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初回公演が無事終了し、ステージの上に並んだ出演者たちは深々と頭を下げる。顔を上げて客席を見る真宮の表情は照明よりも眩く輝いていた。 どうやら次回公演のために話し合いを行うらしく、北川は先に三軒茶屋駅へ向かっていた。井の頭線で渋谷駅に降りると田園都市線に乗り換えて5分、大雨の中を笑いながら走り抜けていた横断歩道を1人でゆっくりと渡る。その間に彼女の頭の中でぐるぐると渦巻いていたのは数ヶ月前に抱いた感想と全く同じであった。 恋愛の教訓になるとリハーサル見学に誘われ、そこで聞いた台詞を胸に北川は伊藤との関わり方を考えていた。彼のために何かをしてあげたい、その答えが最終的にセックスへと行き着いてしまったものの、それでも相手の事を考える時間は楽しかった。 「今の私には何も出来てない。」 真宮の自宅がある路地に入り、彼女はぼそりと呟く。既に陽は傾き街は橙色の影を長くして北川の影も巻き込んでいた。 ダイバージェンスフレンドとして自分は真宮木乃香に対して何をしてあげられているのか。足元から伸びていく長い影の中に悩みが詰め込まれているように見えて北川は大きなため息を漏らした。 レーレイ三軒茶屋の前に立ってコンクリートに目を落とす。夜が近付いても熱気は冷めず、蒸されるような空気が住宅街の間で沈殿している。その空間が彼女の悩みをずっしりと重くしていた。 「愛梨、お待たせ。」 いつの間にか時間が経過していた。白いロングスカートに水で薄めたエメラルド色の柔らかなTシャツ、白みがかったキャップを被って彼女は北川の顔を覗き込んだ。 「あ、お疲れ様です。」 真宮木乃香としての笑顔、しかしその裏にどういった思い、感情、思想や過去があるのかは分からない。そして北川がより不安に感じていたのは、この笑顔の裏に真宮自身があるのかという思いだった。 そんな考え込む様子を見て何かに気付いたのか、真宮は不思議そうに言った。 「どうしたの。何かあった?」 「いや、特に何もないですよ。」 「でもこの間も思い詰めた表情してたよ。」 「いいですよ私なんて。光陰のメテオに関して話しましょうよ。」 「そうは言っても心配だよ。」 黒い厚底のサンダルがコンクリートを鳴らす。人通りが少ないせいか、靴の音も心臓の音も響くようだった。 「私たちダイフレなんだから、何でも言ってよ。」 髪をふわりとたなびかせて彼女は笑う。水城玲華でも長谷桜でもない、真宮木乃香としてのぱあっと輝く笑顔。しかしその裏には誰がいるのだろうか。 彼女の中には、誰がいるのか。 北川はごくりと唾を飲んだ。緊張で震える手をきつく握りしめ、長い深呼吸をした。 「私、最近ずっと考えてたんです。普通の友達ではなくて少し特殊な関係性じゃないですか私たちって。ただ遊んだりお泊まりしたり、だけど性を発散しあったり。一見変かもしれませんけど、それでも楽しいんです。お泊まりした時に木乃香さん言ってくれたじゃないですか。ダイバージェンスフレンドはお互いの欠点とか、凹んだところを埋め合わせられる存在だって。すごく嬉しかった。今までHSPの事もPCDの事も誰にも言えなくて、私がおかしいだけで皆は普通に生きているんだから強くならないとって。でも木乃香さんとダイバージェンスフレンドに慣れて、変われたんです。皆の普通が自分の普通じゃない。そんな私を木乃香さんは受け入れてくれた。本当に嬉しかった。でも、私って木乃香さんに何も出来ていないんです。」 喉の奥がぎゅっと締まり、会話はおろか呼吸さえも少し苦しくなってしまう。しかし北川は真宮の言葉を待たなかった。 「木乃香さん、私に言いましたよね。愛梨が幸せなら良かったって。その気持ちはすごく嬉しいです。でも、私は木乃香さんにも幸せになってほしい。それなのに木乃香さん、いつも私のこと優先してませんか。」 「そ、そんなことないよ。私だって一緒にいて楽しいし…」 「でも木乃香さんは私のPCDを治すの手伝ってくれたり、HSP発動したら寄り添ってくれるじゃないですか。それなのに私は木乃香さんのために何も出来てない。PCDとHSPを治してくれて、私が幸せだったらいいって、本当にありがたいですけど、じゃあ木乃香さんはどうなんですか。」 夏のせいなのか日は長かった。夜へと近付いているというのにいつまでも街中はオレンジ色で、このまま昼と夜の間で時間は動かないのではないかと思うほどだった。大通りから路地へ溢れる車の走行音が住宅街の壁に反射していく。 真宮は尖った唇をぽっと開けたまま何も言えずにいた。 「私ばっかりいい思いして、木乃香さんには迷惑かけてばかりで、このままじゃダメだと思います。」 「そんな、いいんだよ愛梨は。私は幸せじゃなくていいよ。愛梨が幸せならそれでいいんだから。」 慌てて子を慰めるような声だった。焦燥感のある表情は切なそうで、やたらと辺りを見渡している。しかし北川は心の底で生み出した言葉を止められずにいた。 「私ってそんなに頼りないですか。」 頭の隅でブレーキをかけようと考えていても本音は溢れ続けていた。 「確かに私はネガティブでダメ人間ですよ。木乃香さんの性に関することだって治せないですし、そもそも詳しくないですし、多分何も出来ないです。だけどもっと木乃香さんのために何かしたいと思ってるんです。それなのにいつも私ばかり優先して、何も出来てないじゃないですか。」 声も手も震えていた。喉の奥は狭く、体は熱くなっている。誰かに自分の思いをぶつけることに慣れていないせいか彼女は感情的になってしまった。 それに気付くと北川は果てのない自己嫌悪に陥った。 「私のせいで木乃香さんが幸せになれないなら、私みたいな存在はいない方がいいじゃないですか。こっちばかり得をして相手が損するなんて関係、不平等です。」 「で、でも、私は別に…」 「お互いの欠点を埋め合わせられるなんて、出来てないじゃないですか。私だって木乃香さんのために色々したいのにさせてくれないのは何でですか。このままじゃ私たち、ただのセフレじゃないですか。」 そう放った言葉は長い鋭利な硝子片だった。北川と真宮の胸を同時に刺し、あの夜のお泊まり会で使用したペニスバンドのように連動して心を抉る。 そのダメージを受けたのか真宮は複雑そうな表情を浮かべていた。今にも泣き出してしまいそうに眉尻は下がり、必死に頭の中で言葉を探している様子だった。そんな真宮を見て胸の奥がグリグリと刺される感覚に襲われる。しかし頭の中は既に掻き混ぜられており、到底冷静な判断を下せる状態ではなかった。 大通りの方から大学生たちのはしゃぎ声とトラックの大袈裟なクラクションが鳴り響く。2人の間をすり抜けて三軒茶屋の喧騒は熱気に混ざっていた。その渦から逃げ出すように北川は1歩踏み出した。 「ごめんなさい、今日は、もう…。」 本来であれば2人だけの打ち上げと称して夕食をいただくはずだった。しかし食欲はおろか孤独を求めてしまった彼女はゆっくりと真宮の前から離れ、一度も振り返ることはなかった。彼女は引き止めることもなかった。 2人で笑いながら走った道を1人でゆっくりと歩く。まだ日は長く、影をどこまでも伸ばしている。過ぎ行く通行人の足音や話し声は一切聞こえず、自分の心臓からゆっくりとナイフが抜かれていく音だけが内側から聞こえていた。 田園都市線に乗り込んで二子玉川駅で乗り換える。九品仏駅に着いて自宅に向かう最中も、心のナイフは抜けていない。真宮の前から逃げ出しても自分の発言からは逃げられないのだった。 帰宅するなり北川は玄関先で桃色のスカートをたくし上げた。今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべながら、白いレース素材のショーツを弄った。1ヶ月ほど前に真宮と行ったショッピングモールで購入した下着の上から膣の表面をなぞり、びくりと腰が浮く。徐々に陰核が膨らみを見せてショーツの底が濡れて、彼女は乱暴にショーツを剥いだ。 誰かに抱かれればこの気持ちはいくらかマシになるのだろうか。そんなことを考えながら彼女は自身の膣口に指先を侵入させる。しかしすぐに脳内を過ぎったのは真宮との思い出だった。 「あんなこと、言わなきゃよかった…。」 濡れた声でぼそりと呟く。もっと他に言い伝え方があったのではないか、感情的にならず冷静に自分の想いを伝えることができたのではないか、心をただ悪戯に傷つけることにしか役に立たない後悔を口にして北川は涙を零した。 その日北川は数ヶ月ぶりに悲しみながら自慰行為に耽った。PCDを発症し、それ以降悲しいことがあるとオナニーをする癖をつけてから数年が経つ。近頃は真宮のおかげでその癖は無くなっていたものの、今はこれ以外の逃げ道を知らなかったのだった。 ぞくぞくとした快感の波が臀部から背骨を伝う。旋毛にその波が到達し、北川はがくがくと下半身を震わせながら絶頂を迎えた。指先を曲げると分泌液の擦れる音が鳴る。 しかし彼女は淫らに掻き混ぜた膣口よりも、涙で頬を濡らしていた。 扉にもたれて座り込んだ彼女は愛液で濡れた指先を拭いながら泣き続けた。
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