく。その時に北川はHSPで良かったのかもしれないと感じていた。 HSPとは生まれつき非常に感受性が強く、敏感な気質を持った人という意味である。そのため作品に対して強く感情移入することもあり、それが原因で疲れてしまうという人も多い。しかし今の北川には必要不可欠な要素であった。 水城玲華という架空の人物がどう生きてきたのか、どんな思いで過ごしてきたのか、そう深く考えて鑑賞しているとつい涙腺が緩んでしまい、北川は開演10分で既に涙を零していた。 特異教育と呼ばれる洗脳に似たプロジェクトの主である野崎と対峙するシーンに差し掛かる。公務員の人間であるために野崎は黒いスーツに身を包み、ジェルで髪をぴっちりと分けていた。 「水城、お前に恋愛は必要ない。ただ黙って世界に選ばれる天才数学者として生きていけばいいんだ。」 静かなホールに野崎の声が響く。リハーサルで見た時よりも感情の籠った台詞だった。 その一方で人間らしさを取り戻しつつある水城玲華はその表情を徐々に柔らかくしていた。短いデニムパンツに少しダボっとしたサイズのカットソーは上下白、舞台上の照明のせいでそのまま消えていきそうな儚さがあった。 やがて彼女は野崎を睨みつけ、淡々と告げた。 「私は数式以外のことを知りたい。野崎さん、恋愛はどうしようもないものだと思うのです。ブレーキが壊れた新幹線は衝突するのみであります。それでいいと思えるのが、私にとって津原さんだったのです。私の中に自分自身はいません。だからこそ、そこには津原さんがいるのです。」 水城玲華は苦しそうな表情で言葉を吐く。人間らしさを取り戻し、洗脳教育の影響で忘れかけた好きだった人を思い出すという、感動的なシーンである。客席からはちらほらと啜り泣く声が聞こえていた。 しかし北川にはその台詞が水城玲華としてではなく、真宮木乃香の言葉のように思えていた。 彼女の中に自分自身が無いからこそ常に北川を最優先にしている。その仮説を立てた瞬間に彼女の脳内で今までに受けた真宮からの言葉がフラッシュバックした。 それと同時に北川は胸が苦しくなり、それから終幕に至るまでの壮大なフィナーレを直視できなかった。
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