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誰かを失う感覚は臓器が1個無くなってしまうようだった。体の機能が一部分ガクっと下がり、現状維持が難しくなってしまう。人はそれを当たり前にして生きていくのだ。ぼろぼろと体中のネジを外しながら進んで行く。しかし北川はそれを当たり前にしたくないという強い気持ちがあるせいで、余計に精神を磨り減らしていた。 あと少しで夏休みだった。 レーレイ三軒茶屋の前で真宮と別れてから1週間が経過していた。教室が広いせいか同じ講義を受けていてもすれ違うことはなく、そのまま1日が終わっていく。後悔と悲しみの自慰を繰り返して北川はすっかり疲れ切っていた。 どうしてもっと上手く言えなかったのか、感情的になって捲し立てた時に見た真宮の不安そうな表情を思い出し、深いため息をつく。それと同時に頭の中を満たしていたのは、自分という存在の有無だった。 自分がいなければ、真宮は自分自身を優先することができる。彼女の関係性に北川愛梨という存在がいることがいけないのではないか。そう思うようになった北川はろくに連絡も取らず、自然と距離を置こうと考えていた。 しかしその判断は自分を傷つけることにも繋がっている。空いたコマをどう過ごすのかは人それぞれだったが、今の彼女はただ退屈そうにテラス席のベンチに腰掛けることしかできなかった。 喫煙所も併設されているためかテラス席の周りには青々とした木々が生い茂っていた。高いガラスの塀の向こうにはやたらと高いマンションに青空が背景として浮かんでいる。コンビニで購入したサンドウィッチを頬張りながら北川は空いた時間をぼんやりと過ごしていた。 学食のいつもの席に行けば真宮はいるのだろうか。そこに行って一言謝れば、またダイバージェンスフレンドとして2人は仲直りができるのではないか。決して思考が行動に繋がるとは言えなかった。何かを考えてもすぐに不安材料が溢れ出し、足を止めてしまう。このまま体全体が粒子状になって、風に吹かれて消えてくれないかと彼女は願っていた。そのまま散り散りになればストレスのない地元にも、真宮が住む三軒茶屋にも身の粉を降らせることができる。勇気の1歩が踏み出せないからこそ彼女は粉になりたかった。 目を瞑ると瞼の裏に真宮の表情が浮かんだ。北川の捲し立てた言葉に何も返せず、泣き出しそうに口籠る彼女の切なそうな面持ちが精神の土台に修復不可能なヒビを刻む。それと同時に北川の腰回りに薄く熱い靄が宿った。 ぐるりと辺りを見渡す。テラス席には誰もおらず、北川のため息だけが響いている。ただ涙を流せばいいだろう。そう思い立って北川はぼそりと呟いた。 「しちゃおっかな、ここで。」 藍色のワンピースは柔らかな素材だった。その上から陰部を擦れば、この悲しい気持ちを少しばかり発散できる。そう思って彼女はゆっくりと腰に手を伸ばした。 「何をすんの?一発ギャグ?」 低くざらりとした声が聞こえ、びくりと全身を震わせた北川は咄嗟に背後を振り返った。火の点いていない真新しいタバコを口に咥えた劇団マハラジャの脚本家はニヤリと笑っていた。 「サークル入ったら自己紹介でやるとか考えてんのか。辞めた方がいいぞ、確実に滑るから。」 「え、都築さん、どうしてここに…?」 あちこちに畝るパーマを掻きながら都筑は北川の隣に腰掛けた。白いTシャツの胸ポケットから筒状の携帯灰皿を取り出し、退屈そうに火をつける。ぼうっとオレンジ色の明かりが揺らいだ。 「俺、駒国大とは付き合い長いんだよ。夏季学期集中講義で舞台脚本っていう講義やってるからさ。」 その時に北川は光陰のメテオのリハーサルを思い出していた。出演者たちに厳しくも的確な指導が出来る彼が教える舞台脚本であれば、学べることは多いのだろう。 「去年は真宮も受けてたよ。同じ劇団でも課題は容赦しなかったけどな。」 薄い紫煙は青空に昇って消えていった。天井に滲むタバコの香り、北川は昇っていくその先を目で追いながら呟いた。 「最近、木乃香さんどうしてます?」 「最近って言われてもな、普通だよ。稽古やって稽古やっての繰り返し。ああでも最近はちょっと元気無さそうだな。稽古はちゃんとやってるけどぼーっとしててよ。」 大きくあくびをして残っていた煙が溢れた。やがてちらりと彼女の方を見ると、鼻から息を抜いて笑った。 「何、喧嘩でもした?」 北川は簡単に返事ができず、ワンピースの上で拳を作った。青い天井に張り付いた太陽に照らされて手の甲は白い。 「喧嘩というか、その、私…木乃香さんのことちゃんと考えてなかったというか。私が一方的に言っちゃって、それで…。」 「なるほどな。まぁ若いんだからそういうぶつかり合いも必要なんじゃねぇの。」 他人事のようにそう言う彼を見て、彼女はあの言葉を思い出していた。 「あの、都築さん。」 「ん?」 「光陰のメテオのリハーサルの時、言ってたこと覚えてます?」 彼は分かりやすく空を仰いだ。無精髭を摩りながら彼はガラスの塀の向こうを見つめている。空に切れ端はあるのだろうか。 「全然覚えてねぇ。何言ったっけ俺。」 ベンチの左端に置かれたタマゴとレタスのサンドウィッチを取り、彼女もぼんやりと空を眺めた。 「木乃香さんは別に羨ましがられる存在じゃない、あいつもあいつで色々あるんだって。」 あー、と言って髭を掻く。どこからか聞こえるトラックの走行音が駒ヶ崎国際大学の壁に反射していた。 「私、全然知らないと思って。だから木乃香さんのためにも知りたいんです。相手のことを何も知らないまま傷つけるかもしれないなんて、そんなの嫌なんです。」 ごくりと唾を飲み込んで北川は隣の彼を見た。長い付き合いだからこそ知り得ている過去があるのかもしれない、藁にも縋る思いで彼女は懇願していた。 一度座り直した彼は携帯灰皿の蓋を開け、グレーの粉を筒の中に落とした。遠い昔を思い出すようにマンションの頭部を見る。半分まで短くなったタバコのフィルターを噛んで彼は鼻から煙を抜いた。 「うちの劇団は少し特殊でな。主宰の安田美咲が芸名をつけるんだ。あいつ映画監督もやってた経験あるから芸能界にも名が知れ渡ってて、そういうシステム取り入れてるんだ。初回公演の時はまだ芸名はないんだが、その演技を見て名前を決めるっていう感じで。ただあいつの場合は違ってた。劇団に入ってすぐだ、真宮から申し出たんだ。」 「長谷桜、ですか。」 「ああ。一体どういう意味なのか分からなかったが、あいつが入団してから1年経って飲み会やった時にぽろっと話したんだよ。ある3つの単語から考えたんだって。」 彼の唇から煙が逃げていく。遠い青空へ、鬱陶しいほどの太陽へ。 少し思い詰めたような表情で都築は言った。 「HSS。自分が抱えてるHSS型HSPっていうやつだ。」 「えっ…?」 聞き覚えがありつつも予想のつかなかった言葉に北川はただ驚くことしかできなかった。しかし彼は冷静なまま続ける。 「ハイセンセーションシーキング、って言ったかな。元々のHSPは繊細すぎる人っていう意味で人口の20パーセントがそうらしい。だがHSS型は人口の6パーセント。AB型よりも少ないなんて言われてる。その特徴としては矛盾した性格ってところだな。HSP同様に繊細で傷つきやすい一面を持ってはいるものの、本当はもっと前に前に出たいっていう気持ちがある。新しいことに関心を持ち、それを調べたり外に出て人と関わりたい。そんな積極性を持ちながらも、外の世界で受ける刺激には敏感で、打たれ弱くて傷つきやすい。俺も知らなかったから調べたんだよ。そうしたらあいつの性格にぴったり当てはまってたんだ。」 いつの間にかタバコは短く、フィルターを焦がしていた。それを携帯灰皿に入れると彼はソフトパッケージから2本目を取り出す。 「他人の気持ちを汲むことに長けているせいで、自分が何を望んでいるのかが分からない。それを続けていくと次第にあいつは、自分が無いと思うようになった。本当は外には出たく無いものの、刺激を求める性格のせいで外に出たがる。ただ外に出たらその分だけ傷つくわけだから、次第に装うんだ。平気な自分を。」 ぼうっと火が灯った。火種と煙が生まれて辺りに独特な香りが立ち込める。 「内面がいくら傷ついていてもそれを見せないために、人目のあるところではそれを表に出さず、淡々とした自分を演じる。これが進んでいくとやがて外面と内面の乖離が生じる。そしてHSS型HSPの厄介なところは、その乖離に罪悪感を抱いているってところだ。二面性を持った、ありのままの自分でいれなかった、裏表のある非情な人間になってしまったという後悔と、周りは普通にしているのに自分だけ、という不信感が募り、やがて未来に不安を抱いて自己を否定する。俺は詳しいことまでは分からないが、94パーセントでいれない自分が嫌なんだろうな。」 「で、でも、木乃香さんそんな一面全く…」 「まぁ見せないだろうな、だってあいつにとってはそれが当たり前なんだから。」 ぐさりと胸の奥にナイフが突き立てられたようだった。北川はまるで自分がHSPをやたらと主張していたように思えて、サンドウィッチを握りながら彼女は短いため息をついた。 HSPだと告白した際、真宮はどう思ったのだろう。 心理学の講義を受けていたという発言に納得していたものの、それは少し間違っていたのかもしれない。 日差しは依然としてテラス席を刺している。それを背中に浴びながらガラスの塀にもたれた都築は退屈そうに言った。 「真宮が演技を続ける理由は自分の中に自分自身がいないと思っているからだ。常に相手に尽くす、自分のことはどうでもいい、そんなやつだ。前々からそんな節は見られたんだ。あいつは自分以外の役のセリフまで覚えてきてそれを教えたり、色々周りに尽くし過ぎている。それが目立ってたから飲み会の席で聞いたんだ。そうしたら真宮は自分の中に自分自身がいないから誰かを演じるしかない。苦しそうにそう言ってたよ。」 そう言い終えてからタバコを口に咥える。紫煙は顔を覆って、日光に照らされながら空へ昇っていった。 まるでもう二度と、届かないように。 何かに気が付いた都築は黒いパンツのポケットから携帯を取り出す。画面を見るとまだ長いタバコを携帯灰皿の中に入れ、余った煙をため息と同時に吐き出した。 「じゃあ俺は夏季講義に関する話をしてくるよ、ここの教務課頭固いからもっと簡単に手続き済ませたいんだけどな、それじゃ。」 パーマを掻きながら彼はテラス席から出て行く。構内とテラスを隔てるガラスのスライドドアが閉まり、再び北川の周りには静寂が訪れた。 悲しさで自慰行為に耽ろうと考えていた北川だったが、そんな気持ちはとうに消えていた。 彼女は混乱していた。様々な不安要素がぐるぐると駆け巡り、サンドウィッチを持っていた手をワンピースの上に落とす。尖ったパンの角をまじまじと眺めながら脱力する。北川の脳内で鬩ぎ合っていたのは、HSPであることを彼女に言い続けていた申し訳なさと、どうして自分にHSS型HSPであることを言わなかったのかというもどかしさだった。 しかし当然のことながら答えなど出るはずもなく、北川はゆっくりとサンドウィッチを齧った。ほんのりと暖かくなったタマゴとレタスはしんなりとしており、寂しい風味が口いっぱいに広がった。
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