夏の記憶

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夏の記憶

 「じゃーねー! また明日!」  帰りのホームルームが終わると、誰にともなく挨拶をして、僕は校舎の裏庭の木にダッシュする。 小学三年生の下校時間はまだ陽が高く、昇降口からのたったこれだけの距離でもお気に入りの赤いシャツは汗でびしょ濡れ。 両膝に手をつき呼吸を整える。肩を大きく上下させているせいで、黒く伸びた地面の僕が怪物みたいに見える。ボタボタと額から落ちる滴が、夕立のそれのようでハッと我にかえる。  急がないと夕立が来ちゃう!  僕はランドセルを背中から剥がすと、勢いのままアスファルトの地面に放り投げた。地面に浮いた砂がザリっと音を立てた。 僕は焦る気を荒い呼吸で制しながら、ユリノキの枝を下から覗いた。目を凝らして見れば見るほど息が上がって、息づかいの声がうるさい。  顔を伝って首に流れ出る汗を、お気に入りの赤いシャツの裾で乱暴に拭う。  「いた!」  手前の太い枝より少し上に伸びた細い枝に、蜜を求めて這い出したクワガタが二匹、そのオアシスで至福の時を過ごしている。 僕は思い切り振りかぶって、ユリノキに渾身の蹴りを入れる。せーの!  いち、に、さん、、、、、はち、く、じゅう!  五回目で数匹のカナブンが飛び去った。でも十回蹴っても目当てのクワガタは落ちてこない。  よし! じゃあもう一回! せー、、、  せーの、と体勢を整えいざ!というその時、少し遠くでゴロゴロと雷が聞こえた。  まずい、来る。  諦めきれない僕は、あと五回だけユリノキを蹴ってみたけれど、やっぱりクワガタは落ちてこない。今日は仕方ない、降ってくる前に早く帰ろう。僕は急いでランドセルを拾い、表面に付いた砂を手で払った。  校門に向かう途中、風がビュウっと音を立てる。校庭の桜の葉がザワザワと波立つ。向かいのテニスコートのトチノキからは、一斉に蝉が飛び立った。  ここから僕の家まで歩いて十五分。走れば十分。僕は一つ大きく息を吐くと、家をめがけて走り出した。  通りに出てすぐのバス停で、白い帽子のお婆さんが今日も野良猫を撫でている。茶色のぶちがある方の耳をぴくぴくさせて、野良猫は気持ちよさそうにねむっている。  「こんにちは。お婆さん、雨くるよ!」  僕は走る脚を少しだけ緩めて声をかけた。でもお婆さんは知らんぷり。にこにこと微笑みながら野良猫に話しかけている。挨拶しても返事が無いのはいつものことだ。  お婆さんのいるバス停は屋根があるから大丈夫かなと思い、僕はまた全力で走り出す。 ポツリ、と、頬に水の粒が当たる。 来た! 一粒落ちると、堰を切ったように雨粒がポツポツと降り注ぐ。焼けた地面が急に冷やされ、埃の臭いが鼻を突く。夕立の匂いだ。 あの先の角を曲がれば僕の家がある。僕は走るのをやめてわざとゆっくり歩いた。  雨がだんだん強くなり、雨粒が僕の頬を突く。両手を広げて空を仰ぐと、全身で雨粒を抱きしめているみたいでくすぐったい。 角の郵便局の軒下で雨宿りしている中田商店のおじさんが、顎を指先で擦りながら、困った顔で空を見上げている。 「おじさーん、気持ちいいよ!」 こちらに知らんぷりの中田のおじさんは、雨の向こうで不機嫌そうだ。  「ただいまー!」  びしょ濡れになった僕を、にこにこ顔のママが出迎えてくれる。  「ねぇママ、今日も収穫ゼロだったよ。すぐそこに二匹もいたのに落ちてこなかったよ」   全部で十五回もユリノキを蹴ったのに、クワガタは落ちてこなかったことを、写真のママに報告する。ママはいつものように優しい笑顔で、僕の話を聞いてくれた。 強くなった雨足が、ザーザーと窓に吹き付ける。静かなリビングにはちょうどいいBGMだ。  「ただいま」 夜になると疲れた声が玄関に響いた。 あ、パパだ! パパがリビングのドアから入ってくる。入口のソファーにカバンを置いて、真っ直ぐ僕とママのいる部屋の奥へと歩み寄る。  手には小さな何かを持っている。なんだろう。  「ほーら見ろ!すごいだろ!会社の木で捕まえたぞ!」  パパの指に掴まれたそれは、立派なツノをしたノコギリクワガタだった。 僕は、わぁ〜っと、ママと顔を見合わせて笑った。 パパは、ママと僕に「ただいま」と手を合わせると階段を上がって行った。 しばらくすると、着替えを済ませたパパが二階の僕の部屋から持ってきた虫かごにクワガタを入れた。パパはそれを僕の目の前に置いてくれた。  威嚇するようにツノを広げるノコギリクワガタは、すごくかっこよくて僕はずっと眺めていた。 そんな僕を、優しい笑顔のパパが見ている。  でも、その目は少し寂しそうに見えた。  
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