第四話「凝固」

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 数日後……  赤務(あかむ)市、美須賀(みすか)大学付属高校。  エリーの臨時講師の仕事は、惜しまれつつも終わりをむかえた。水難事故で大けがを負ったという倉糸壮馬(くらいとそうま)が、正規の英語教師として教壇に復帰したのだ。魅惑にあふれたエリーの授業も、とくに男子の諸君にはたいへんな人気だったが……  それでも女子高生に擬装(カモフラージュ)したエリーの潜入・監視等の任務はまだ継続中だ。  いつしか彼女は、女子高生の制服の着心地がひそかなお気に入りだった。いまはひとりの生徒として教室へ通い、気楽な学生生活を送っている。  ほんのささいな変化でも、人間はつまらない勘違いを起こすものらしい。外見年齢を本来の中高生のままに固定することで、エリーはさりげなく教室に紛れ込んだ。異動したエリザベート先生とは、名前がそっくりなだけの別人物ということで通用している。たまたまこの〝ふたり〟が片目をわずらって眼帯をしているのもただの偶然だ。  留学生とされるエリーは、宿命的に漢字の読み書きが苦手だった。休憩時間に入ってすら、教科書を前にうなっている。 「むむむ、(ひらめ)? (さば)? (いわし)? わからん。書き方の見分けがつかぬ。こんなのがテストで出てきおったらピンチじゃぞ。ああ、教室は深い海の底に見え、嘲弄する魚どもが眼前を舞い踊っておるわ……」  立てた参考書に隠れるように、エリーは机に突っ伏して降参した。そんな困り果てたエリーに、心配げに声をかけた生徒がいる。  同じクラスの井踊静良(いおどせら)だ。 「どこで詰まってるんだい?」 「魚、じゃ……まさしく喉に小骨がつっかえたように苦しいわい」 「魚編か。テストに出てくるレベルの漢字なら、こうすれば覚えられるよ」  身振り手振りで、セラは泳ぐように説明した。 「ヒラメは平べったいから(ひらめ)。サバは青っぽい色だから(さば)。イワシは水揚げされたらすぐに弱るから(いわし)。こんなふうに、魚編には魚々の特徴が現れてるわけだね」 「ははあ、わかりやすいぞよ。どこで習ったんじゃ?」 「習ったというよりかは、よく料理をするから自然と覚えたよ。エリーも無理に書き順を覚えなくとも、まずは携帯のネットかなにかで魚そのものの写真を見てみたらいい」 「ふむ、なんだか自信が湧いてきた。ちなみに魚をさばけるのか、うぬは。才色兼備じゃのう。これは夫になる相手は幸せ者じゃわい」 「夫……」  かすかに紅潮した頬を、セラは両手で隠してみせた。いたずらっぽくにやついて、追求したのはエリーだ。 「さてはもう、将来を誓いあった相手がおるんじゃな? どの生徒じゃ? 秘密にするから言うてみい?」 「やだやだ」 「ふふ、照れるところがまた可愛いの。ほれ、さっさと吐いて楽になれ」 「ひ、ヒントだけだよ。さあエリー、この漢字を読んでみて」  セラはエリーのノートに、ちょっとあわてて魚編の漢字を書き込んだ。  鰤。  顔をゆがめて、ふたたびエリーは押し黙った。 「よ、読めん……」  放課後。  夕暮れをむかえた理科室で、エリーたちは掃除当番にあたった。薄暗い部屋をいっしょにモップで掃くのは、別のクラスの染夜名琴(しみやなこと)だ。かけたメガネのせいかとても安穏な人物に見える彼女は、まじめに清掃に取り組んでいる。  いっぽうのエリーはといえば、関係のない取り組みに夢中だった。天井付けのテレビをこっそり点け、大相撲の生中継に見入っているではないか。 「お、そこじゃ。あ、いかん。よ、寄り倒し。また負けた……」  不良生徒を咎めるように、校内放送がかかったのはそのときだった。 〈クタートさん。エリザベート・クタートさん。至急、生徒指導室までお越しください〉  男性教師と思われる放送の声は、どこか冷たい錆を帯びていた。  不機嫌げに壁のスピーカーをにらむエリーに、たどたどしく尋ねたのはナコトだ。 「あの、あのあの、エリーさん。生徒指導室に呼ばれるなんて、なにか悪いことでもしたんですか?」 「解せぬ……」 「か、顔が怖いですよ。はやく行かなきゃ怒られるんじゃ?」 「わかっておる。すまんがナコト、掃除は頼んだぞ。大一番に水を差したこの苛立ち、しかと発散してくれる」 「せ、先生に張り手しちゃったらダメですからね?」  ややあって、エリーは生徒指導室をおとずれた。  スーツをしっかり着こなした長身の青年は、銀縁眼鏡の奥から物静かに窓の夜気を横目にしている。英語教師の倉糸壮馬(くらいとそうま)だ。  じつは彼自身も、教師に扮した組織(ファイア)捜査官(エージェント)にほかならない。その証拠に、手首に輝くのはエリーと同じ銀色の腕時計である。  窓際で振り返りもしないソーマへ、エリーはぶっきらぼうに問うた。 「いったいなんの用じゃ、〝竜巻の断層(トルネンブラ)〟。立ち合いで忙しいっちゅうのに?」 「緊急の任務だ」  ソーマのかざした腕時計から、いきなり空中へ情報が投影された。  映し出されたのは、標的とおぼしき対象の現在の動きだ。見たところ、どこかの高速道路にそなわった防犯カメラの映像を拾っているらしい。  霜の張った刃のような口調で、ソーマは告げた。 「デクスター伯爵チャールズ・ウォードが美樽(びたる)山の基地を脱走した。進路上で破壊工作を重ねながら、いまだ逃亡中だ」 「なにィ?」  反射的に握りしめられたエリーの拳は、骨の鳴る軋みをもらした。 「いったいどうやって? 研究所の警備(セキュリティ)はザルかえ?」 「現時点では方法はわからない。正体不明の何者かが、この吸血鬼に新たな力を授けたとの組織の見解だ。現に交戦したタイプ(ソード)とタイプ(パーティション)は、デクスター伯爵の未知の能力によって機能不全に陥っている」 「あの凄腕のミコとパーテが?」  エリーが驚きに目を剥くのも無理はなかった。  ましてや知ろうはずがない。あのカレイドと仕事を分担したとある存在が、過去の契約をきっちり果たしたことなど。  我知らず片目の眼帯をいじりながら、エリーは聞いた。 「あの二機を倒してのけた化物を、わらわ単独で追えと?」 「うってつけの任務だろう、吸血鬼ハンターのきみに」 「うぬらは指をくわえて見ておるだけかや?」 「私はここで追跡の指揮を、〝黒の手(ミイヴルス)〟は情報の収集と整理を命じられている。まあ、きみが行かないのなら」  片手はポケットに差したまま、ソーマは無表情に続けた。 「きみが行かないのなら、代わりはいる。現在、ターゲットのもっとも近くにいる戦闘員(ユニット)は……そうだな、結果使い(エフェクター)井踊静良(いおどせら)あたりが適任だ」 「ほんとうに人の血が通っておるのか、うぬには?」  地団駄を踏んで呪詛を吐くと、エリーは言い放った。 「もうよい、わらわが行く。まだまだ魚編の漢字を教えてもらわにゃならんしな。足は?」  ソーマは背中で答えた。 「駐車場だ。車番は……」  ソーマの案内どおり、エリーは学校裏の駐車場へ急いだ。  暗くなった駐車場には一台、無骨な大型ランドクルーザーが停まっている。あらかじめソーマに知らされた組織のナンバーだ。  すでにドアを開かれた乗用車へ、エリーはすみやかに乗り込んだ。  広いはずの車内はなぜか二人乗りで、後方には外向きに二台のレーシングバイクが埋まるように積載されている。組織の車がただの乗用なわけはない。完全な戦闘用だ。それもエリー専用の。  乱暴にドアを叩き閉め、エリーは助手席から運転手の足を蹴った。 「おら、来たぞ。とっとと出せい、エド」 「はいはい」  運転席の凛々橋恵渡(りりはしえど)は、さっそくハンドルを握ってアクセルを踏んだ。大きな車輪の擦過音に混じり、かんだかい音を響かせて車内のあらゆるセンサーが点灯する。運転地図(カーナビゲーション)に勢いよく穿たれたのは、獲物の現在位置だ。  国も取り締まれない治外法権の速度で車を走らせながら、エドはささやいた。 「しっかりつかまってて。高速道路で〝切り離す〟からね?」 「承知した」  戦闘車両が井須磨(いすま)海岸ぞいの幹線道路に差し掛かったとき、事件は起きた。  おお。前方の一般車が目まいでも起こしたようにふらつき、手近な別の車に激突したではないか。木の葉のごとく舞って接近した事故車両を、エドは人型自律兵器(マタドールシステム)ならではの正確なハンドルさばきで回避している。 「ぬうッ!?」  にわかには信じがたいものを目撃し、エリーはうめいた。  どう説明したものだろう。見覚えのあるその吸血鬼は、ガソリンタンクに噛みついて。車を吸っては、吸血鬼はまた新たな車両へと飛び移っている。常人の動体視力をはるかに超えるスピードで、かつこの見通しの悪い暗闇だ。ふつうの運転手の目には、居眠りや酔っ払い運転の引き起こした玉突き事故としか見えまい。  エリーだけは事の真相を把握し、呆れ返った。 「なんとまあ、デクスター伯爵め……つぎつぎと機械の血を吸い、呪いの下僕に変えておる。無敵のマタドールどもが、たまらず取り逃がしたのも納得じゃ。あれはいわば、うぬらアンドロイドを専門的に餌食にする吸血鬼。これはさすがに分が悪い。以前に戦りあったときには、たしかにあんな稀有な能力はなかった」  エリーの推理に顔を青くし、となりのエドはうなずいた。 「でしょでしょ? いやァ、思ってもみなかった。まさか機械の体になってまで、吸血鬼の脅威に怯えることになるとは」 「よかろう」  意を決して、エリーは後部座席へ乗り移った。事前にそこへ埋め込まれた二台の特製バイクのうち、片方を選んでシートにまたがる。きめ細やかな髪をひと払いするや、彼女がかぶったのは多機能防護ヘルメットだ。理路整然とメット内に浮上(ポップアップ)した情報の数々を、切れ長の瞳がくまなく照り返す。  まくれあがったエリーの唇から、獰猛な輝きがのぞいた。 「吸血鬼の血とはいえ今回は少々、アルコールがきつそうじゃな」  たえまなくハンドルを切るエドの声は、無線通信に切り換わってヘルメットの耳へ反響した。 〈マークⅣでいくの? 追加装備なしのスピード特化型だよ? 重装備のマークⅢに乗ってったほうがいいんじゃ?〉 「いらぬ」  エリーは手短に切り捨てた。腰のホルスターに差したタイプ02(オーツー)の感触を確かめる。 「わらわにはこれ一振りで十分じゃ。切り離しの準備を」 〈了解、気をつけて。カウント3でいくよ。3、2、1……〉  返事といっしょに、エドは運転席の操作盤に指を走らせた。  稼働音をつれて展開した天井から、エリーに降り注いだのは青白い月光だ。続けざまに人事不省になって突っ込んでくる車たちを避け、大型ランドクルーザーの後尾が変形したのである。  轟音と火花を散らして戦闘車から飛び出したのは、ミサイルめいた形状をしたレーシングバイク〝血晶呪(ナイハーゴ)マークⅣ〟だった。  白煙を放って濃いスリップ痕を刻むや、バイクは猛スピードで疾走している。車の燃料を吸っては離れるデクスター伯爵めがけて。  蜘蛛のように自動車の天井にしがみついたまま、吸血鬼はまぶしげに手をかざした。高速で流れる眼下を、紫外線の含まれたバイクの投光が切り裂いたのだ。同時に、激しく制服をはためかせる騎手(レーサー)のエリーとも視線があう。  エリーはデクスター伯爵を見返していた。強い眼差しだ。  記憶に新しい特徴的な独眼に、吸血鬼は動揺した。突風に乱されて聞こえない声で叫ぶ。 「またか! またきさまか! 見えるのか、我の姿が!?」  エリーは冷静に答えた。 「ああ、はっきりとな」  乱ぐい歯の先端からガソリンの糸をたらしつつ、デクスター伯爵は吼えた。 「きさまはいったいなんなんだ!?」 「エリザベート・クタート」  エリーの手は、腰のタイプ02(オーツー)を引き抜いた。そのまま長剣の骨格へ変形。ずらされた眼帯からこぼれ落ちた生き血が、そこに鋭い刃を形造る。紅蓮の欠片をまとって高速回転を開始した〝血刀(ペンジ)〟を横一直線に構え、エリーは改めて自己紹介した。 「わらわは逆吸血鬼(ザトレータ)……吸血鬼の血を吸う、吸血鬼じゃ」  足場を蹴って襲った吸血鬼を、バイクから跳躍したエリーの刃が迎え撃った。  エリーは帰ってくる…… 【スウィートカース・シリーズ続編はこちら】 https://estar.jp/users/479808250
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