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―八月の夕立の後、海の近くにある神社の脇道、その先の洞穴に向かおう。そこに構える鳥居から、落ちてくる雨の雫を左手に三滴取り、柏手を二回打ちましょう。
「雷様雷様、雨は止みました」
そう言って一礼したら、鳥居をくぐり洞穴を進みます。その先には、松の木が生い茂る神様のお住いがあります。
*
「雷様雷様、雨は止みました」
そう言って一礼してから鳥居をくぐる。薄暗い洞穴を進むと、そこには松の木が生い茂る美しい森があった。
「松蕾、来たよー」
すると、水干姿の少年が樹上からふわりと地面に降り立った。重力知らずの柔らかく静かな着地だ。
少年は成長途中の中高生くらいの見た目で、松の森のこの場に溶け込見そうな深緑色の水干がよく馴染んでいる。
「…お前暇なのか」
「久しぶりとか言えないの? 友達じゃない私たち」
人にしか見えないが、彼が人ではないことを紫草は知っている。何せ初めて出会った時から、少しずつ背が伸びる自分と違い、彼の姿は変わっていないのだ。無愛想なこの少年は『雷の落ちた松の木から生まれた雷様の分身のようなもの』らしい。
「友人になった覚えはない。ここは人が気安く来ていい場所ではない。帰れ」
紫草がここに来るようになったのは十一歳の夏。父の実家で暮らすようになった年のことだ。祖母から聞いた『松海神社の洞穴』の噂を聞き、好奇心のままにその儀式を実行した。そして、松蕾と出会った。
実際、噂の儀式は特に必要は無いらしい。夕立の後という条件はそのままに、『素質ある者』が洞穴の入口である鳥居を潜ると、この世でもあの世でもないこの場所に入ることができるのだ。
「でも、奥に行かなければいいだけなんでしょう?」
松の森の奥、注連縄の向こうへは人が立ち入ってはいけないらしい。その昔は森の奥に迷い込んでしまいこの世に戻れなくなってしまう者が後を絶たなかったそうだ。所謂神隠しというもので、松蕾はそれを防ぐ為、この場所に遣わされ、迷いこんだ者を追い返しているらしい。
「…お前、歳はいくつだ」
「今年十三になったけど」
「………ならいい。でも奥へは間違っても入るな。そのさえ守れるならもう好きにしろ」
紫草は首を傾げた。
「年齢が関係あるの?」
「教える必要は無い」
ふいっと松蕾は顔を逸らした。
「…そんな態度とっていいの?」
ピクリと松蕾の足が止まった。紫草は鞄からお菓子の箱をチラと覗かせた。
「今日もお土産持ってきたのになぁ」
ゆっくりとこちらを振り返った松蕾は、恨めしそうにこちらを見た。紫草は小さな箱を左右に振って見せた。中に入ったグミがカシャカシャと音を立てている。
「…お話しようよ、松蕾。どうせ、あなたも一人でしょ?」
*
紫草は望まれて生まれた子供ではなかった。結婚する気のなかった二人の間に出来た子供で、そんな夫婦が上手く子育てできるはずもなかった。紫草が幼稚園を卒業すると同時に両親は離婚。紫草は父親と二人暮しになった。
片親だと言うだけで同級生からは心無いことも言われ、紫草は人付き合いというものがすっかり面倒になっていた。
「驚いたな。もうここに入れる人間はいなくなったと思っていた」
初めて松蕾と出会った日、彼は目を丸くして紫草を見た。
「…お前、ここに来るのは初めてか?」
「昨日引っ越してきたばかりです」
「なるほどな。お前からはこの土地の者の匂いがしない」
妙に偉そうもとい、大人びた話し方の彼が人ではない何かだというのはすぐに理解出来た。
(この人…飛んでいたわ)
木から『落ちる』ではなくふわりと地上に『降り立つ』。羽根がゆっくり落ちてくるような着地だ。そんなこと、普通の人間にできることではない。
「去れ、人間。ここは人が立ち入るべき場所ではない」
彼は瞬きする間に紫草との距離を詰めた。間近で威圧的に凄まれ本能的に後ずさりした瞬間、石につまづき後ろに倒れた。
衝撃が体に走ることを覚悟して目をつぶったが、紫草の予想は裏切られた。ゆっくり目を開けると、間近に少年の顔があった。あまりの近さに驚いて硬直していると、体がゆっくりと起こされた。少年の手が紫草の頭を支えていたのだ。後ろを見ると岩があり、恐らくそこにぶつかりそうになったことがわかる。
「……ありがとうございます」
「いや、俺こそすまない。転ばせようとしたわけじゃないんだが…」
申し訳なさそうに少年は視線を落とした。すると、何かを見つけてきょとんと目を丸くした。彼の目線を追うと、紫草の鞄から落ちたらしいグミが地面に落ちていた。
「ああ、ごめんなさい。鞄開いてたのね」
箱ごと落ちた為あまり零れてはいなかったものの、勿体ないなぁとため息をついた。グミを拾っている間、松蕾はじっと紫草を見ていた。
「それは食べ物か?」
「お菓子です。グニグニした食感で面白いですよ」
「食べ物ならそのままにしていても土に還るぞ」
要するに拾わなくてもいい、と言っているのだろうと紫草は解釈した。
「ここ、とても綺麗なところだから」
だから、綺麗なままにしておきたい。紫草はそう思った。落ちたグミは全て拾い、鞄に入れていたゴミ袋にしまった。箱の中は問題なく食べられそうでほっとした。
「…そうか。だからお前はここに入ってこられたんだな」
どういう意味かわからず首を傾げると、「なんでもない」と松蕾はそっぽ向いた。
「…手を出してください」
そう声をかけると二つの目が訝しげに紫草を見た。紫草は彼の手を取り、その掌にグミを三粒乗せた。
「助けてくれたお礼です」
そう言って、紫草は自分の口にもグミを運んだ。松蕾は不思議そうにグミを眺めながらも、パクリと三つ一気に平らげた。
*
「これ、味がいつものと違うか?」
洞穴の近くに、座るに丁度いい大きさの岩があり、そこが二人の定位置になっていた。いつも夕立の後に来るのだが、不思議なことにこの岩だけはいつも乾いている為気兼ねなく座ることが出来る。
「そうよ。フルーツじゃなくて、コーラやソーダの味が入ってるの」
「コーラもソーダも知らんからよくわからん」
と言いつつも、口の中でグミを転がしているようなので、気に入ったことは確からしい。松蕾は食事の必要はないらしいが、食べることが出来ないという訳では無いらしく、初めて出会った時に持っていたグミはちょっと気に入ったらしい。
「じゃあ今度はコーラを持ってこようか」
「いや、いらん。そもそも来なくていい」
「グミ食べるだけ食べといて…」
紫草は思わず笑ってしまった。その紫草を、松蕾は一度ちらと見て、かと思えばぷいっとそっぽを向いた。
「……松蕾、元気だった?」
「元気も何も、俺はここがある限り何も変わらん。お前が変わってもな」
松蕾は変わらない。紫草はどんどん背が伸び、元々見上げていた彼とは目線が合うようになっていた。
「そうね、私はまず通う学校が小学校から中学校に変わったわ。新しい友達も…一応はできたかな」
「一応なのか」
松蕾は苦笑した。
「そう言えば夏祭りにも誘われた」
「そうか」
「断ったけど」
「何故だ」
「男子だったから」
松蕾の喉仏が動いた。丁度噛み締めていたグミを流し込んだところだったらしい。
「…行けばいいだろう。なぜ男子はダメなんだ」
「大して仲良くもない男子と二人でお祭りなんか行ったら、まず会話がもたないし、クラスメートに見られたら冷やかされるに決まってる。そんなの面倒じゃない」
中学生になると急に色気立つのは何故なのだろうと紫草は思う。女子は早熟だから以前からちらちら小耳に挟むものの、制服を身につけた途端、男子もそうなった。人の中にいることが最近ますます億劫になる。
「…別にその男じゃなくてもいいが、お前はもっと人のいるところに行くべきだと思うぞ。こんなところに来ている場合ではない」
雑談には適当に付き合いながらも、ここに来るな、帰れと言うことも松蕾は忘れなかった。
夕立は毎日あるわけでは無い。実際、昨年の夏は三回しか来られなかった。今年も何回ここに来られるかわからない。科学がどれだけ進歩しても、明日の天気さえ予報は外れることもある。
「松蕾は洞穴の外には行けないの?」
「俺は土地に根付く者だ。ここを離れることは出来ない」
離れようとしたらどうなるのか、尋ねてみたかったが、それは何か一線を越えてしまうような気がして躊躇われた。
「…また来るわ。グミも新しいの持ってくるね」
そう言って、紫草は洞穴の向こうへ戻って行った。
*
「というわけで、コーラじゃないけどラムネ持ってきたよ」
松蕾は呆れたような溜息で紫草を出迎えた。
「お前本当に暇なんだな」
「馬鹿言わないで。宿題は増えたし、友達とだって出かけたりしてるから」
胸を張って答える紫草を、松蕾は訝しげな目で見つめた。よく見ると松蕾の目は少し緑がかっていた。森の色が映っているだけなのか、元がそうなのか、紫草には判断がつかない。
「…それ、どうやって飲むんだ」
「やっぱり気になるんじゃん」
丁度いい岩に瓶を置き、用意したタオルを使って思い切りラムネのビー玉を押し込んだ。溢れ出るラムネを一滴もこぼすまいと口に運び、その様子をじっと松蕾は見ていた。
「これがラムネだよ」
松蕾の分もビー玉を押し込み、零さないようすぐに瓶を手渡した。炭酸の感覚に驚いているようだが、動揺を隠そうと唇を噛んで刺激を我慢しているのが面白かった。
「…人間はすごいな。神のような力がなくとも、自然の力を学んで利用して、色んなものを生み出すんだ」
松蕾はラムネを飲み干し、空になった瓶を松の木の隙間から漏れる光に当てて眺めた。
「…綺麗だな」
そう呟く横顔も光が当たって綺麗だった。紫草は思わず見とれた。
「また持ってくるよ。綺麗なものや面白いもの、沢山あるから」
「…いや、要らない」
いつもの調子とは違う声音に、紫草の心臓がドクンと跳ねた。
「昔も、お前みたいに俺を恐れず何度も足を運ぶ者が何人かいた。けど、みんな結局ここに来られなくなった」
「…どうして?」
「子供じゃなくなるからだ。ここは、穢れのない子供しか立ち入れない場所だ」
緑がかった美しい目が紫草を見つめた。じっと見つめ続けていると、風にあおられた前髪が目を隠してしまった。そっと髪をどけようと手を伸ばすと、既のところで松蕾がその手を掴んだ。
「お前もじきに来られなくなる。夕立の後、ほんの一時顔を合わせるだけの俺のことなど忘れて、人の中で生きていくんだ。だから、『また』はいらないんだよ」
そう言って松蕾はそっぽ向き、掴まれた手は放された。松蕾が自分に触れたのは初めての事だった。ひんやりと冷たい手が、彼が人ではないということをまざまざと思い出させる。
「あのね、松蕾。二年前、私がこの街に来たのは、父が亡くなったからなの」
両親が離婚していること、長らく父と二人暮しだったこと、けどその父が亡くなり祖父母に引き取られたことを話した。
父と二人の頃、純真無垢な子供は不揃いなことをおかしいと言った。残酷なほど真っ直ぐに言葉は刃となって突き刺さった。
引っ越してからも、差し伸べられる手を素直に取れなかった。優しさをどこまで信じていいのかわからなかった。
「松蕾は気づいていたんでしょう? 私は最初、何もかもが面倒になって、どうにでもなれと思ってここに来たのよ」
夕立も森も怖くはない。どうでもいい。生きていることの方が余程怖い。両親に望まれず生まれた自分は、この世界にいる意味がよくわからなかった。たった十一年の人生で、何もかもがどうでもいいと本気で思ったのだ。
「でも、松蕾は私を守ってくれた」
あの日、倒れる頭の先に岩があった。あのままでは確実に頭を打っていただろう。打ちどころが悪ければ死んでいたはずだ。行ってはいけないという注連縄の向こうも、いっそ彼を振り切って行ってやろうかと何度も思った。そんな好奇心に彼は何度も釘を刺した。
「あなたが救ってくれたから、私は今ここにいる。…だから、忘れるなんて出来ないの」
子供でいられなくなったとしても、ここに来られなくなったとしても、松蕾を忘れて生きていくなんて出来ないと、紫草は思った。
紫草の話を松蕾は黙って聞いていた。そして、日が落ちる前に帰れといつもの調子で帰宅を促され、明日は来られるだろうかと、何度も洞穴を振り返りながら帰路に着いた。
*
「二人がダメでも、グループで行くのはアリかな?」
懲りないやつだなと紫草は思ったが、気づけば外堀を埋められ、最後の拒否権は残されていなかった。
当日、時折雷雨があるかもしれないと予報されていたが、祭りは決行するらしい。朝から少々体調が悪いので、いっそ中止になればなぁ、と紫草はぼやいた。
こちらで暮らすようになってから祭りに行くのは初めてで、祖母は張り切って浴衣を着せた。青地に紫の藤の花が描かれたもので、紫草の為に用意していてくれたらしい。
いつもは登らない神社の階段を、今日は慣れない下駄で登った。
男子二人、女子三人。合コンのような割合の数字にならなくてよかったと心底思うと同時に、あぶれた自分は今すぐにでもすぐそこにいるはずの松蕾に会いに行きたいと思った。
「…ごめんな、伊藤」
友人たちが焼きそばを買いに行き、その間、紫草は自分を誘った男子と二人で待たされていた。恐らく『余計なお節介』だ。謝罪の言葉からそれが滲み出ていた。
「…何で私を誘ったの?」
少なからずの好意があるらしいことはわかった上で紫草は尋ねた。何故それを自分に感じたのか。紫草はそれが気になった。
「小学生の頃から伊藤と仲良くなれたらいいなって思ってたから。大人びてて、なんかかっこよくて、伊藤が退屈そうに窓の外を眺めてる時の横顔が綺麗だなぁって、つい見ちゃったり、気づけば伊藤のことばかり考えていたんだ」
大人びていて、つい見てしまう退屈そうな横顔が、紫草の脳にも過った。深緑色の水干姿で、緑がかった美しい目を持つ人ではない人。
道楽の少ない松の森の中、ヨーヨーを持っていったら喜ぶだろうか。お面はどうだろう。風車はあの森の中でも楽しめるのではないだろうか。
―ああ、どうして、松蕾には夕立の後しか会えないんだろう。
「伊藤は好きな人っているの?」
黙り込んでしまった紫草に彼が尋ねた。
「…いいえ、いないわ」
―だって、松蕾は人ではないから。
「あ、雷鳴ってる」
彼の呟きが耳に入り、紫草は空を見上げた。一面灰色の空が広がり、今にも雨が降りそうだ。
「…雨、降るかなぁ」
―降ればいいのに。そうしたら、今すぐ洞穴に向かい、松蕾に会いに行くのに。
ふと、お腹に痛みを感じ、紫草はその場に蹲った。
「どうしたの? 大丈夫?」
「うん、ちょっと今日は…朝から調子悪くて」
下腹部が妙にズキズキと痛む。今すぐ目をつぶりたくなるような眠気とだるさに襲われた。
『子供じゃいられなくなるからだ』
はっ、と紫草は息を飲んだ。自分の症状に覚えのある名前が浮かび上がった。松蕾の声が脳を過り、心臓が激しく鳴った。
「ごめん…私…御手洗行ってくる」
心配そうな声が聞こえたが、振り切るように紫草は急いだ。
紫草は洞穴の前にやってきた。雷はゴロゴロと鳴るものの、雨の気配はない。
「お願いします。ちょっとでいいから、雨を降らせて」
手を合わせ強く祈った。今日降らなければ、今じゃなければ、もう間に合わないかもしれない。
「お願いします、お願いします、お願いします…」
降りそうなのに降らない。もどかしさで胸が苦しくなる。曇り空はたしかにあるのに、雷は鳴っているのに、雨だけが降らない。
「神様……雷様お願い……!」
そう呟いた瞬間、僅かにだが紫草の祈る手に何かが落ちた。空を見上げると、夕立とは呼べないながら雨が降ってきた。
紫草は柏手も一礼も忘れ、慣れない下駄で小走りに進んだ。
「松蕾!」
洞穴のすぐ近くに松蕾はいた。ほとんどぶつかるような勢いで松蕾に抱きつくと、倒れないようにしっかりと紫草を支えた。まるで抱きしめられているみたいだ。
「…馬鹿だなぁ。そのまま祭りを楽しんでいたら良かったのに」
耳元で僅かに震えているような松蕾の声がした。
「…私が来ているの知ってたの?」
「気配でわかる。…わかったから、ちょっと無理をした」
「無理って?」
「夕立というには雨が足りないし、お前は子供ではなくなった。…だけど、後生だから。最後に一度だけ、お前が来られるように俺の力を使って道をこじ開けたんだ。…お別れだな、紫草」
溢れ出そうになる涙を堪えようと紫草は唇を噛み、抱きしめる手にもぐっと力を込めた。
「…今まで一度も名前なんて呼ばなかったくせに」
「お前も気づいただろう。自分の身体と心の変化。だからもう、ここへは来られない」
どうやら全て見透かされていたらしい。悔しいやら恥ずかしいやら、紫草は唇を噛んだ。抱きしめられていた身体が離され、松蕾の目と視線がぶつかった。
「…忘れたりなんかしないわ。松蕾は私を救ってくれたのよ。岩からも、絶望からも。私はここに来ることだけが楽しみなのよ。…来られなくなったら、この先どう生きていけばいいかわかんないよ。私は松蕾が―」
言いかけた言葉は松蕾の手で塞がれた。
「ダメだ、紫草。それは言葉にしてはいけない。言葉にしたら力をもってしまう」
ふさがれた手を離すと、今度は両手で顔を包み込んだ。目線を合わせ、諭すように松蕾は言った。
「お前、まだ十三だろう。諦めるにはまだ早い。祭り、楽しくなかったか? 友人だって、これからもっと好きになるかもしれないぞ。お前の世界はまだ狭い。全部これからさ。この先に広い世界が待っている」
「…でも、松蕾に会えなくなるなんていやだよ」
松蕾は紫草の額に自分のそれをコツンと当てた。
「大丈夫だ。ここでのことは忘れるから。勿論、俺のこともだ。みんなそうだった。そういう風にできてるんだ。人は、生きていく為に忘れるんだ。俺はそれを薄情だなんて思わない」
松蕾の顔が溢れてきた涙で歪んだ。頬に触れる彼の手に自分の手を重ねた。言葉が出てこない。
「ありがとうな、紫草。お前とここで過ごした時間、本音を言えば俺も結構楽しかったんだ。楽しくなると別れの時に辛くなると思って適当にあしらっていたんだが…」
「…酷いなぁ」
「だから悪かったよ」
松蕾の声が今までで一番優しく、涙で見えないが笑っているような気がした。
「これは今までの礼だ」
ふと、松蕾の顔が近づき、額に何か柔らかくひんやりとした物が触れた。
「…紫草の幸運を祈っているよ」
雷のような光が紫草の目を眩ませた。
「さようなら」
目を閉じた隙に、顔に触れていた手の温もりが遠ざかり、意識も遠のいた。
気づけば洞穴の外にいた。上の方からお囃子が聞こえる。
「…私、何をしていたんだっけ……?」
頬に違和感を覚えて触れてみると、顔が濡れていた。そういえば、雷がゴロゴロ鳴っていたなと思い出す。
「……あ、戻らないと」
お腹の痛みに慌てて手洗いへと駆け込み、それからの記憶が少し曖昧になっていたが、友人達を待たせていることを思い出した。心配しているかもしれない。
『これからもっと好きになるかもしれないぞ』
そう言ったのは誰だったのか、紫草には思い出せなかった。紫草は何となく額に触れてみた。思い出せそうで思い出せない。ズキリと痛むのは腹か胸か。
紫草は鳥居に向かって一礼すると、背を向けて友人達の待つ場所へと戻って行った。
その後、雨はもう降らなかった。
*
―八月の夕立の後、海の近くにある神社の脇道、その先の洞穴に向かおう。そこに構える鳥居から、落ちてくる雨の雫を左手に三滴取り、柏手を二回打ちましょう。
「雷様雷様、雨は止みました」
そう言って一礼したら、鳥居をくぐり洞穴を進みます。その先には……
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