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不規則なリズムで体が揺れる。少し強い衝撃が下から伝わり、北川は膝の上に抱えていたリュックを強く抱いた。日立駅から発車したバスは5分ほどかけて田舎道を抜けていく。トンネルのような草木を掻き分けて広がった景色はぐっと遠く感じた。 永遠に尽きることのない水を蓄えた海は濃いブルーで、控えめに空を照らす太陽の光が水面を突き刺している。巨大なスクリーンのようなその景色に北川は胸が躍った。 目的の駅までは残り5分、それを腕時計で確認した彼女は隣に座る真宮を見た。バスの後部座席、左端の席で真宮は穏やかな表情で眠っている。小さな寝息がバスの走行音に掻き消された。 光陰のメテオが終演し、劇団マハラジャは次回公演のリハーサルまで夏休みの期間に入った。とは言っても最終公演は昨日の夜まで行われており、溜まった疲労のせいか真宮は行きの新幹線の車内でもぐっすり眠っていた。 旅行の誘いは意外にも簡単に行われた。まるで言い争ったあの日をとうに忘れてしまったかのように、二つ返事で彼女は了承した。ほっと安心した北川だったが、それではいけないと強く思っていた。この一泊二日で変わらなくてはならない。ただ幼い子供のように言葉だけを交わして仲直りというわけにもいかないのだ。 日立駅で購入したペットボトルを取り出し、蓋を開けて中身のサイダーをごくごくと喉の奥へ流し込む。弾ける炭酸も、ふわりと香る爽快な味わいも、汗ばんだ体の匂いも、開けた青空と海も、全てが夏だった。 『次は〇〇団地前、〇〇団地前。』 目的地の最寄りがアナウンスされ、北川はぐっと体を伸ばしてブザーを押した。席に戻ってから淡い桃色のキャップを被り直し、8月初旬の空を見た。 「木乃香さん、着きますよ。」 「ん…あれ、もうか。暑いなぁ…。」 汗で額に張り付いた前髪を散らし、膝の上に置いていた麦わら帽子を被る。海のように青いワンピースは膝小僧を少しだけ覆い隠し、腰にはくすんだ色のような革のベルトが巻かれている。白とベージュのヒールサンダルからは大理石のような光沢を跳ね返す足が覗いた。 バスはゆっくりと停車する。2人はのろのろと後部座席から離れ、折り畳まれた扉から外に飛び出した。 ひんやりとした車内とは打って変わって外は焦げるような暑さで満たされている。どんな風も全て温もりに変えてしまうような、そんな強大な力があった。バスが去っていくとガードレールの向こうに海と青空が広がっている。顔の周りから鳴っているような蝉の声がその時間のBGMだった。 「すごい遠いですね、ここ。」 ちらりと腕時計に目をやる。待ち合わせをした自由が丘駅を出て既に2時間以上が経過していた。 「あの人ここに来て何しようとしてたんだろ。」 「女の人と来るとは言ってましたけどね。」 「いやーそれはないね。まずあの髭じゃモテないよ。」 暑さから逃れるように、2人は取って付けたように寂しいバス停から離れ、海沿いを流れる長い道を歩き出した。 宿に着くまでは4分ほどあった。その間2人は劇団マハラジャのことについて話した。次回公演はどんな内容で、どういった役なのか。お互いのサンダルの音がコンクリートに跳ね返っていく。一見今の2人は仲睦まじい友人のように見えるものの、その間には薄い壁があった。 気を遣い合っているのか、言い争った日のことについては触れないよう、ぎこちない会話が続いていく。時折黙り込む場面もあった。 しかし旅館へと歩く足と時間は無情にも進んでいく。海沿いの一本道を抜けると信号があり、横断歩道を渡った先に2人が宿泊する旅館はあった。その旅館の裏には街へ続く大通りも流れており、まるで避暑地のような涼しさと丁度良い静けさがある。波が寄せる微かな音色と蝉の鳴き声を浴びながら彼女たちは旅館に辿り着いた。6階建のレンガ色、屋上には堂々とした『小木津荘』という看板が掲げられている、穏やかな雰囲気の素朴な旅館だった。 駐車場への入り口に入り、正面玄関へ進む。家族連れも訪れているのかファミリーカーが何台か停車している。日常を忘れてのんびりと過ごすには丁度いい場所なのかもしれない。敷地を取り囲む木々が熱風を濾してひんやりとした風を生み出していた。 玄関をくぐると民宿のような雰囲気が広がっていた。淡い赤色のカーペットに病院のような受付、玄関の両脇には番号の書かれた下駄箱が聳え立っている。ほんのりと木の匂いが香った。 「いらっしゃいませ、ご予約のお名前は?」 50代後半であろう女性が受付からやってくる。靴を脱いで空いた番号にサンダルを仕舞い、ふわりとした感触のスリッパに履き替えた2人は女性の前に立った。 「都築です。」 「あ、都築様…お連れの男性の方はどちらに?」 無精髭を掻く彼の姿が目に浮かぶ。視線を合わせた2人は呆れたように笑い合った。 「今日は風邪みたいで、急遽来れなくなったんです。」 そう言って北川は慌ててリュックサックから財布を取り出すと、中から宿泊券を2枚抜いた。宿泊券の裏には都築の名前が直筆で書かれている。それを受け取った女将は裏面を見て納得した様子で頷いた。 「左様でございますか。それでは2名様、あちらの受付でお名前をご記入ください。」 はーいと間延びした返事で真宮は受付へ向かう。分厚いファイルは真ん中が折られ、細かい記入欄がびっしりと刻まれている。その空欄に真宮と北川の名前を記入すると、受付の中に戻っていた女将は琥珀を象ったようなキーホルダーのついた鍵を手に、2人の前で頭を下げる。 「当旅館の女将の橘と申します、本日はご予約ありがとうございます。お部屋までご案内いたします。」 右手の下駄箱の隣にはレトロな雰囲気のエレベーターがあった。婀娜っぽいワインレッド、扉が開くと金属が大きく軋む音が鳴る。 3人を乗せたエレベーターは最上階で止まった。一体どの部屋で予約を取ったのかまでは把握していなかったため、彼女たちは先を歩く橘の後ろを恐る恐るついていった。 ゆとりのある廊下はベージュの絨毯が敷き詰められている。エレベーターを出て右手の廊下を真っ直ぐ進んでいくと、突き当たりに漆色の扉があった。橘は慣れた様子で鍵を差し込んで捻る。ガチャリと音を立てて3人は玄関に入る。スリッパを脱いで室内用のスリッパに履き替える。玄関に入って左手の短い廊下の先には焦げたような板の引き戸があり、右手には大きな襖がある。それを丁寧に開いた橘は先に部屋へと入って手前に正座した。 「うわ、すごい広い…。」 12畳の和室の真ん中にはこじんまりとした黒いテーブル、同色の座椅子が2つ対面で置かれている。フローリングの広縁には2つの1人掛けソファーがあり、窓の向こうには目を見張るほどの青空と海が広がっている。橘はおっとりとした口調で言った。 「こちらからは小木津浜を一望できます。今日のように晴れているととても景色が綺麗ですよ。」 「本当ですね…。」 キャリーケースを抱えて畳の隅に置いた真宮は感嘆のため息を漏らす。 「あちらの襖の向こうは寝室となっております。」 真向かいにある襖を開くと、低いベッドが2つ並んでいた。檜で作られているのかベッドの縁は明るい木の色をしている。寝室でさえも10畳はあった。 「廊下の突き当たりにある引き戸は露天風呂に続いております。夜は星が綺麗ですよ。」 淡々とした説明だったものの、北川はただ驚いていた。2人で宿泊するには広すぎる部屋の真ん中で立ち尽くす。女将は再び襖の手前で正座をすると、柔らかな笑みを浮かべた。 「夕飯は何時頃お持ちいたしましょうか?」 「えーっと…何時にしようか。」 真宮からのパスを受け取り、ようやく旅の目的を思い出す。しかし彼女はそれを悟られないように明るく努めた。 「19時くらいにしますか。」 「そうだね。じゃあ19時で。」 かしこまりましたと言って橘は微笑む。翌日の朝食時間も、北川は真宮からパスを貰った。おそらく真宮は長年の癖がついているのか、あまりにも自然なパスだった。誰かに決めてもらうという本音は見えず、ただ別の人の意見も参考にしたいというような、ナチュラルな言い方なのだ。 それを崩すにはかなりの根気が必要となるだろう。北川は女将が去っていく中で覚悟を決めた。 「よくこんないい部屋取れたなぁ。」 ぼそりと呟いて真宮はキャリーケースの中身を広げる。革で出来たような四角い箱が開き、衣類などが外気に触れる。北川は恐る恐る言った。 「あの、ここっていくらくらいするんですかね。一応それなりにはお金持ってきたんですけど…」 「あーそれなら心配しなくていいよ。」 そう言って彼女はキャリーケースの中から白い封筒を抜いた。少し厚みのあるそれを振って、彼女は悪戯っ子のように微笑む。 「ご飯代とか宿代、くれたんだ。」 「え、都築さんすごい…。」 「いやーしかしなんで私たちのためにここまでお金出してくれるんだろう。ダイフレってことを仮に知っててもここまで出すとは思えないんだけど。」 その言葉にどきりとして北川は口籠った。この旅の目的を彼女は知らない。おそらく光陰のメテオの褒美だと心の中で捉えているのかもしれない。このまま北川が何も行動を起こさなければ打ち上げの感覚で旅は終わるだろう。 だからこそ、このままでいるわけにはいかなかった。 リュックサックの中から小さな肩掛けのカバンを取り出し、財布と携帯を詰めた北川は明るい声色を心掛けた。 「お昼どこにするか、決めましょ!」
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