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「なあ、山瀬。幽子って名前に心当たりないか?」
「知らないです」
「本当に?」
「はい。心当たりはありません」
夕日は沈み室内はやや暗いが、眼鏡の奥の瞳が揺れているのは見えた。
それもそうだろう。心当たりがあるから、本人だから、冷静ではいられないんだろう。
なあ、そうだろう?君は、幽子なんだろ...?
「山瀬さ、なんでいつもマスクしてるの?」
「花粉症が...」
「...ふーん。顔を隠したいとかじゃなくて?」
「違います」
「...じゃあ、額に傷はある?」
「な、ないです」
「見せてくれないか?」
山瀬に近づくと、彼女は逃げるように後退する。
だがすぐ後ろは壁だ。逃げられないし、逃がしてたまるか。
「マスクと眼鏡、外せないか。顔を確認したいだけだ」
「できません」
「なんで」
「な、なんでって...」
あっさりと協力するとは思っていなかったが、ここまで拒否されると気が立ってくる。
ただ顔を確認したいだけだ。
幽子と同じ顔をしているのか、いないのか。
どっちを俺は望んでいるのか。同じ顔をしていて欲しいのか、違っていて欲しいのか。
自分でも答えが見出せないが、それでもただ、確認したかった。幽子と同一人物だという確固たる証拠が欲しかった。
彼女の顔を覆い隠すマスクがもどかしくて、つい剥ぎ取ろうと手を伸ばしてしまうと、山瀬はマスクを両手で押さえた。
マスクが駄目なら額の傷だ。非常口マークの傷があれば、山瀬は幽子で間違いない。だが、前髪に伸ばした手は払い除けられてしまった。
カッとなってしまって、山瀬の両手首をとり動きを封してしまった。
男として、最低だったと思う。
だが俺も、限界だったんだ。
「山瀬は...、幽子なんだろ...?」
肯定か否定か。どっちを聞きたかったのか、まだわからなかった。
だが、どっちも聞くことがないまま、山瀬は走り去ってしまった。
空気の読めない仲居さん達が来て、引戸をピシャンッと開けてきたから、その隙に逃げられてしまったのだ。
流石にこの状況では山瀬を追いかけるとことはできなかったし、年配の仲居さん達には「逢い引き中にごめんなさいねぇ。でももうちょっと場所選んだ方がいいと思いますよぉ、うふふふ」とからかわれてしまって、すっかり戦意喪失してしまった。
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