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「来見、ありがと。ほんとに助かったぁ。」
最寄りの駅に着いた。
私が折り畳みの傘を片付け終わるのを待ってから、未以子がいつもの人懐っこい笑顔とともにそう言ってきた。
私は、畳んだ折り畳み傘を持ったまま、少し上げていた右手を下ろした。
「どういたしまして。」
本当は、もう少しあのままがよかった。未以子の香りをもう少し肺に蓄えておきたかった。私達は仲が良く、距離だって近い方だとは思う。それでも、未以子が肩を抱いてくれて、それで顔がすぐそばまでくるなんて、そんなことは滅多にないのだ。
改札を抜けて階段を下ると、タイミング良く電車がやって来た。未以子の乗る電車だ。私が乗るのはプラットホームを挟んで反対側の電車だから、ここでお別れだ。
「じゃあ、また明日ね、来見。」
未以子はいつもと同じ人好きのする笑顔でそう言って、ひらひらと手を振ってくれる。いつも通りだ。何も変わらない。
「うん、また明日。」
そう口にして、私も小さく手を振り返す。いつも通りで、何も変わらない。
未以子はそのまま電車に吸い込まれて行った。私は姿が見えなくなるまで未以子を見ていた。未以子はずっと私を見て、手を振ってくれていた。
それだけで私の心は、暴れだしそうな程に嬉しくて堪らなくなる。
その後、すぐに私が乗る電車もやって来た。黙って乗って、空いている席にそっと腰をおろした。目を向けた先の窓に映るのは、薄暗い風景。地下を走る電車からは、外の様子はわからない。
予想外だったのだ。
一人の人間に、それも女の子に、こんなに心を乱されるようになるなんて。
彼女の口癖のような『だいすき』に、簡単に舞い上がって、同時に歯痒くて堪らなくなるのが日常になるなんて。
しばらく電車に揺られていると、自宅の最寄り駅に着いた。電車を降りて、改札を抜けて、階段を上がって地上に出る。
雨は上がっていた。空はまだ文句無しに曇ってはいるけど、何も落ちてはこない。
よかった。これなら、傘を持っていない未以子が濡れて帰ることはない。
折り畳み傘を畳み終わった私は、そのままそれを未以子に渡してしまおうとしていた。彼女が濡れて帰るのは、私が濡れて帰る何倍も避けるべき事態だったから。
だけど、未以子の笑顔を見て、思い留まった。
よくいる一般的な女子高生は、傘のない友人にそれを差し出し、自分が濡れて帰ることを選ぶものなのか、わからなくなったからだ。
私が男の子だったら、問題なかったのかもしれない。未以子はそんなシチュエーションの漫画を読んで、目を輝かせていたから。私が男の子だったら、もしかしたら未以子が私のことを特別に意識してくれるきっかけになったかもしれない。
そんな有り得ないシチュエーションに思いを馳せながらも、もし私が男の子だったら、ここまで未以子と仲良くはなれてなかったかもしれない、ということも、私はちゃんとわかっている。この距離感は、同性同士だからこそのものだ。
だから、きっと、これでいい。
私が自分の気持ちを上手く収めておけば、このまま未以子のそばにいられるのだから。
『だいすきよ』
口にできない言葉は、心の中だけで響かせる。
もう止んでしまった雨は、厄介で甘いこんな気持ちを、流してなんてくれないのだから。
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