第一話「脈動」

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第一話「脈動」

 人々が寝静まった真夜中……  ここは赤務(あかむ)市、蛇日(だにち)町。  町の総人口は少なく、山に面しているため緑も多い。ふもとのスーパーまで、車を使ってもだいたい二時間はかかる。いわゆる田舎だ。  そんなまばらな民家のうちの一軒を、古代の恐怖は人知れず襲った。 「ぷはァ」  暗闇に満足げな吐息を放ち、唇の血をぬぐった彼は何者だろう。手放された獲物の人間は、完全な貧血におちいって床で痙攣している。  血を失って土気色になった住人の首筋、うがたれるのは醜い〝牙〟のあとだ。加害者の男の口もとで輝く犬歯は、哺乳類にしてはやけに長く鋭い。  男のまとった古めかしいマントと燕尾服……  その瞳がはなつ血のような赤光……  この出で立ち、彼はまさか……  デクスター伯爵の前に、足音もなく集まった人影がある。別の部屋で、不幸な獲物の生き血を吸ったサイダムとリーガンだ。霧のような声で、三名はささやきあった。 「もう一階にエサはいない」 「残るは二階か」 「たしかに匂うぞ。若い女のかぐわしい香りが」  下卑た笑いをかわすと、男たちはいっせいにばらけた。  そう、分解したのだ。おびただしい数の真っ黒なコウモリへ。コウモリどもは歓喜の鳴き声をひいて、民家の階段を駆け登っていく。  わずかに開いた扉の隙間から、コウモリの群れは二階の寝室へ忍び込んだ。 「いた」  ベッドで眠るのは、ひとりの少女だった。  月明かりに照らされたその顔立ちは想像以上に美しいが、少女の片目には眼帯が着けられている。ものもらいにでも罹っているのだろう。階下で家族に降りかかった惨劇にも気づかず、彼女はただ静かに寝息を漏らすだけだ。  あっという間にコウモリたちは集結し、それぞれ男の姿に戻った。上等なご馳走を取り囲み、男たちはいやらしいニヤつきを浮かべている。  あわれな獲物の頭上で、三人は無言でじゃんけんした。  勝ったのはリーガンだ。  ガッツポーズに両腕をあげるリーガンへ、デクスター伯爵は念押しした。 「ひとりで吸い尽くすんじゃないぞ。平等に、きちんと三等分だ」 「げひひ、わかってやすって」  うまそうな少女の芳香に耐えきれず、リーガンは血なまぐさいヨダレをシーツにこぼしている。少女の首筋めがけて牙をむき出しにし、リーガンはつぶやいた。 「お初をいただきやす」  生々しい響きがこだました。少女の素肌に、リーガンが噛みついたのだ。  待ち遠しげに、デクスター伯爵とサイダムは貧乏ゆすりした。背徳の情景が繰り広げられる中、壁かけ時計の秒針だけが孤独に音を刻む。  よほどじっくり味わうほどの旨さなのだろう。呪われた〝吸血〟行為はまだ終わらない。  いいかげんシビれをきらし、デクスター伯爵はリーガンの肩に手をおいた。 「おい、後がつかえているぞ。三分の一はとっくに吸ったろう。譲り合いだ」  そこでようやく、デクスター伯爵はその〝異常〟を知った。  少女の血をすすっているはずのリーガンの肌が、なぜか古い新聞紙のように渇いているではないか。  怪訝な面持ちになったデクスター伯爵の眼前で、リーガンはそのまま力なく床にくずおれている。  残った二名は、飛び上がることになった。  失血死も寸前なはずの少女が、はっきりと言葉をつむいだのだ。 「わらわは遠慮せん主義での。三分の一どころか、九割五分は吸い返してやったわい」  声色こそ若いが、少女の口調は百歳超えの高齢者のように年老いている。  すばやく飛び離れた男たちの前で、眼帯の少女はベッドから半身を起こした。  男たち同様、少女の顔は夜目にも青白い。寝間着姿のまま、少女はよく通る声で告げた。 「デクスター伯爵チャールズ・ウォード。うぬを十三件の殺人および血液強奪の容疑で逮捕する」 「なに!? なぜ我が名を!?」  少女の手首にきらりと輝いたのは、無骨な銀色の腕時計だ。  通信、盗聴、投影、自爆、その他数えきれない機能を備えたその独特の猟犬の首輪のことを、デクスター伯爵もうわさには聞いている。動揺に震える指で少女をしめし、デクスター伯爵は大声をあげた。 「その時計は、特殊情報捜査執行局〝ファイア〟……小娘、きさま政府の捜査官(イヌ)か!」 「さよう。わらわは……」  えらそうに名乗ろうとしたのが、少女の命取りだった。  気づいたときには、サイダムは(あぎと)を剥いて少女に飛びかかっている。野生のチーターの速度をゆうに超え、ヒグマの怪力をほこる〝夜の眷属〟の攻撃だ。さっきのリーガンがどんな手品で倒れたかは、いまはどうでもいい。繊細な少女の体は、かよわい小ネズミのごとく引き裂かれ……  強い衝撃とともに、サイダムは止まった。  目にも留まらぬ少女の回し蹴りが、サイダムの腹腔を直撃したのだ。  同時に、なんだろう。常識離れした脚力で宙に浮かされたサイダムの体からは、少女の爪先めがけてなにかの脈打つ音が連続している。  おお。リーガンに準じ、サイダムの顔までもが急速に干からびていくではないか。  デクスター伯爵は、戦慄のうめきを漏らした。 「そんな、そんな馬鹿な……我らの血を飲んでいるのか、きさま?」  そう。さいしょのリーガンは噛みついた牙から逆に、サイダムは少女の刺した足から血液を吸われている。ほとんどの水分を喪失して気絶したサイダムは、かたわらに蹴り捨てられて本棚を崩した。  口を隠して、軽いげっぷをこぼしたのは少女だ。 「うむ、美味い」  そう評すると、少女は親指で床を指さした。 「ちなみに階下で失神している者どもも、組織(ファイア)捜査官(エージェント)じゃ。耳をそろえて返してもらうぞ、盗った血液を」 「くそ!」  とっさに逃げようとしたデクスター伯爵だが、もう遅い。後ろ手に、少女は退路の扉にカギをかけてしまっている。ぶち破ろうとした窓側にも、少女は胡蝶のごとき足運びで事前に立ちふさがった。  あの伝説の怪物を、みずからといっしょに個室へ監禁する存在……  失禁しそうになるのを自尊心だけでこらえながら、デクスター伯爵は誰何(すいか)した。 「我らの血を吸うとは、きさまいったい何者だ!?」 「わらわのエサじゃ、うぬらは」  悪魔より邪悪な笑みを浮かべ、少女は問うた。 「想像したことはないかえ? 人間は豚や野菜を食べる。その人間の血を、うぬら吸血鬼は食す。ならば、その吸血鬼の血を吸って栄養源にする〝魔物〟もいるのでは、と?」 「う、ううう……」  もともと色味の悪い顔を、デクスター伯爵はなお青ざめさせた。その視線の先、少女はおもむろに片目の眼帯をずらしている。  眼帯は、おそるべき血の門を閉ざす封印に他ならない。  現れた真っ赤な瞳から、ひとりでに滴り落ちたのはまとまった量の鮮血だ。少女の手もとで生あるもののごとく蠢いた不吉なそれは、ある形態をとって硬化する。  すなわち、血でできた優美な長剣の姿に。  真紅の刃を上段に構えながら、少女は言い放った。 「わらわは〝逆吸血鬼(ザトレータ)〟……吸血鬼の血を吸う、吸血鬼じゃ」 「ひィ! たた助け……!」  吸血鬼(ヴァンパイア)の恐怖の悲鳴は、鋭い風音に断たれた。
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