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ゴンと音が鳴る。静かなフロアの中で狭い個室の中にいた北川は便座を下ろしたトイレに座りながら携帯を取り出した。LINEを立ち上げてトーク画面をスクロールする。真宮との会話は何気ない日常会話の途中で断絶されていた。 4日が経過し、レポートやテストに追われる時期となった。どの講義もやけに忙しなく1階の掲示板に張り出された課題一覧の前には大勢の生徒が蔓延っていた。岩の裏にいるフジツボのように集まっては、各々の課題を確認する。それを携帯のメモに記録していた彼女はざっと課題の一覧に目を通し、何度目か分からないため息をついてトイレの個室を後にした。 白いロングスカートの裾を直し、黒いノースリーブシャツの袖に触る。レース素材が施されていた。 階段を降りて食堂に向かう。なるべく奥のカウンターを見ないように、北川は手前のテーブル席を見渡した。小さな木の机の端で森下香奈は携帯電話を耳に当てながら何かを話している。白いノースリーブシャツから覗く褐色の細い腕を組んで難しそうな表情を浮かべていた。 なるべく邪魔にならないようにとゆっくりテーブルに近付き、森下の前に腰掛ける。トートバッグの中からコンビニで購入したおにぎりを取り出して包装を剥いでいく。乾いた海苔が擦れて端が舞う。 「あ、ごめん愛梨。」 携帯をテーブルの上に置いて彼女は言う。すぐに手を横に振って北川は否定した。 「大丈夫。友達と?」 「そ、もうさー友達の別れ話ほど萎えるものないよね。」 体型を気にしていると話していた森下だった。十分に細いはずの腕を動かし、器に入ったフルーツポンチを掬う。疲れたように彼女は椅子の背にもたれた。 「喧嘩してるの?その友達。」 「そう。浮気してんじゃないのどうのこうので破局寸前。」 バリバリと音を立てておにぎりの端を齧る。中身のほぐし鮭にはまだ辿り着かず、少し固まった白米をゴクリと飲み干す。 騒がしい食堂の中に真宮の姿が見えないか、北川は咄嗟に辺りを見渡す。様々な色の髪や服装が散りばめられているせいで真宮はおろか知り合いの表情すら見られない。それがどこかもどかしく、彼女は急いでおにぎりを齧りながらほぐし鮭へ到達しようとしていた。 「2人とも知り合いなんだけどさ、面と向かって話せばいいのに何でか知らないけど私を頼るわけ。私が友達の恋模様に悩まなくちゃいけないんだよ?もう大変。」 HSPを持つ北川に辛辣なことを言っていた森下だった。その対応が北川は苦手だったものの、どこか頼り甲斐のある彼女だった。だからこそ皆自然と森下に頼りたくなってしまうのだろう。 フルーツポンチを半分まで平らげた森下は大きなため息をついた。食堂の喧騒の中でも彼女の声ははっきりとクリアに聞こえている。 「だから、私はガツンと言ってやったの。結局人は言葉にしないといけないんだって。思ってるだけで伝わるほどこの世界便利じゃないんだから。」 ほぐし鮭が白米から顔を覗かせる。しかしそれを口にすることはなく、北川はぴたりと動きを止めた。 「私たちは言葉を使えるんだし、伝え合わないと意味ないと思うんだ。それがめっちゃ難しくても諦めたら意味ないじゃんね。傷つくのを怖がるよりもお互いが傷つきあって仲直りした方がいいと思うの。」 子供のおもちゃのように言葉のナイフが北川の心臓にグサグサと刺さっていく。ただほぐし鮭を見つめ続けていた彼女は恐る恐る言葉を絞り出した。 「でも、自信がないんだと思う。」 「自信?」 「うん。自分の思いが相手に上手く伝わるかどうか、迷ってるんだと思う。」 「でもそれって迷ってる自分が好きなだけっしょ。」 カランと音が鳴った。鬱陶しい夏を涼ませてくれる風鈴のように、ガラスの器にスプーンを置いた彼女は冷たく吐き棄てる。その台詞が最も強く刺さり、北川は答えを見失った。 「そりゃ傷つきたくない場所にいるんだから、そこが気持ちいいのは当然だよ。でもずっとそこにいるわけにはいかないじゃん。十人十色。だけど、うちらって常に何か行動してるんだよ。朝起きて、ご飯食べて、メイクして、家出て駅行って大学行って授業受けて。こうやって話してる間にも時間は進むんだし。何を言っても結局進んでるんだ。だったら気持ちだけ置いていくなんて何に関しても後悔しかなくない?」 テーブルの端に置かれたペットボトルの表面からは水滴が溢れていた。それを手に取り、中身の緑茶を細い喉の裏に注ぎ込む。 北川はその様子を羨ましそうに眺めていた。 「香奈は強いね。私には無理だなぁ。」 ぼそりとそう呟く。いつの間にか彼女の話を自分のことのように置き換えていた北川は不安そうにため息を付け加える。 「強い人なんていないよ。」 残ったフルーツポンチを頬張った彼女はスプーンを置き、両手を合わせた。ごちそうさまと言ってから北川を見る。 その表情はどこか晴れやかな笑みだった。 「ただの慣れじゃん?」 「慣れ…」 「仮に私がメンタル強い系女子って思われてるんだとしたら、それは違うよ。私だって男に振られて普通に萎えるし。お化けみたいにメンタル強い人だっているよ、でもその人だって傷つくことはあるよ。だから傷に慣れるしかないの。他の人と自分を比較して落ち込まないように、その気持ちいい場所から抜け出すの。でもどうせ私たちって1人で傷つくのが怖いんだから、周りを見ればいいんだよ。」 窓から柔らかい日差しが刺す。北川の影が伸び、ガラスの器にそれが届いた。 「独りじゃないんだもん。あれだよ、数字の方と孤独の独の方。独占とかそっちのやつね。だって見てよ。学食超うるさいじゃん。外に出たらもっとうるさいし。そういう人たちを見て勝手に妄想するんだ。名前も性格も知らないけど、皆それぞれに大切な誰かがいて、きっと悩んで苦しんでるんだって。自分の普通は他の人の普通とは違うからって落ち込むよりも、一人一人の普通があるって思ったら少しは楽になるんじゃない?」 涙は出なかった。自分のことを言われているように感じていたものの、心の奥にへばりついていた水垢が少しだけ剥がれたような感覚だった。 しかしそれでも北川は胸がすく思いだった。 「愛梨も悩んでるんでしょ?何かは知らないし、私から聞くこともないけど。でも私はいつでも話聞くからさ。しんどかったら零しちゃいなよ、一緒に拭いてあげるから。」 返す言葉が見つからなかった北川は一度だけゆっくりと、深く頷いた。 「あ、やばい、私課題出してない。締め切り昼までじゃん。やば。先行ってるね!」 突然焦った様子で彼女は立ち上がると、優しい言葉とペットボトルの結露を残して食堂から去っていった。どことなく香る甘い匂いは彼女の香水なのだろう。それが全て消えた時、北川はようやくほっと肩の力を抜いた。 自分さえいなければ真宮は幸せなのだろうと考えていた彼女だった。そっと身を引けば北川を優先することなく、真宮は自分を優先して幸せに生きることができる。それが北川自身を傷つける結果に繋がると分かっていても、その道を選ぶのが今までの北川愛梨で、そこが今までの彼女にとって気持ちのいい場所だったのだ。 残ったおにぎりをハムスターのように齧り、ぺろりと平らげた北川は席を立った。 首を伸ばして学食の奥を見る。大学の前を流れる一本道がよく見えるカウンターの端に真宮の姿はない。トートバッグを肩にかけた彼女は携帯を片手に学食を出た。午後の授業はないために慌てた様子で玄関へと向かう。 住宅街に続くスライドのガラス戸が先に開き、駆け出そうとした彼女の前で男は立ち止まる。都築は驚いた様子で言った。 「びっくりしたなぁ、何だよ。」 「あ、都築さん…」 白いワイシャツ一枚に黒のスラックスを履き、彼は黒のトートバッグを提げている。畝った毛先からは玉のような汗が稲穂のように下がっていた。 彼と目が合い、北川は一度深呼吸をした。もう自分に嘘はつかない。そう心に決めて彼女は言う。 「私、木乃香さんと仲直りすることにしました。」 昼休みはまだ終わっていない。食堂から溢れる喧騒は都心部のようだった。その中で自分を落ち着かせながら彼女は続ける。 「すごく怖いし、きっと今のままでいれば楽なんだろうなとは思うんです。実際今までの私はそうでした。辛いことには目を向けないでずっとそこに居続ければいいんだろうなって。傷つかないように、ただじっとしていればいいんだ、そう思ってました。自分は他の人の普通とは違うから、黙り込んだ方がいいんだと。でもそれじゃダメだって気付けたんです。」 ぐっと拳を握りこむ。自分へ強く言い聞かせるように、彼女は肩を落とした。 「なんか、これを続けているといずれ自分が死んじゃう気がするんです。傷つかないように閉じ籠って抑え込んで、息が詰まりそうな感じでも我慢し続ければいい、でもそれを続けるとあまりにも窮屈で、苦しいんです。他の人はその苦しさが普通なんだから我慢しないといけないとも思ってましたし、そのままじゃダメなのかもしれないとも考えてはいたんですけど、その一歩が踏み出せなかった。だけどそれは木乃香さんも同じなのかもしれないって思ったんです。」 2人の周りを、岩を避ける小魚たちのように生徒や教員などが歩いていく。その時に北川は長谷桜としての言葉を思い出していた。 キラキラと光る川底に沈む石、海と違って常に一定方向へ流れ続ける川の下で、身を削りながらそこに居続ける。あの言葉の裏には真宮木乃香としての本音が隠れていたのかもしれない。 「木乃香さんは長谷桜っていう別人格を作って、自分の代わりに傷ついてもらおうと考えていたんじゃないかと思うんです。普段生活しているよりもたくさん人に見てもらえる舞台の上で自分の代わりに長谷桜が傷つくようにしていた。でもそれを続けていくうちに真宮木乃香が何を望んでいるのかが分からなくなってしまった。だから私、決めたんです。自分のためにも木乃香さんのためにもあの人を殻の中から連れ出すんだって。私たちが思っていた”普通じゃない”っていう気持ちは、十人十色の普通があるからいいんだって。1人でも独りじゃないんだって。」 時折吹く自動ドアからの熱風が都築の髪を揺らす。微かに香ったタバコのフレーバーが鼻先を掠め、北川は背を正して胸を張った。 傷つかずに独り閉じ籠ってしまうよりも、誰かと共に傷つく。その覚悟を決めるにはかなりの時間を要するかもしれない。今年が終われば真宮は4年生になり、就職活動で忙しくなるだろう。社会人になれば自然と会う機会も減ることだろう。それでもお互いが独りにならないように、北川は熱風を浴びながら覚悟を決めていた。 一連の言葉を聞いていた都築は頭皮を掻いた。やがて不思議そうな面持ちで彼は言う。 「うん、まぁ…なんていうのかな。どうしてそれを俺に言うの。」 「あっ。」 真宮とすれ違った状態であることを都築には話していなかった。自分へ言い聞かせるためにあえて口にして言語化していたものの、それを真正面から浴び続けていた彼には何も理解はできなかっただろう。 「えっと、その…あの、ひ、独り言です!」 慌てた様子でそう取り繕う。都築は片方の眉を上げて小さく頷いた。 「ふうん。ていうかあれだな、お前ら2人ってそんなに仲良かったんだな。」 彼の言葉を聞いて北川は改めて不思議な関係だと感じていた。春に舞台の上で出会い、DVDを通して彼女へ憧れを抱いていた。やがて同じ大学だと分かり、いつしか話し合うようになった。お互いの弱いところを少しだけ晒け出し、悩み、苦しむ。それも全て特殊な友人関係のおかげであった。 疲れたように息を吐いた北川は頬を緩めながら言った。 「はい。だって私と木乃香さんは、ダイバージェンスフレンドなんで。」 その言葉に恥じらいも何もなかった。胸を張って自分たちの関係性を口に出せる、それはただの友達でも恥ずかしさが勝って言えないだろう。しかしお互いの秘部と少しの弱点を知り得ているからこそ口に出来るのだ。 そこには確かに、朧げながらも確固たる信頼があった。 ダイバージェンスフレンドという言葉を聞いて都築は分かりやすく首を傾げる。しかしすぐに顔を元の位置に戻すと、彼は呆れたようにニヤリと笑った。 「あっそ。はぁ、若いやつは羨ましいなぁ。」 少し声を張った彼はそう言うと自身のトートバッグの中に手を忍ばせた。中から茶色の細長い封筒を取り出すと、まるで団扇のように仰ぎ出す。パタパタと音を立てながら彼はわざとらしい声色で言った。 「あーあ、夏休みに一泊二日で可愛い女の子と旅行しようと思ってたのになぁ、夏季講義が重なって行けねぇなぁ。ちょうど光陰のメテオも終わって暇な時なのに、行けねぇのかぁ。じゃあこの宿泊券は無駄になるなぁ。」 宿泊券と言って封筒をピンと叩く。不思議そうに首を傾げた北川は眉尻を下げた。 「はぁ…あの、どうしてそれを私に言うんですか。」 「ん?独り言。」 そう呟くと唇の端を釣り上げ、茶封筒を北川に差し出す。それを受け取って彼女は恐る恐る中身を見た。2枚の宿泊券はぴったりと重なっている。 「え、これ、私に…?」 「仲直りしてこいよ、ダイバージェンスフレンド。」 都築はそう言い残すと軽く手を振り、北川の横を通って1階の教務課の方へ歩いて行った。彼の後ろ姿が見えなくなって北川は玄関の前に立ち尽くす。茶封筒を握りしめたまま、彼女は思い出したように携帯を前に掲げた。 日常会話が中途半端に途切れた真宮とのトークをタップし、小さなアイコンに触れる。画面に浮かび上がった受話器のマークを見て一度指の動きがピタリと止まる。しかしここで立ち止まったままではいけないと思い直し、北川はようやくその足を前に出した。 夏の鬱陶しい風が吹き荒ぶ中、住宅街に出た北川は真宮に電話をかけた。
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