水の旅路

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市内のウィークリーに宿泊していると言うと、嫌でなければ住み込みでも構わないと言われ、即座に頭を下げた。 仕事は「天ノ龍神ケ洞」に関わる全てだったが、日々の数字にキリキリすることも、次へ次へと企画に頭を抱えることもない。 チケット販売も案内も機械操作も、正確さが全て。出入りの人数チェックが厳格なこと以外は、それ程難しいことはなかった。手が空けば掃除から買い物、雑用事は進んでやった。 忙しいには違いなかったけれど、以前の忙しさとは全く別の感覚。 時間が止まっているのじゃないかと思うほどに、何もかもがゆったり感じられた。 そして、密閉された空間の事務所ても売場でもない、自然の中に身を置いていると、否応なく空を見上げることが多くなった。 早朝、本宮まで山を上る。 天ヶ原を一望。 薄っすらと雪を被り凍えて眠る山。 龍神のために咲く美しい山桜。 眩しいほどの新緑。 先取りの偽物ではない季節を呼吸する。 一人で。 見渡し、仰ぎ見る空の高みから、 「純」と 俺を呼ぶ声が降って来るような… 差し出した手を引き上げてくれるような… そんな気がした。 空から… 空へと… もう此処には存在しないことは充分わかっていた。 耳の奥の声も伸ばした掌も幻を掴んでいる。 それでも尚、想いは張り付いたまま、断ち切ることが出来ないのは何故。 今迄、こんなに誰かを強く想ったことはない。しかも男にだ。 「篠さん…なんとか言って下さい」 「そんなことは自分で考えろ」 きっとそう言うに違いない。
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