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「本当に泊まるだけですよね?」
小塚さんは気が気ではないように、さっきから落ち着かない様子で、私に何度も同じことを聞いてくる。
「だからさっきから言ってるじゃないですか。それとも、そんなに確認取ってくるっていうことはそっちに下心があるんじゃないですか?」
私は、冷蔵庫のなかからミネラルウォーターを取り出して、ベッドに腰を下ろした。
さっきのレストランから少し離れたホテルの一室に私と小塚さんはいた。
「下心なんてないよ。俺、そういうことできないんだ」
いつの間にか彼の言葉に敬語はなくなっていた。
私の冗談めかして聞いた問いに小塚さんは急に、まじめな顔をして答えた。
「あ、そうなんですか?」
私は肩透かしを食らったような感覚で、そう聞き返すのがやっとだった。
「うん」
彼は、そう言ったきり、もう口を開こうとはしなかった。彼は形のいい口を、きゅっとつぐんだままうつむくでもなく、私のほうを見るでもなくただ黙っていた。
私もそのことについて深く聞くつもりもなかったし、本当のところ、どうでもよかった。
ベッドにふたり肩を並べて座りながら、私たちは長い話をした。
「コート、脱いだらどうですか?」
「うん」
「小塚さん、ナンパはこれっきりにしたほうがいいですよ」
「え、どうして?」
「センスが壊滅的だからですよ、あんな誘い方私以外の女の子だったら、絶対に乗りません」
「そうなの? 何がダメだったのかな。確かに街中で女の子に話しかけたのはチヨさんが初めてだったけど」
「私が最初だったんですか」
「そうだよ。だから、正直驚いた。成功って言ったら失礼だけど、まさか1人目でついてきてくれるとは思わなかったから。そういえばなんで俺についてきてくれたの?」
「困ってるように見えたからですよ。でも、とんだ大根役者ですみませんでしたね」
「そんな、とんでもないよ。あの時は本当に助かった。お礼言うの遅くなったけど、ありがとう」
「私の役が小塚さんを幸せにしたのかと言えば、そうではないと思います。だから、小塚さんが私にお礼を言うのは、違うと思います」
「いや、これでよかったんだよ。あゆみのためにも。俺はあゆみの隣にいるべきではない」
「でも、できることなら一緒にいたかったんですね」
小塚さんは自分の顔を、大きな両手で覆って深く息をついた。
彼はそのまましばらく顔を上げなかった。
私は何も言わず、触れもせず、ただ彼の隣の座っていた。
「どうして、そういうこと言うかな」
五分くらいだろうか、やっと顔を上げた小塚さんは泣いてはいなかったけど、目が赤く充血していた。
私は彼に、持っていたミネラルウォーターを差し出した。彼も無言でそれを受け取って、喉を鳴らして半分くらい飲んだ。その間に喉仏が何回か動くのが見えた。
「俺は自分なりに大切にしてたつもりだったんだけどね。どうやら、彼女にとっては俺は物足りなかったらしい。まあ、いい格好しようとして素の自分でいられなかったっていうのも駄目だったんだと思う。それが結果的に彼女に寂しい思いをさせることになったのなら。結局振られちゃったしね」
「後悔してますか?」
「うーん、どうだろうな……。まるっきりしてないといえば嘘になるけれど、想像してた以上になぜか傷ついてはいないんだ。不思議なことにね。ここに来る前に想像してた時のほうが傷ついてたかもしれない」
「ショックすぎてまだ悲しさが追いついてきてないんじゃないですか?」
「どうなんだろうな… でもチヨさんのおかげかもしれない。甘ったれだといわれるかもしれないけど、今夜はひとりで過ごすにはきっと耐えられなかったから」
私はその時、彼の横顔を見て、初めて彼を守りたいと強く思った。
しかし、彼が求めているのは私ではないこともよく知っていた。
それでも何かせずにはいられなかった。
私は彼の頭を自分の胸に抱いた。彼は最初のうちは驚いたようで息を詰めていたけれど、だんだん体の力が抜けて私によりかかり、深く息をついた。
私たちはしばらくの間、服越しに体温を分け合っていた。ひっそりとした抱擁だった。
もう、ついさっきまで立っていた繁華街の喧騒なんて思い出せなかった。
世界から私と小塚さんだけが切り離されたような、そんな夜だった。
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