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遺影を持つ老婆
おれの部下の小泉拓郎が入院した。事故とかではなく、風邪をこじらせて。
小泉には大学の頃からかれこれ七年ほど付き合っていた彼女がいて、そろそろ本格的に結婚も考えるほどになっていた。その相談も兼ねて水族館でのデートを約束していたのだが、当日待てど暮らせど彼女は現れなかった。
前日からの雨で気温は例年以上に低く、さらに当日は一日土砂降りが続いていた。そんな中小泉はずっと彼女を待っていた。傘がほとんど役に立たなくなって、膝下から足先や肩がずぶ濡れになっても彼女は来ない。天気が天気だから出て来れないのかなと電話やメールも再三送ったが、『電波の届かないところにおられるか──』の繰り返し。入れ違いになる可能性も考えて直接彼女の家に行くこともせず、とにかく、ただ、ひたすらに、駅前の広場に突っ立って待ち続けた。
夜になってようやく諦めて家に帰ったものの、その頃には既に体も冷え切ってバッチリ風邪状態。翌日起きたときには仕事どころか起き上がるのも大変なほどになっていて、それでもなんとかタクシーを拾って医者に行った結果そのまま入院とあいなった。彼女からは入院中も一切連絡ナシ。
その週いっぱい会社を休み、翌週仕事に復帰してきた小泉を、おれ含め男性社員数人で飲みに誘って慰めた。小泉は「そろそろ結婚って空気になった矢先に相手を捨てるなんて、そんな子だなんて思わなかったんす……」と泣いていたかと思えば、突然立ち上がって
「もう女なんて信用しねぇっす!オレは仕事に生きる男になるっす!」
などと顔中グショグショになりながら宣言し、おれたちも「よっしゃがんばれ!」「そんなひどい女別れちまえ」などと励ましたりそそのかしたりつつ、小泉の体調も考えて夜九時頃には解散した。
おれとしては、失恋のショックから早めに立ち直って、今まで通り働いてくれればそれでよかったのだ。
しかし小泉は本気で吹っ切れたらしく、本当に宣言通り仕事に生きる男になった。メキメキとスキルをあげ、仕事に関する資格も目につく端から取得。重要なプロジェクトにも参加するようになり、ついには近いうちに本社に異動するんじゃないかとも言われ始めた。すさまじいスピード出世だ。係長のおれとしても鼻が高い。
そして例の彼女ともばっさりと関係を切った。電話メールの着信拒否は当然、各SNSもブロック。住んでいた安アパートからも引っ越して、彼女からもらったのプレゼントの数々も、絶縁状と一緒に彼女の家に送りつけたそうだ。
退院から半年たった頃には、小泉はもうすっかりエリート社員の風格だった。
「まさかお前がここまで変わっちまうとは思わなかったよ」
ある日喫煙室で偶然小泉と二人きりになった。
「いやー、人間本気になればスゴいってことっすよねー」
ライターを弄りながら、小泉は照れたようにえへへと笑う。仕事一筋になったとはいえ、根の部分は調子のいい男なのは変わらない。
「んじゃ何か小泉、お前入社してから入院するまで真面目に仕事してなかったってのか?」
「えっ? あ、あーいや、その」
「冗談だよ。……そういえばお前、タバコ変えたのか」
たしかこいつマイルドセブンだったはずなんだが、今持っているタバコの箱はラークだ。
「うっす。退院してから変えました。マイセンはアレと付き合ってた時に吸い出したんで」
とにかく彼女に関するものは徹底的に切り捨てたいようだ。しかもあの子やアイツじゃなく、アレ、と来たか。小泉の中では、彼女の存在は完全にトラウマになっているらしい。もう話題に出さない方がいいな。
それから程なくして、小泉は本社に異動になった。賑やかな送別会で送り出してから数日後、給湯室で女子社員が何か話しているのが聞こえた。
「今日もまたいたよ」
「なんか気味悪いよねえ」
「別に何かされるわけじゃないんだけどねー」
「なんの話だ?」会話の内容がただの社内の噂話とは違うように感じて、おれは二人の女子社員に声をかけた。
「駅にいるババ……オバさんのことなんですけど、係長、見たことあります?」
「駅? ……おれ車通勤だから見たことないな。そのおばさんがどうかしたの?」
彼女らの話によると、数ヶ月前から、会社の最寄駅の改札に、一人の中年女性が朝から晩までずっと立ち続けているらしい。しかも遺影を胸の前に掲げて。駅員に注意されるとしばらくいなくなるが、そのうちに少し場所を変えて立っているらしい。
「そりゃ確かに見て気持ちのいいもんじゃないな……」
「特に何かされるってわけじゃないんですけど、朝から見ちゃうと気分が萎えるっていうか……帰る時もまだいたりするし」
「遺影に写ってるのって誰だか見たか」
「さすがに正面からは見れませんでしたけど、チラッと見た感じまだ若い女の人でした。娘さんなのかしら」
♢
その日の昼休み、おれは昼飯もそこそこに最寄り駅に向かった。改札に向かう階段をのぼり、構内を行き交う人をざっと見回してみる。
(あれか)
改札正面の壁に、ポツンと一人女性が立っていた。白髪まじりの髪を背中あたりまでボサボサにしたまま、黒い礼服のワンピース。身体の正面に黒い額縁を持って、改札の方をじっと見ている。あれが遺影に違いない。
万が一何かあった時のため、駅員室に何人か人がいることを横目で確認してから、おれは女性の方にツカツカと歩いて行った。
「すみません」恐る恐る声をかけてみたが、女性は改札に目を向けたまま微動だにしない。改めてまじまじと女性の顔を見てみると、遠目に見た時のイメージよりだいぶ年がいっていることがわかった。艶のない肌、垂れ下がった目元の皮膚。額縁を持つ手も、よく見れば骨と皮がほとんどだ。
「あの、すみません」
もう一度声をかけると、女性──いや老婆か──はゆっくりと顔をこちらに向けた。やっと自分が呼ばれていると気がついたらしい。生気のない目がおれを見返す。
「はい……何でしょう?」震えるような声が返ってきた。
「私、この近所の会社に勤めているのですが、うちの部署のものから貴方のお話を聞きまして……」
礼を欠くとは思いながらも、会社の名前も自分の名前もまだ明かさなかった。女性はそんなことも気にする様子はなく、ぼんやりとこっちを見つめたままだった。
「……何やらお困りのようだと思いましたので、お節介かも知れませんが、何かお力になれればと」
そう言いながら、女性の持っている額縁に目を落とす。黒いリボンもかけられており、間違いなく遺影だ。写真の中では、まだ若い明るい茶髪の女性がにっこりと笑っていた。小泉が好みそうな顔だな、とふと思う。
「まあ……なんと……お気を使わせて……」
女性は申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。
「……小泉、拓郎という人を、探しておるんです」
遺影の中の女性の名前は、栗木加奈子。この老婆の孫にあたる。両親はまだ加奈子が幼い頃に相次いで亡くなり、この女性が母親がわりとして育ててきたという。
「小泉さんと加奈子は、大学の頃からのお付き合いでした。半年前のその日も、小泉さんとどこかで待ち合わせて遊びに行く約束で出かけて行きました……」
半年前。小泉がデートをすっぽかされて、雨の中一日待ちぼうけた日だ。この女性、加奈子さんこそが、小泉が七年付き合い、捨てられたと思っている女性だ。
「なのにその途中、加奈子は雨でスリップした車に撥ねられて……
救急車で病院に運ばれましたが……」
老婆の声が震え出した。
なるほどな、そういうことだったのか。
小泉の待つ駅に着く前に加奈子さんが事故にあう。家族には病院から連絡が行くだろうが、駅で待っている小泉のことなど病院側が知るわけもない。
当日は結構な雨だったから、携帯が雨に濡れれば使い物にもならなくなる。小泉がいくら連絡を入れても反応があるはずもない。
さらに小泉は、翌日から酷い風邪で一週間入院してしまう。病室のベッドでうなされているうちに、加奈子さんの事故のニュースは流れていってしまっただろう。
「葬儀も終えて、ひと段落ついた頃に、小泉さんから荷物が届きました。加奈子が小泉さんに贈ったらしい品物が、ダンボールにぐちゃぐちゃに詰め込まれていて……手紙には、二度と顔を見せるな、と….」
全て不幸な偶然の連続だった。加奈子さんは小泉を捨ててなどいなかったのだ。むしろ誤解とはいえ、捨てたのは小泉の方だ。
「あまりにも急なことで、小泉さんへの連絡をずっと忘れたままだったことをその時やっと思い出しまして……許してもらえるとは思っておりませんが、せめてあの時に何があったかを、お伝えしたく……
会社がこの辺りだと言うことは、加奈子から、聞いておりましたので……こうして待っていれば、いつか、気づいてもらえるかと……
あの子は最期まで、拓郎くん、拓郎くんと、小泉さんの、名前を、呼んで」
俯いた老婆から嗚咽が漏れはじめる。通行人がちらちらとこちらを伺いながら通り過ぎていった。いたたまれなくなって、おれはもし何かわかったら教える、と約束してその場を辞した。老婆は後ろで何度もありがとうございます、ありがとうございますと呟いていた。
(さて、どうしたものか)
その日の夜、会社の駐車場に停めている車の中で、おれは煙草をふかしながら昼間のことを考えていた。
すなわち、小泉に事実を伝えるかどうかを。
今小泉は、本社での評価も高く、順風満帆の仕事生活を送っている。それは加奈子さんを犠牲に成り立っていることは間違いない。彼女が小泉の中で、男を弄んで捨てる悪女でいるうちは、小泉はそれに反発するように仕事に励む。
しかし、もし加奈子さんの真相を知ってしまったら? 最後まで自分の名前を呼んでいたという加奈子さんの死を知ってしまったら?
失恋のショックで、いち平社員から本社勤のエリートになった男だ。何かあった時の反動が極端なのだ。真相を知ったら思い詰めた挙句うっかり後追い自殺でもしかねない。そこまで行かなくても、当然ショックで塞ぎ込むだろう。そうなれば仕事にも影響が出てくるはずだ。
しかし、このまま真相を黙ったままでいると言うことは、加奈子さんの祖母は、ずっとあの駅に遺影を抱えて立ち続けることになる。恋人に誤解されたままの、孫娘の名誉を回復するために……。
脇に置いてあった携帯が鳴った。着信画面を見て思わずシートから飛び上がりそうになる。小泉拓郎。なんてタイミングだ。おれは携帯をとり、恐る恐る電話に出る。
「……もしもし?」
「あ、先輩! お久しぶりっす小泉っす! 今時間大丈夫っすか?」
こちらの気も知らず、小泉は電話の向こうで腹立たしいまでに元気だった。
「今ちょっとそっちの近くまで来てるんすよ。せっかくなんでメシでも食いに行きませんか?」
駅とは逆方向にある居酒屋に二人で入る。今日の帰りはタクシーに決まりだ。
二人で適当に注文して、まずは生ビールで乾杯。適当に近況報告などしつつ、注文した料理があらかた揃ったところで、小泉が切り出した。
「先輩、実はオレ……このたび結婚することになりました!」
出世街道を突っ走りながら、ついに結婚まで漕ぎ着けたのか。おれはまだどっちも縁がないというのに。
「それは……おめでとう。それで、お相手は?」
「実はまだ本決まりじゃないんですけどね、ほぼ確実ってヤツです。本社の部長の娘さんで……」
小泉はそれは嬉しそうにニヤけつつ、その部長の娘がどれだけかわいいか、デートでどこに行ったか、などをつぶさに話してくれた。
こいつは今、人生でいちばん幸せな時期に違いない。
「部長のお気に入りともなれば、将来は安泰だな。本当によくやったよ」
「先輩の指導の賜物っすよ!」
「おれは大したことはしてないよ。お前が頑張ったからだ。そもそも──」
そう。そもそも加奈子さんが事故に遭って亡くなったからこそ、それを不幸な行き違いから自分が捨てられたと小泉が勘違いしたからこその今の出世なのだ。
「そもそも〜〜〜……何すか?」
小泉が箸で手羽餃子を摘んだまま、キョトンとしてこちらを見ている。
「いや。何でもない。とにかくおめでとう。今日はお祝いだ。好きなだけ頼め」
「奢りすか! やった!」
小泉は嬉しそうにメニューを開くと、早速品定めを始める。先輩ヅラして好きなだけ頼めとは言ったが、加減はしてくれよ。おれはお前と違ってまだ安月給なんだからな。
「オレ、一回あの『メニューにあるやつ全部ください』ってのやってみたいんですよねー!」
「それはまた別の機会にしてくれ」
冗談っすよやだなー、と笑う小泉の顔は、間違いなくおれが今まで見た中で一番幸せそうだった。
そして三ヶ月後、小泉は予定通り、本社の部長の娘さんと結婚した。おれも式に呼ばれたが、本当に幸せそうな式だった。
♢
あれから結局、おれは一度も駅に行かなかった。小泉はうちで育って、本社でバリバリ働くエリートだ。そんな会社にとって有益な男に、余計な話などできはしない。せっかく本社の部長に気に入られて、その娘さんとも結婚したのに、そんな新しい幸せな家庭に暗い話などもっていけない。
給湯室の女子のお喋りから、老婆が本格的に駅から追い払われたと聞いた。もう一月姿を見ていないと聞き、おれはほっと胸を撫で下ろした。これから暑い季節になる。駅に一日立ち続けるには辛い季節だ。遺影を持ったまま駅で倒れたなんて話は聞きたくもない。そうなる前に追い払われてくれてよかった。
幸いあの老婆の話を知っているのはおれだけだ。おれが全部胸に仕舞い込んでおけば、小泉は元気で、本社はうまく回る。老婆には悪いが、加奈子さんの命日には、おれが小泉の代わりに家で線香でもあげることにする。どうかそれで許して欲しい。
今日はおれは外回りだ。社用車に乗り込み、蒸し暑い車内を冷やすためにエアコンを入れる。涼風が車内に行き渡るまで、カーラジオを聞き流しながら手元の書類の確認を始めた。
『……次のニュースです。昨日未明、〇〇区のアパートで、この家の女性、栗木ハツエさんの遺体が発見されました。遺体は死後一ヶ月程経過しており、手首の傷などから自殺と……」
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