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雨が降っている。日々は熱くてこれだけの雨が降っても涼しくはならないのに、それでも雨は淡々と降っていた。まださっきまではずっと青空が遠く続いていたのに今はもうそんなものも見えなくなって、急な雨に人々は慌てるばかり。未来と言える現在になっても天気には勝てないみたいだ。
僕はそんな急な雨から逃げて軒の有るバス停の待合所に逃げ込んでいた。普段はバスなんて使わないので、そこからの景色はなんだか知らない世界の様で不思議にも思える。でも、僕にとってこの場所は良く知っている所だ。
生まれてから16年家からは結構近くて、そして思い出も有る場所だった。
あれからもう2年が過ぎようとしていた。何度もあの時の事を思い出してしまう。それは雨が降る度に。
あの日も雨が降った時だった。けれど、それはもう終わった話、雨は辺りの空気を洗う様に振っただけで直ぐに止んでしまったのだった。僕は今日みたいに帰り道に雨に降られそうになって、途中の本屋に逃げ込んで難を逃れて、運が良いと思いながら家までの坂道をのんびりと自転車で走っていた。
良く有る事かもしれない。それまでだって別にこんな事は良く有った。代わり映えのしないなんて無い事の一時だったけれど、その時を忘れられない出来事にしたのはちょっとした偶然からだった。
自転車で慣れた道を走る。退屈とも言えるけれど、そんな事を気にしたりもしない。普通な日。左手に見える山からはさっきの雨水が流れていて、右手の川は元々水量が多いので年中続いている水音を響かせていた。なんでもない風景。僕にとって毎日の普通の事だった。
今、僕の事を追い越したバスだって時刻通りに走っているだけで、良くすれ違うもんだ。ちょっと排ガス臭いのにも慣れてしまっているから気にも止めない。僕は普段通りな世界を眺める事も無くて、ボーっと見ながら自転車をこいでるだけだった。
向かう方向のバス停に人が降りた事だって、気付いてない訳では無かったけれど、それさえも別段変わった事でも無い。
ただ違うのはその人が僕の事を見て居た事だけだ。
僕と同じ中学の制服を着ている女の子が、僕の方に手を振って、そして笑顔が見て取れた。その瞬間になんて事の無い世界が一変したのだった。
彼女は中学に入ってから同じクラスになって、更に2年になってもまた一緒だったので良く話す様になった人だった。その自由と言うか独特の考え方と気楽に話せるその子の事を僕はちょっとずつだけど好きになっていた所に現れた。
有り得ない所にそんな人が居て、見間違いかと思ったけれど、そう言えば彼女はこの近くのピアノ教室に通って居て、僕の家から近いから話題にした事も有った。
僕だけそんな納得をしながらも彼女の方に近付くが、これからどうしたら良いのかも解らない。停まって声を掛けるべきだろうか。それとも普通に手を振り返してそれで通り過ぎても良いのだろうか。僕には解らなかった。
僕は消極的な人間だから、この時に通り過ぎる選択をしていた。それでも間違いでは無かったのだと思う。だけどその時は違った。
あまり目の良くない僕の瞳でも、彼女の顔が良く見える程に近付いた時に、辺りが明るくなった。それまでも雨の降っていた時よりも随分明るかったのだけど、その時は雲の切れ間になって真夏の強い光が辺りを包んだ。
まだ雨が終わったばかりで空気が水分を含んでキラキラと閃いている。
そんな景色の中で笑顔を輝かせている彼女は天使の様にしか思えなかった。
僕と彼女はただのクラスメイトで話をする機会は多くても、仲良しと言うくらいでも無くて、もちろん恋人なんてものにはとても遠い存在だった。
それでも彼女はそんな知人程度の僕に満面の笑顔で手を振ってくれている。それが嬉しく、そして美しいと思ってしまった。僕は意識もしないけれど、自転車をこぐのを辞めて彼女に向かい合っていた。
見惚れてしまっている僕に彼女が笑顔で送ってくれる。ハッと話す事を探さなければと僕は思った。
「教室ってこの近くなの?」
彼女の通っているピアノ教室の場所を知らなかったので、前は話題になったのでとっさながら僕は良い思い付きを出来たとさえ思っていた。
「うん。そうだよ。この橋を渡ってすぐのところ。君の家も近く?」
彼女が笑顔で答えるとそれに質問も付けてくれていた。笑顔で手を振ってくれただけでなく、話までしてくれるなんて思わなかった。別に彼女が知らない振りをしていたら僕は彼女に気付く事も無く通り過ぎていただろうに。
「俺の家はもう一つ上の橋を渡ったところだよ」
「そうなんだ。結構近いね」
けれど僕たちの会話なんて簡単に途切れてしまった。これでは彼女を困らせてしまうと僕は思った。もうこの時には僕の恋は確かなものになっていて、彼女を困らせる事は僕自身だって許せない気分になっていたので、対策を考えるがそんなのは簡単な所に有った。
「じゃあ、時間も有るから」
どこか残念そうに彼女の方からそう言うと、僕の前で彼女は方向転換をして橋の方へ歩きだしてしまった。
僕はその時にこの時間が終わってしまうのが悲しくて、そして彼女の笑顔をもっとずっといつまでも見て居たいと思ってしまった。
だから声を掛けようとしたのだけれど、上手く声が出せなくてただボケっと彼女の遠ざかるのを眺めているだけで、その背中に手を伸ばそうとしても既に届かない所に居た。
それが僕と彼女の近付かない距離の様な気がして、さっきまでのハッピーな気分がどこかに消えてしまいそうになっていた。
ずっと眺めていた僕の事に気が付いたのか、彼女が橋のところまで辿り着くと振り返った。さっきまでの笑顔は無くて若干真剣な顔をしている。
「あたし今度…」
その彼女が何かを言おうとした時に僕達の間を車が走って、彼女の声をかき消してしまった。
「えっ? なんか言った?」
聞こえなかった僕はそう返す事しか出来なくて、彼女からの返事を待ったのだが、その彼女は一度地面を見たかと思ったら顔を上げる。
「ううん。なんでもない。じゃあね!」
また悲し気な顔をしたかと思ったら次の瞬間には彼女は、笑って手を振りながら走り出した。
僕はそんな彼女に解るように大きく手を振って帰していた。
あの時の彼女の言葉が解らないけれど、その日の僕は嬉しくって、そして彼女の事が恋しくって仕方が無かった。
それから僕は彼女にまた偶然会える事は無いかと、バス停を通る度に彼女の姿を探してしまう。時にはバスの時間を見計らってバス停を訪れる時さえ有った。
しかし、それから彼女は姿を現せる事は無かった。
夏休みが終わって学校が始まって、そこで彼女の事を知った。彼女は親の離婚で急な転校する事になったらしい。恐らくあの時には解っていて、それを伝えようと彼女は僕に話そうとしてくれたんだと思った。でも、僕はそんな事よりも彼女が居なくなった事が辛い。
やっとちゃんとした恋になったと言うのにそれから彼女に会える事は無くなってしまった。
彼女の転校は本当に急でクラスの人間はおろか、彼女の親友でもその行き先を知る者は居なくて、あの日以来僕は彼女に会える事は無くなってしまった。
こんな事ならあの時にたどたどしくても彼女に思い切って想いを伝えていれば良かった。あの時の彼女の言葉をちゃんと聞き直して居れば良かった。悲しそうな顔をした彼女の事を追えば良かった。
どんなに考えたところで僕に出来る事なんてもうなにも無かった。
彼女が居なくなったと知った日、雨が降っていたけれど、それはもうあの夏の雨では無くていつまでも降り止まない、僕の心の中の様に冷たかった。
あれからの2年間、僕は恋と言うものをしなかった。違うのかもしれない。彼女への恋がまだ続いている。
キライになっても無いし、嫌われた訳でも無いのだから、勝手に終わりになんてなってくれない。僕にとっては一番美しい人だったのだからずっと、ずーっと彼女の事が頭から離れない。
こんな風に雨宿りをしている今だって彼女の笑顔が、この雨の向こうの橋の所に有る様な気がしていた。幻影だとは解っているけれど、そんな彼女の所に僕は走り出して捕まえたいとさえ思っているけど、そんな事が叶わないのだって解っている。
僕はまたこの暑いくらいの雨が止むのをただ、僕だけで待っていた。
段々と空が明るくなって雨脚が少し弱まり始めた。
バス停の軒から顔を出して空を見上げた時だった。僕の方にバスが向かってくる。
運転手が僕の方を見て居るので客では無いと言う意味で手を振った。しかし、バスは僕の前で止まると降り口が開いた。
単純に降りる客が居たからだと思った僕は、このバスが居なくなったら家に帰ろうと思っていた。まだ雨は降っているけれどこのくらいなら気にするほどでは無いくらいになっていた。
少々煩いエンジン音を響かせてバスが坂道を登ってゆく。雨で綺麗になった空気に排ガスが混ざって、あの時の事を痛く僕に思い出させていた。
そんな過去の傷を気にしない様にして僕は軒から出ようとした時に横に居た人間に目が止まった。
それはさっきバスから降りて来た人だった。
僕と同じ様に軒から顔を出して空を見上げている。
しかし、僕はその人に見覚えが有った。それはずっと探して待っていた人だったから。
あの時の彼女がそこには居た。状況が似すぎているから、あまりに恋しくて僕が幻想を作り出しているだけかとも思ったけれど、それでも良い。僕はそう思って彼女の事を見続けていた。
空を見て一瞬考えた彼女が僕と同じ様に、このくらいの雨ならと思ったのだろう、バス停から進み出ようとした。やっとその時になって彼女が僕の方を振り向いた。
彼女は存分に驚いた顔をして、その次の瞬間一度顔を隠した。でも、それは一瞬の事で直ぐに昔の笑顔がそこに現れた。
「久し振りだね」
幻では無くてやはり彼女本人だった。ちょっとあの頃よりも幼さは無くなっている印象は有ったけれど、その僕の一番好きな笑顔は健在だった。
「どうして居るの?」
そりゃ、あの頃から全然会っても無い人に偶然有ったのだからこんな言葉になってしまう。驚きは十分に彼女にも伝わっていた様で、彼女はケラケラと楽しそうに笑い始めた。
「ちょっとピアノで賞を取ったから昔の先生にお礼を言いに来たんだよ。君が居るんだもん驚いたのはこっちだよ」
その話し方も昔の通りであの別れの日が昨日だった様にさえ思える。
「そうなんだ。なんにも言わないで居なくなっちゃったから心配したんだからな」
ちょっとだけ怒りたい僕も居たからこんな言葉を吐いているが、それに対して彼女は笑顔を保っている。
「話そうとはしたんだよ。それに」
その時にまた車が僕達の横を通り過ぎた。
「コレだよ」
呆れた様な彼女の言葉が有って、僕達は道の方を向いて笑った。
すると、そこにはもう雨が降ってなくて夏の日差しが空気を煌めかせていた。だから僕達は二人共黙って懐かしい、あの頃に戻っていた。
けれど、いつまでもあの頃の僕じゃない伝えないと駄目な事を伝えないで居るのがどれ程に辛い事かを知っていた。
「俺、君の事が好きなんだ」
ポツリと呟く様に言っただけなのに、次から次へと言葉が雨の様に続いた。
「あの日の君の笑顔が忘れられなくて、君を好きな想いが消えなくて」
きっと今の僕は泣いているのだろう。なんだか格好悪いけれど、そんなのも僕だから彼女の方を見てちゃんと伝えようと思った。
けれど、振り返った時に見えた彼女は涙を流していた。もう止んだはずの雨なのに地面にポツリポツリと水滴が落ちていた。
「それ、あの時、あたしが言った事だよ」
今の彼女は涙の雨を降らせながらニッコリと笑ってそんな風に返していた。
おわり
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