第一話「脈動」

3/10
前へ
/29ページ
次へ
 場面は戻り、現在……  日没。  美樽(びたる)山は、赤務(あかむ)市から簡単に行くことができた。  手つかずの自然に包まれたそこは、一見するとただの山だ。シーズンともなれば登山客や昆虫採取、写真家や天体観測、山菜採りや川釣り等でそれなりににぎわう。また山頂付近から一望できる夜の街のきらめきは、若い男女の恋語りの背景としても申し分ない。  なので、人々には知るよしもないだろう。  巧妙に樹木に擬態した多機能センサーが、山中にくまなく配置されていることを。そこかしこの樹々に埋め込まれた高精度の監視カメラの存在を。それらと連動する最新鋭の見えないトラップの数々が、森林のあらゆる場所で出番を待っていることを。  そう。  美樽(びたる)山は政府の闇・特殊情報捜査執行局(とくしゅじょうほうそうさしっこうきょく)組織(ファイア)〟のほこる超大型の秘密基地なのだ。その構造は、地上と地下をあわせて数千階層にまでおよぶ。  研究所の奥部、とある場所に彼女のひそむ部屋はあった。  室内には庶民的なOLらしい家具やパソコン類が用意され、いまは明かりは落とされて暗い。ただし一点だけ……一点だけ、通常の暮らしとは異なるものがあった。  本来はベッドが置かれているであろう場所に、それは静かに安置されている。  洋風の〝棺桶(かんおけ)〟が。  部屋の扉がノックされたのは、そのときだった。 「エリー? エリザベート・クタート?」  廊下からの呼び声は、若い男のものだった。  室内から返事はない。  数秒待って、部屋の扉はそっと開けられた。さしこむ照明とともに、来客は入ってくる。 「失礼するぜ」  ぱちんと部屋の電気をつけたのは、組織の捜査官……褪奈英人(あせなひでと)だった。  潜入捜査の擬装(カモフラージュ)である学校の帰りのため、その格好は美須賀(みすか)大学付属高校の制服のままだ。見た目はまだ少年だが、その身がまとう独特の雰囲気にはかけらも油断はない。それは、驚くべき数の戦場を駆け抜けてきた兵士のオーラとも例えられる。  不吉な棺桶をながめ、ヒデトは独りごちた。 「閉まってるな、フタ。中身は?」  歩み寄った棺桶のフタを、ヒデトは軽くノックした。 「もしも~し。いるんだろ、エリー?」  やはり棺桶は無言だった。 「まいったな。ふたりっきりで会議なんてイヤだぜ、あんなサイコ野郎と」  眉根を寄せると、ヒデトは左手首の銀色の腕時計をもたげた。時計表面のパネルを手慣れた動きで操作する。選んだのは〝通信〟の機能だ。  おお。かすかな着信音は、棺桶の中から響いたではないか。  いまいましげに、ヒデトは舌打ちした。 「いるんじゃねえかよ、寝坊助が!」  重い打撃音がこだました。頭にきて、ヒデトが棺桶を蹴ったのだ。  ふつうなら怒ってなにかが飛び出してきてもおかしくないが、まだ応答はない。 「けッ」  しかたなく、ヒデトは部屋のイスに座った。  通学カバンから取り出したのは、ポテトチップスの袋だ。騒々しくそれを開封し、おもむろに食べ始める。風味は大蒜(ガーリック)だった。部屋の静寂に、ぱりぱりいう音だけがやたらと大きく響く。  なんとついに、棺桶はしゃべった。 〈くさい……〉  たえまなく口を動かしながら、ヒデトはしてやったりと笑った。 「だろうな。吸血鬼の弱点は十字架と陽の光、そしてこのニンニクだ」  地獄から這いずりでるような声色で、棺桶はうなった。 〈なぜわらわの神聖なる憩いを邪魔するのじゃ、〝黒の手(ミイヴルス)褪奈英人(あせなひでと)よ?〉  コードネームで呼ばれたヒデトは、ポテチの袋に手を突っ込んだままジト目になった。 「邪魔じゃねえ。手伝いにきたんだよ、あんたのお目覚めを。もう夕方だぜ?」 〈まだ夕方か。吸血鬼の活動時間は夜と決まっておる。完全に日が暮れるまで、一時間ばかり待つがよい〉  ぶぜんとヒデトは肩をすくめた。 「ヤだね。だいたいあんた、太陽を浴びても平気だろ。三分で起きな」 〈早朝から夕刻にかけては憂鬱なのじゃ。自律神経が弱くての。もう三十分寝かせろ〉  残ったポテチのかけらを、ヒデトは一気に袋から口へ流し込んだ。 「とっととタイムカードを切らないと、遅刻扱いになる。給料と血の量に響くぜ。五分だけ待つ」 〈かわりに切っといてくれ、タイムカード。あと十五分休ませい〉  カラになったポテチの袋を丸めながら、いよいよヒデトは行動にでた。  きれいに拭いた手で、机上のインターネット無線機(ルーター)の電源を切ったのだ。  およそ三十秒後、棺桶のフタは乱暴に蹴り開けられた。予想どおりである。  怒りの表情で身を起こしたのは、片目を眼帯でおおう少女だった。思わず息を飲むほどに、その相貌は青白くて美しい。透けるぐらい薄手の寝間着に包まれた肢体にもまた、よくメリハリがきいて異性、いや同性すらが蠱惑されることだろう。  そんな吸血鬼のお手本そのものの彼女が、目覚めるなり放った第一声はこうだ。 「くそ! 動画の通信が切れた! どうなっておる!?」  形の整ったその両耳から、勢いよく抜け飛んだのはイヤホンだ。いきなり室内の電波を断たれ、棺桶の中で観賞していたテレビが見れなくなったらしい。  にこやかにヒデトは出迎えた。 「おはようさん、エリー。どんないい夢見てたんだい?」  動画のフリーズしたタブレット端末をぶんぶん振りながら、エリーことエリザベート・クタートは怒鳴った。 「決まっておろう! 大相撲の生中継じゃ! 注目の大一番じゃったのに!」  机に片肘をつき、ヒデトは落胆したため息をもらした。 「角界ときたか。西欧生まれのオシャレな吸血鬼さまが、汗臭い力士と力士の突っ張りあいだって? 崩れるぜ、イメージが……」 「あ! その電源!」  かんかんになって、エリーはヒデトに詰め寄った。八重歯というにはあまりに尖りすぎた輝きを狂暴に剥き、ヒデトの胸を人差し指で小突く。 「うぬのしわざか〝黒の手(ミイヴルス)〟!」 「怒るな怒るな。あとで録画を見りゃいいじゃんよ」  両手で温度を下げるお願いをするヒデトを前に、エリーは憤然と腕組みした。 「わかっとらんな。血と動画は生が一番なんじゃ。どけ、機械室からドリルを借りてくる」 「ど、ドリル? なにするつもりだ?」 「工事じゃ。棺桶に穴をあけ、寝床まで有線ケーブルを引き込む。これで電波切れに悩まされずにすむわい」 「穴、って……」  軽くお手上げして、ヒデトは困ったように首を振った。 「穴があいてて良いものなのかよ、吸血鬼の棺桶って? さっき神聖とかなんとか言ってなかったか?」 「多少は我慢する。ネットのほうが優先じゃ」  眼帯がない側の独眼で、エリーは通せんぼするヒデトをにらんだ。 「邪魔するなら、うぬのカボチャ頭に風穴をぶち開けるぞ?」
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

71人が本棚に入れています
本棚に追加