54

1/1
前へ
/62ページ
次へ

54

「そしてこちらは日本名水百選にも選ばれた、八溝山渓の清らかな水で作られた蒟蒻の刺身でございます。夕飯は以上となりますので、何かあればお申し付けください。」 橘は襖の前で頭を下げるとまるでスライドするかのように廊下へと消えていった。ガチャリと鍵の閉まる音が鳴って微かな静けさが訪れる。去っていく橘に頭を下げた北川は改まった様子でテーブルを見た。 「これ、私たちだけで完食できますかね。」 「正直まだ昼間のラーメン残ってるんだよね…。」 向かい側に座ってワンピースの上から腹を撫でる真宮の前には豪勢な料理が広がっていた。色鮮やかな小鉢たちは四季を感じさせ、ほうれん草のお浸しやホタルイカの甘酢漬けなど様々な一品が並ぶ。一際目立っていたのは小ぶりの鍋だった。しめじやえのき、新鮮な野菜がふんだんに詰め込まれ、ハムのように明るい色をした肉が倒れている。大子産の白米は黒い茶碗の中で湯気を見せていた。 瓶ビールの中身を小さなグラスの中に入れ、それを掲げた真宮は一度首を傾げるとすぐに言葉を紡いだ。 「じゃあ…えっと、初のダイフレ旅行?に、乾杯。」 オレンジジュースが入ったグラスを持ち、最後の言葉を復唱する。カチンと軽い音が鳴った。 一口で半分まで飲み干した真宮は茶色の箸を手に取った。鮭と鯛の和え物を迷わず掴み、尖った唇の中にそれを放り込む。真宮は意外にも丸々とした顔立ちだった。輪郭は鉋で削ったようにはっきりとしているものの、食べ物を口いっぱいに含んで咀嚼する彼女の顔はぷっくりとした風船のようで、どこか幼い雰囲気を漂わせている。 何も言うことなく彼女は続けて白米を掻き込む。ハムスターのように頬を膨らませた真宮は、窮屈そうにそれを飲み込むとぱあっと表情を輝かせた。 「ん!すっごい美味しいこれ。刺身ぷりぷりだよ。」 次はどれを頬張ろうか、そんな期待感に満ち溢れた目で料理を眺める真宮はようやく向かいからの視線に気が付き、目を丸くした。 「どうしたの?食べないの?」 「いや、木乃香さんすごい可愛いなぁって。」 「またまたぁ。」 中年女性のように手を振って彼女は大袈裟なリアクションをとる。本当にそう思っているのだと伝えようとしたところで、北川はようやく気が付いた。 伊藤恵介はこういった気持ちだったのだろう。自分が抱く本心を否定され続け、それ以上何も言えなくなってしまう、自分は数年間この返しを続けていたのだと再確認し、茶碗を持ったまま北川は小さなため息をついた。 彼女は勝手に気まずさを覚え、テーブルの上から逃げるように視線を逸らした。足元に置かれたリモコンを見つけて急いで奪い去る。テレビは部屋に入って右手の壁に沿って置かれていた。 ブンと奇妙な音と共に液晶画面が灯る。そこに映し出されたのは横浜の遊園地だった。 「こっちでもドラマやってるんですね。そりゃそうか。」 煌びやかな観覧車に乗り込んだ男女が映る。マッシュヘアの素朴そうな男性に、漆のような色っぽい黒髪を後ろで束ねた小麦色の女性、2人は狭い個室の中で黙り込んでいる。 「あ!」 突然大きな声をあげた真宮は箸を置くと、座椅子から離れてテレビの画面に近づいた。四つん這いのまま液晶画面を睨みつけている。 一体何が彼女を突き動かしたのか分からず、北川は首を傾げた。 「ど、どうしたんですか木乃香さん。」 「林志保だよ、私この女優さん大好きなの!」 数年前に朝の連続テレビドラマの主役に大抜擢され、舞台やバラエティー番組など多岐にわたる活躍を見せる女優だった。テレビを1日中点けていればどこかしらで見かけることができるだろう。 「あー、この人今すごいですよね。」 「愛梨、今じゃないよ。」 「え?」 言葉の意味が理解できずにそのまま聞き返す。それでも真宮は両膝と両手を畳につけたまま画面をまじまじと見つめている。 「私がずっと尊敬してる人なんだ。今30代で少し遅咲きだけど、それまで舞台とミュージカルで培った豊富な表現力は主役だけじゃなく脇役でも確かな存在感を見せてるし、やっおあり一番すごいのは役作りだよね。ある映画で30キロ太らないといけなかったんだけど、本読みの時には既に20キロ近く増量してたんだって。そういう計り知れないプロ意識がこの演技力を生んでるんだよね。私もしーちゃんみたいな女優になりたいなぁ。あ、しーちゃんっていうのはあだ名ね。ファンクラブの会報で、学生時代のあだ名がしーちゃんだったって書いてあったんだ。だからそのまましーちゃん、あ、そうだそもそもあだ名をつけられた由来っていうのが学生時代にやった役が幼い子供の役で、その可愛らしさからしーちゃんっていうあだ名がついたんだ。」 息もつかせぬ彼女の言葉はマシンガンのようだった。ばたばたと捲し立てる真宮は何かに気が付いた様子で振り返る。悪戯が見つかった子供のような表情を浮かべていた。 「ごめん、つい…」 「い、いやいや、いいんですよ。木乃香さんがそんなに熱く語ってるの初めて見ましたし。」 照れたように両手で顔を抑える。細く華奢な指先から彼女のぷっくりとした頬がはみ出ていた。 その姿が真宮と出会ったばかりの自分と重なり、どこか北川は嬉しさを感じていた。彼女にも誰かを強く尊敬する一面があり、その熱量は盲目的である。そして劇団マハラジャの長谷桜を褒め称えていた自分は今その本人と一泊二日の旅行に訪れている。人生はどういった方向に転ぶのか分からなかった。 「いやー、やっぱりしーちゃんの作品で外せないのは狂妄の隣人だよね。ホラー映画初挑戦って言ってたけど演技力凄かったんだよ。」 「へぇ…じゃあこの人が出てる作品でオススメとかあります?」 物音に敏感な猫のように北川を見ると、座椅子に戻った彼女は再び箸を持って首を捻った。深々と考え込んでいるもののその表情は満面の笑みであった。 「何だろうなぁ…赤い焦点もいいし、ミッドナイトサマーラバーも捨てがたいし、あーでも空浮かぶ城もいいなぁ。何せ初の時代劇なのに主役に抜擢されたんだよ?すごいよ本当に。安土桃山時代の激動を描いた作品なんだけど、役作りのために歴史の教科書を何十回も読み返して撮影に臨んだらしくて、その時代に歩き方だったり喋り方もマスターしたせいで言語指導の先生すごい暇だったらしいの。だから時代劇、あーでもやっぱりデビュー作の青、駈け出すもいいんだよね。まだ演技がぎこちないんだけどその分熱量がすごいの。円盤化もされてるしチェックするならそこからかなぁ。」 再び箸を置いた彼女は腕を組んで天井を見上げる。楽しげに何かを思い出しながら立て続けに林志保の魅力を語り、その様子は無邪気な子供のようである。そんな彼女の姿を見て北川はふと考えていた。 それは真宮木乃香のことを何も知らないということだった。 彼女がどういった環境で育ち、どういった影響を受けて何を思って生きてきたのか。北川は勝手に自分の過去を曝け出していたものの、彼女は何も漏らしていない。それを話すかどうかは真宮の自由であるものの、一切過去が見えないことに北川は不思議に思っていた。 しかしその思考のみで終わらないための2日間だった。ただ考えたまま答えを出さない結論に至る自分から卒業するため、どれだけ怖くとも踏み出さなければならないのだ。 自分を勇気付けるように北川は鮭と鯛の和え物を頬張った。真宮の言う通り身はぷりぷりとしており、口いっぱいに海鮮の風味が広がった。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

31人が本棚に入れています
本棚に追加