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目が合ったとき、「あ、またやってしまった」と思った。
そしたら案の定、その男は張り付いたような醜い笑みを浮かべてわたしに歩み寄ってきた。
私が言う醜い笑みとは、顔の造形の良し悪しのことではない。表情のことを言っているのだ。
仮にこの男を例にしよう。わたしに歩み寄ってきたこの男の、他人に対し許しを請うような、年下の女に無理に下手に出ようとしているような、薄い笑み。言うまでもないけれどこの男は何かが面白くて笑っているわけではない。
何かに愛情を感じごく自然に顔からこぼれた柔らかな笑みというわけでもない。
普段から薄汚れた街で他人の表情を注意深く見つめている私にとってはこのような他人の心の機微というものがわかることがある。
「きみ、ひとり?」
その一言で私は判断した。この男は気障な人物だと。まさか、小説以外できみと言う人がいるということに私はまず驚いた。
私は口の中で、はあともまあともつかない返事をして男から目をそらす。
「じゃあさ、付き合ってくれないかな?」
私は無言で腕時計を確認した。男はめげずに私に話しかけ続ける。これ以上ここにとどまる理由もなくなった私は、歩き出した。すると、男が、
「え⁉ 来てくれるの? ありがとう!いやー、粘ったかいがあった」
と、心底うれしそうに、私と同じ方向に歩き出した。
どうやら私が同意していると勘違いしているらしい。
最初こそ、わざと勘違いしているふりをして、私が逃げられない状況を作り出しているのかとも思ったが男の表情を見ているうちにその可能性は消え去った。
目の前の男は屈託なく私を見下ろしていたのだ。
私は思わずため息を漏らす。
ほんの少しめんどくさいけれど、でも、不思議と嫌ではなかった。
気づいたら私は初めて会ったこの変な男に興味を持ち始めていたんだと思う。
それに、自分で言うのもなんだが、わたしはお人よしなのだ。
行先は決まっているようだった。
「僕の名前は小塚颯太。きみは?」
「チヨ」
「チヨさん」
小塚さんはそう確認するように、私の名前を呼んだ。それはまるで、初めての言葉を聞いた子供が母親に聞き返すようだった。
「チヨさん」
今度は私に向き直ってはっきりとした発音でそう言った。
私は心の中で今まで人にこんなに丁寧に名前を呼んでもらったことはあっただろうか、と思った。
それくらい、彼は私の名前を繊細な宝物にでも触れるように、呼んだのだ。
「これから、あのレストランに行きます」
彼は腕から指の先までぴんと伸ばしてレストランを指さした。きれいな夜景が見えるということで、ここら辺では有名なレストランだった。
私は正直、戸惑っていた。たかがナンパでファミリーレストランじゃなくて、本物のレストランに連れていかれるなんて。
「あの中で人と会う約束をしています」
彼を見上げると、彼の髪が夜風に吹かれてさらさらと揺れていた。風が心地よい夜だった。
「君はただ、僕の隣にいてください。何も言わなくていいから」
風がやむとなびいていた髪は何事もなかったかのように元の位置に戻った。
繁華街を抜けて、静かで品のいいレストラン街へ来ると、さっきまではナンパ男にしか見えなかった彼がよく見ると、上品な顔立ちをしていることや、来ている服が質のよさそうなジャケットであることに気が付いた。
途中からうすうす感づいてはいたものの、やはりただのナンパではなかったようだ。何か、訳ありなのだろうか。
もしそうだとしたら、ただのナンパよりだいぶたちが悪い。
彼はなぜか、レストラン街に入ったころから、黙りこくっている。
私たちはレストランまでの道を無言で歩き続けた。
結構な人ごみだった。今なら、夜の喧騒に紛れて、彼に気づかれることなく逃げ切ることができそうだった。でも、私はそうはしなかった。そうする気もなかった。
小塚さんのためというわけではなかった。
これはほんの興味本位だった。何しろ小塚さんにとって私はいくらでも代わりの利く人間だったのだ。
私はそれを痛いほどよく知っていた。
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