千夜

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「はじめまして。チヨです」  私はそう言ってあゆみさんの前へ立った。 「あ、はじめまして。石倉です」  あゆみさんは慌てて立ち上がり、私が差し出した右手を握った。白くて、細くて、ひんやりとしたまるで雪みたいにきれいな手だった。  後ろからの気配で小塚さんが戸惑っているのが伝わってきた。  私は小塚さんの隣にぴったりと寄り添って、 「颯太さんのことなら、私に任せてください」 と、にっこり笑った。  安っぽい作り笑いなんて、絶対にしたくなかった。  できることなら、一生したくなかった。でも、私がたった一度だけ我慢することが、彼らのためになるのなら、私の安いプライドなんていくらでも捨ててやる、と思った。  そしたら、案の条、あゆみさんはほーっと長い息をついて、心底安心したように「よかった」と笑った。  心から安堵した顔をしていた。 「それなら、私は帰ったほうがいいね」  あゆみさんは、ついさっきまで背負っていたすべてのものから解放されたように、身軽な様子で椅子に置いてあったバッグを持って、その場を立ち去ろうとする。  去り際に小塚さんに近づいて、 「私、ずっと気になってたんだ、颯太のことが。でもよかった。こんな素敵な彼女ができたみたいで」 と言った。あゆみさんは小さな声でそう言ったけれど、小塚さんのすぐ隣に立つ私にはすべてがはっきりと聞こえた。そしてあゆみさんが小塚さんの耳に顔を寄せて、最高の笑顔で言った「さよなら、颯太。幸せになってね」という言葉も。  あゆみさんは最後に私に柔らかく微笑んで、店を出て行った。  私と小塚さんは、2人であゆみさんがさっきまで座っていた椅子をぼんやりと眺めていた。  肩が触れ合うほどに近かった私と小塚さんの距離はいつの間にか離れていた。  私から離れたのかもしれないし、小塚さんから離れたのかもしれなかった。  あゆみさんがいなくなった今、私たちが寄り添う理由はなかった。 「ありがとうございました」  横から小塚さんの声が聞こえた。隣を見ると彼と目が合った。私は、あ、見たくない、と思って慌てて目をそらした。 「さ、どうぞ座ってください。何でも好きなものを頼んでくださいね」  小塚さんは空気を換えるように、そう明るく言って私のほうにあった椅子を引いた。 ーーきみはただ僕の隣にいてください。  私は最初に言われた通り、小塚さんの隣にいた。 ーー何も言わなくていいから。 ーー颯太さんのことなら私に任せてください。  状況を察した私は柄にもなく、人助けという名目で一芝居を打った。  つまりはこういうことだった。  小塚さんとあゆみさんは恋人同士だった。しかし、何らかの原因で2人は別れなければならなくなった。 あの、最初のあゆみさんの小塚さんに対する申し訳なさそうな、後ろめたそうな表情から読み取るに、その原因はきっとあゆみさんにある。  そして、あゆみさんの気持ちを察した小塚さんはそれを少しでも和らげるために、安心させるために私に彼女のふりをしていてほしかったのだ。  そしていま、小塚さんは私にお礼として晩ご飯をご馳走してくれようとしている。 「帰ります」 「え?」  椅子の背にかけていた小塚さんの手が戸惑ったように宙に浮く。 「私、今お腹空いてないので」  私がそう言ったのもあながち嘘ではなかったけれど、とにかく私はもうここにいたくはなかった。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。  傷を他人から隠すように、自分は傷ついていないと痛みをごまかすような、彼の薄っぺらい作り笑いをもう見たくはなかったから。  私は小塚さんに目を向けることなく、出口に向かって歩き出した。 「え、待って! わかったから、せめてお礼させてよ」  ずんずん歩く私を、小塚さんが慌てたように追いかけてきた。  出口を抜けるとき、小塚さんがウエイターに「すみません」と謝る声が聞こえてきた。
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