幽子と名付けた幽霊は...

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 恋人がしばらくいないから飢えているのか。  そうだとしても、彼女は生きた人間ではない。この感情はあり得ない。  あり得るわけがない。自分に言い聞かせながら壁を見ていると、『謙一郎さんはおモテになりますよね』と話しかけられた。  そこからまた自然と会話を広げていったのだが、話が途切れた時、幽子が生前好きだったという俺に似ている課長について聞いてみたくなった。  だが顔を赤くさせながらその課長がどんな人だったのかと話す彼女に、苛々とした感情が湧いてくる。それを嫉妬と呼ぶと気づいていながらも、気づきたくなかった。  俺がその課長に似ているから幽子はここに来るんだと思うと、今すぐ吠えながらサンドバッグにあらゆる打撃技を決め込みたい気持ちにさせられる。  これは完全なる嫉妬だ。  だが、......相手は幽霊だ。  あり得ない。あり得るわけがない。  そんな葛藤を覚えながらも幽子と話を続ける。  プロポーズを考えていた元カノにフラれた話をすると、幽子は笑っていた。 「なに笑ってんだ。つまんな過ぎて逆に笑えたとか。いきなり昔話して悪かったな」 『そんなことないです。興味深いんですっ』  声を張り上げた彼女に驚いたが、興味深いと言われると、単純なことに嬉しいと思いつい笑ってしまう。  その興味深いが、俺自身ではなく俺の恋愛歴に対してなのはわかっているが、興味を持ってくれるのが嬉しい。  単純過ぎるだろう。  彼女の一挙一動で感情が揺さぶられるなんて、まるで恋だ。  だが、やはり、彼女は幽霊だ。  この気持ちは、あり得ない。  繰り返す葛藤を胸に秘めながらも、俺と幽子は話を続ける。  ところがだ。幽子が突然泣き出した。  何が原因かわからなかったが、知らないうちに傷つけてしまったのではと焦燥心に襲われる。  何度も涙を拭う彼女の姿に、堪らず抱きしめてしまった。  感触なんかまるでない。目を瞑ってしまえばそこにあるのはただの空気。僅かな虚無感すら感じた。  それでも、幽子を抱きしめたかった。  辛そうに泣いてほしくなかった。  もし俺に原因があるなら、嫌われたくなかった。  守りたいと思った。  加減を間違えればこの腕はその華奢な体を虚しく通り抜けてしまう。  いるようで、いない存在。  生きてはいない。  それなのに。  抱きしめたその瞬間は、そんな彼女を好きになっていたんだと気づかされた瞬間だった。  どうかしているのはわかる。  わかるのに、気持ちを認めると、楽だった。  だが、俺のその行動は幽子には迷惑だったのか、嫌だったのか。 『帰りますっ』彼女は悲鳴じみた声を出し、飛んでいってしまった。  咄嗟に伸ばした手は彼女の腕に届いたが、掴んだところで、止めることはできなかった。
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