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「まぁ…なんていうか、結局こうなるんだなって。」 茶色のパーマを掻きながら武本修哉は烏龍茶を飲む。くるりと跳ねた毛先は中学生の頃から変わらず、整髪料でセットしていてもなおあちこちにその先を向けている。やがて彼は指先で毛先を掬い取ると、弾くようにした。 2人は松戸北中学校で同じクラスだった。当時はお互い同じアニメが好きだったということもあり、何度か会話するうちに意気投合した。しかし中学を卒業してからは会う機会も減っていた。 4年ぶりに再会した武本は、彼女と同じく東京の大学に進学していた。地味で目立たない生徒だった彼も今では髪を染め、流行のファッションを真似ている。それがどこかおかしく、再会した時北川は思わず笑ってしまった。 自由が丘駅で東急東横線に乗り換え、池袋駅で降りた北川は何気なく駅前を彷徨っていた。ロータリーを抜けてサンシャイン通りに滑り込み、お上りさんのように辺りを歩いていたところ、武本と再会したのだった。 「最初からこうなるって分かってたのかな。はぁ…。」 「でも高校生の時から付き合ってたんでしょ?」 「うん…。まぁ、でもな…。」 イタリアンがメインであるファミリーレストランは大勢の客で溢れ返っていた。人々の話し声は街の喧騒と何ら変わらず、BGMのようになっている。その中に溶け込ませるように武本は言った。 「初めての彼女だったし、長く続いてたから大丈夫だと思ってたんだけど。まさか浮気してるとは思わなかったよ。」 卵黄がのったミートソースパスタを平らげ、黒いワイシャツの袖をまくった武本はソファーにもたれた。眉尻を下げて思い詰めた表情のままコップの中身を空ける。 3年間交際していた彼女に別れを告げられたと話す武本は切ない面持ちで店内を見渡した。その様子を見て北川は小さくため息をつき、ぴったりと足に張り付いたジーンズの上に拳を落とす。 「なんか、ごめんな。こんな話して。」 「ううん。大丈夫だよ。」 「うん…なんかさ、俺勝手に結婚するかもなとか思ってたからさ。ちょっと不安はあったけど、それでも2人なら大丈夫って思ってて。」 ぽつりぽつりと話す彼の言葉を、北川は自分のことのように考えていた。3年間も付き合っていた恋人に裏切られ、一方的に別れを告げられる。突然失ってしまう感覚は一体どのような思いに駆られるのだろう。 彼女はそれを想像し、両の唇を仕舞い込んでから、優しく言った。 「あんまり落ち込まないでよ。私は武本の味方だから。」 白いレースシャツの位置を直し、北川はその場で座り直す。依然として不安そうな表情を浮かべたままの彼は切ない目を北川に向けた。 「いつでも慰めてあげるから。だからさ、元気出しなよ。大学でいい人見つかるって。」 身を乗り出して彼女はテーブルの上に両腕を乗せる。白く細い腕はキャラメル色の上で電灯に照らされ、ミルクのように眩しい。 すると武本はゆっくりと上体を起こすと、軽く身を乗り出した。同じように両腕をテーブルの上に乗せて彼は元気のない声で言う。 「やっぱりさ、恋人同士のスキンシップみたいなものがないと、ダメだよな。」 助けを乞う小動物のような目が刺さる。 「まぁ、そうじゃない?」 「だよな…なんか、その…。」 喉が渇いているのか、彼は頻りに唾を飲み込んでいた。細い喉の裏が微かに動く。 「下手だって、言われたことがあってさ。そこで自信無くしちゃったのがダメだったのかなと思って。」 テーブルの上で彼は両手を握りしめた。微かに拳が震えているのは怒りなのか悔しさなのか、北川には分からなかった。 「初めてだったし、上手じゃないのは当たり前だと思うんだけど、それでも言い返せなかった。俺は好きな人を満足させられないんだって。」 「でもそれは仕方ないよ。相性っていうものもあるし、武本は悪くないでしょ。」 「だけどさ…やっぱり男は一度そう言われたら自信なくなるよ。」 明るい店内の中で、2人の座るボックス席だけが暗い雰囲気に包まれる。深いため息をついて武本は分かりやすく項垂れた。 「俺って下手なのかなぁ…。そこから彼女と、まぁ、そういうことする機会も減って。」 全てを失ったような喪失感が彼の体から滲み出ていた。絶望をそのまま身に纏った彼は、既に空になったコップを手に持って残った小さい氷を傾ける。 「やっぱり女性はガッカリするものかな、付き合ってる男が下手くそだと。」 藁にも縋る思い、そんな彼を見捨てられず、北川は唇を尖らせて首を傾げた。2人のボックス席を挟む大学生グループの話し声はあまりにも大きく、遠くにいる相手と会話をしているようだった。 その声量に紛れさせるように、北川は少し声を大きくした。 「仮に下手くそだったとしても、そういうのは愛情でカバーできると思う。私も経験豊富ってわけじゃないからあれだけどさ。」 「いやでも、女性の意見は今めっちゃ貴重だよ。愛情な…それで誤魔化せるもんかな。」 2人は数年ぶりに再会したものの、すぐにその調子を取り戻していた。男女の友人としては珍しく恋愛に関する話題はよく話しており、踏み込んだ話も交わしていた。 その当時から北川は様々な生徒たちから相談を持ちかけられることが多かった。誰かからは姉御肌などと言われ、彼女自身も自ら誰かの話を積極的に聞くようになっていた。 しかし感受性が豊かな北川は、人の悩みを自分のことのように考える節があった。共に悩み、共に傷つく。その分ストレスを感じていたものの、相手が楽になれるのならそれも受け入れるというのが、北川がいつからか定めたポリシーであった。 「誤魔化すって言い方は良くないよ。」 彼女は自分が持っていたコップを掴み、氷で良く冷えた水を喉の奥に流し込む。唇の端から少しばかりの水滴が漏れ、首筋を伝って白いレースシャツの中に潜り込んでいった。 「スパイスだよ。だって好きな人と一緒だったら、どんなご飯も、どんな場所も楽しく思えるでしょう?肉体的な気持ち良さよりも精神的な気持ち良さの方が、女の人は嬉しいと思うな。」 そうか、と呟いて武本は下唇を噛む。食事が始まって既に1時間、彼の相談が始まってからは15分が過ぎていた。30分前までは中学校の思い出話に花が咲いていたものの、次第に沈黙が多くなった2人に、その日最大の静けさが満ちる。 ボックス席をカーテンが囲われたように感じていた時、テーブルの上に置いていた北川の両手を、彼は突然握りしめた。 「ど、どうしたの。」 決して力任せに握っているのではなく、まるでパワーのお裾分けを求めているように、優しく彼女の手を包み込んでいる。微かな温もりが彼の緊張を告げていた。 そして武本はごくりと唾を飲み込むと、声さえも震わせて一言告げた。 「お、教えてくれないかな。」 眉尻を下げて彼は懇願している様子だった。思わず北川はそのまま聞き返す。 「教えるって?」 「いや、だから、その…俺が下手くそなのか、どうかって。」 ボックス席に訪れた重い静けさはすぐに記録を更新した。北川はうまく断る理由や言葉が見つからずに、ゆっくりと頷いた。 どちらからともなく領収書を持って2人は混雑するファミリーレストランを後にした。
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