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水の中から助け上げてくれたのは朔薇さん。篠さんの幼馴染。
「…好きだったんだね…」
と言った。
好き…。
そのひと言を握りしめると、思い出さずにはいられなかった。
思い出すという過去。
もう何も新しい時間は生まれては来ない。
息苦しくて、思い出したくはなくて、また、この地を訪れた。
チケット売場の窓口横に「従業員募集」の貼紙。
仕事を辞め、空虚な時間を持て余していた俺を待っていてくれたのじゃないかと思ったが、朔薇さんは「お断りします」と即答だった。
その日から毎日、チケットを買って洞へ入った。
薄暗く続く湿潤な洞の中は、昨日と一昨日と、それよりずっと前と、少しも変わらないようにも思えたけれど、水は絶えず岩肌を伝い流れ、日々新しく生み出される。悠久の時の造形。
雫が落下する音、水琴窟の中で聞く音色も、匂いも刹那。
俺だけが立ち止まっていた。
そして、通い詰めて半月も過ぎたある日。
窓口で他の客に言うのと同じに、
「いらっしゃいませ。ありがとうございます。お気をつけて」
と言っていた朔薇さんが「大人一枚」には応えず、いきなり
「履歴書下さい」と言った。
「毎日、百合子さんが出て来るまで心配で仕事が手につきません。営業妨害です」
と、少し怒ったように言った。
そうして、俺は此処で働かせて貰うことになった。
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