第1章

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 しばらく行った時だった。ロバの(くら)がぐらつきだした。鞍を使って小麦などが入っている麻袋を縄で固定している。その鞍の革紐がきしんで、変な音をたてている。ロバのクーが歩きにくそうにしている。  ロバを止めて荷物と鞍を確かめようとした時だった。袋を抑えようとしたが、間に合わなかった。穀物の入った袋ごと鞍が落ちかかり、クーも踏ん張ったが引きずられて横倒しになった。セリナもクーの下敷きになるところだったが、誰かに直前に引っ張られて難を逃れた。それでも、尻餅はついたが。 (誰?村にこんな親切な人、いたっけ?)  セリナがそんなことを思っていると、視線を感じて思わず顔を上げた。 (…!)  息を呑んだ。目を離せない。見たことのないほど整った顔が、自分をじっと見つめていた。  アーモンド型の黒い目に、長いまつげが縁取られている。黒い瞳には光が当たって少し透けていて、深い焦げ茶色だった。その目は純粋な煌めきをしている。まつげはきれいな朱色ががった夕焼けのような赤色で、見事に髪の毛と同じ色だった。髪の毛は長く、後ろで馬のしっぽのように垂らしているから、間違いなくサリカン人の少年で、目の覚めるような若草色と深緑色の組紐で髪の毛をまとめて結んである。服も見たことがないほど、上等な物だ。たぶん、絹も使われている。  セリナが観察している間、それは相手も観察している時間だった。 「君、大丈夫?」  聞いたことがないほど、綺麗(きれい)な言葉だった。それがサリカタ語なのだと理解するまでに、しばらく時間がかかった。なまりがなくて外国語のように感じたのだ。  セリナの住んでいる地域は五、六十年前にサリカタ王国の西側の向かいにある島国パルゼ王国から、貧しさと戦乱を避けて逃げてきた、パルゼ人達の子孫が住んでいる地域だ。八大貴族のベブフフ家の所領で、かなりの田舎にある。ここに移住して以来、みんな海を見たことがない。  それに、サリカン人をあまり見たことがなかった。サリカン人の住んでいる国に逃げてきたのだから当然のことだが、サリカン人はセリナ達村人にしてみれば、支配階級で遠い存在である。その上、パルゼ出身者達は意固地で、外から人を入れたがらず、入ってきた人をいじめて溜飲(りゅういん)を下げる傾向にあった。  自分達が排除するので、当然、他のサリカン人達にも良く思われていないし、サリカン人達が森の子族と呼ぶ、森に住む住人達からもよく思われていなかった。それでも、生きていかなければならないから、かろうじて言葉は覚えたのだ。  サリカン人は、パルゼ出身者にしてみれば不思議な人々で、大昔からの森の子族との約束を守り、森を勝手に開墾することを禁じている。それが、村人達の不満だった。自分達が生活に使う木も計画的に育て、そこからしか切ったらいけない決まりになっている。定期的に役人がやってきて確認するので、盗伐(とうばつ)もできない。 「もっと、木を切って開拓したらいい。そうしたら、俺達はもっと豊かになれる。豊かになれないのは、サリカン人と森の子族が木を切らせて開拓させないからだ。」  村人達が集まって飲めば、必ず話題になる話だ。だが、実際には開拓されて いない土地はたくさんあった。 「もし、この村にサリカン人がやってきたら、どうする?」 「ご領主さまの息子でも娘でも関係ねえ。たっぷり遊んで頂いてお返しするさ。」  パルゼ王国が貧しかったせいか、パルゼ人達は男にも女にも手が早いことで有名だ。だから、娘達に手を出させないジリナは、この村にあって特殊な存在だし、村の常識に当てはまらない変な女なのだ。  そんな地域に、こんなに整った顔の少年がいる。たっぷり眺めてしまってから、大丈夫か聞いてきたこの少年が、領主の別荘に住むことになった気が狂っているという王子様なのだ、と気がついた。だけど、なぜかは忘れてしまったが、王子様と言ってはいけないことになっている。事前に村人に注意があった。 「…え?」  思わずセリナが変な声を出すと、少年はにっこりした。彼が笑うだけで、辺りが一気に華やいだような気がした。 「ね、大丈夫?どこか、怪我はない?」  ようやく意味がセリナの頭に届いた。耳もなまりのない言葉に少し慣れたせいだろう。 「え、ええ、だい、大丈夫、です。」  セリナは慌てて立ち上がった。 「良かった。危なかったね。そしたら、早くこの子馬を起こしてあげよう。」  セリナは首を(かし)げた。 「これ、子馬じゃなくて、ロバですよ。」  思わず訂正してしまう。少年は目をまん丸にしてから、照れ笑いをした。 「そうか、そうだったのか。だから、馬にしては耳が長いなって。私、ロバを初めて見たよ。」 「でも、馬鹿じゃないですからね。」  言ってしまってから、しまったと思うが遅い。今度は少年が首を傾げる。 「馬鹿ってどうして?私はこの子が馬鹿だなんて言ってないよ。」  パルゼ王国ではなぜか、ロバみたいなヤツだと言うと、頭が弱い馬鹿なヤツという意味である。だから、この村でもロバはそういう意味で使う。 「それとも、私がロバを知らなかったから、馬鹿にしているの?」  セリナは焦った。 「あ、あの、違うんです。ここら辺ではロバみたいなっていうと、人を馬鹿にする意味で使うんです。頭が悪いとか。でも、実際のロバは賢いので、いつも、わたしが勝手に腹を立てていたから、つい、そんな言葉が。」  すると、少年は納得したようだった。 「なんだ、そういうことか。びっくりした。急にそんなことを言われたから。」 「ご、ごめんなさい。」 「いいよ、気にしてない。それより、早くこの子を起こしてあげよう。」  少年がロバのクーに近づいて鞍に触ろうとしたので、慌ててセリナは止めた。 「待って。鞍の革紐が切れたので、まずは穀物を降ろして、それからです。」  少年はセリナより確実に、二つ三つは年下のようだ。セリナを見上げて、(うなず)いた。まだ、少しだけセリナの方が背が高い。 「この麻袋には穀物が入っているんだね。」 「ええ。」 「手伝うよ。麻縄は切ったらだめだよね?」 「もちろん。わたしが縄をほどくので…えーと、若様はそこに袋を積んで下さい。」  やる気満々なので、手伝ってもらうことにした。ジリナの厳しい教育のおかげか、若様という言葉もすんなり出てきて、内心でセリナはほっとした。 「え、地面に積んでいいの?食べ物なのに。」  セリナはその言葉の方に(おどろ)いた。そして、本当に育ちがいいのだと思う。しかも、どこが気が狂っているのか、今のところ全く分からない。狂っているどころか、素直で可愛い性格だ。 「大丈夫ですよ。それに、穀物はみんな外で育っているんですよ。地面に落ちた物も、私達は拾って袋に詰めてますから。」 「そうなのか…!でも、考えてみればそうだね。じゃあ、ここに置くよ。」  王子様だろうと思われる若様は、麻袋を順番にセリナから受け取って積み重ねた。そうしておいて、ようやくロバを起こした。 「この子、怪我してない?」  若様が聞いてくる。 「そうですね。大丈夫みたい。」  セリナは言いながら、困り果てた。金具に通している革紐が切れてしまって、繋ぐこともできない。何か代用品になる物はないか、探してみるが見つからない。 「何を探してるの?」  若様が不思議そうに尋ねる。 「何か、紐状の物を持っていませんか?ここに通せる太さの物が必要なんですが、麻紐じゃ太すぎるし、すぐに切れてしまうし。」  セリナは切れた革紐同士を結べないかためしながら、答えた。若様がじっとセリナの手元を見ている視線を感じたが、素知らぬふりをした。 「!あ、ちょうどいい物があるよ。」  突然、彼は言って何か動いたので、セリナは振り返った。ちょうど、若様が髪紐をほどいた所だった。美しい朱色がかった夕日のような赤い髪の毛が、きらきらと日の光を反射しながら背中に流れ落ちていった。思わず、セリナは息を呑んだ。性別を超えた美しさがあるのだと、この時、初めてセリナは知った。たとえ、彼が同性の少女だったとしても、同じように息すら止めてみとれたに違いない。 「はい。これを使って。」  彼はおしげもなく、いかにも上等そうな髪紐を差し出した。 「……。だ、だめですよ、そんな上等な物を使えません!」  一瞬、意味を理解できず、理解してからセリナは慌てて答えた。 「でも、困ってるんでしょ。これだと麻紐みたいに太くないし、細い皮を編んで作ってあるから丈夫だよ。」 「…で、ですが。」  セリナは困り果てた。確かにそのようだ。でも、革をこんなに染めて加工するのは時間がかかる。かなり上等な代物だろうと考えがつくので、素直に受け取れない。 「やはり、高価すぎます。お気持ちだけ受け取らせて頂きます。」  セリナが受け取ろうとしないので、彼は残念そうに手の髪紐を見つめた。そんな顔をされると、セリナの胸がズキリと痛む。 「!そうだ、人を呼んでくるよ。君はここで待ってて。」  若様が思いついて走り出そうとしたので、思わずセリナは手をつかんで引き止めた。 「待った!…どこに行くんですか?」  彼は不思議そうにセリナを見返した。 「もちろん、君の住んでる村だよ。村に行って人を呼んで来ようと思って。」 「だ、だめです!」  セリナは急いでその考えを却下した。あまりに慌てたため、怒鳴ってしまった。やはり、彼はびっくりして目を丸くしている。 「ごめんなさい、お気持ちは嬉しいですが、やはり、だめです。」  そう、そんな可愛らしい姿の若様がたった一人で村に行ったら、どうなるか目に見えている。男装の美少女にしか見えない。大変、危険だ。 「…どうして?」  若様は少し傷ついたような表情で聞き返した。 (そんな顔をしないで…!)  セリナは心の中で悲鳴を上げる。心臓が勝手にドキドキしてくる。 「ど、どうしてって…危ないからです。」  きょとん、と若様は首を傾げる。愛らしい仕草に、セリナは彼を抱きしめたい衝動に駆られた。かろうじて理性がセリナを引き止める。  その時、人の気配に二人は振り返った。近くで隠れて様子を見ていた村の若者達だ。農閑期で仕事がなく、ふらふら仲間とつるんでいたのだろう。セリナは青ざめた。相手は五人。みんな顔を紅潮させている。理由はセリナと同じだ。その若様の愛らしい色気に当てられたのだ。 「よう、べっぴんさん。」 「誰?村の人?」  若様はセリナを振り返った。 「…ええ、でも。」 「よかったね。」  セリナが言い終わる前に、若様の顔がぱあっと喜色に溢れた。 (え?何が?) 「村に人を呼びに行かなくていいよ。」  セリナは頭を石で打ち付けられたような気がした。育ちが違いすぎる。やっかいごとが増しただけだと分かっていない。それは若者達も同じ感想を持ったようだ。一瞬、ぽかんとした後、にやにやした笑いを浮かべる。 「俺達が手伝ってやるぜ。」  一人がにやにやしながら近づき、若様の肩に手をかけようとする。セリナが動く前にことは起こった。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。  気がつけば、若様の足下に若者が転がっている。 「私の後ろから近づかないで。危ないよ。刺客に対処するように訓練されてるから、考える前に動いちゃうんだ。」  にこやかに物騒なことを口にした。 「し、しかく?」 「しかくって何だ?」  若者達は目の前で起こったできごとに驚き、言葉の意味も知らなかったので、聞き返した。 「うーん、そうだね、分かりやすく言ったら、こっそり人を殺すために送られてくる人のことだよ。大抵は訓練を受けているから、とても強いよ。」  若様は大真面目に若者の質問に答える。だが、その真面目さがかえって恐怖をあおった。 「じゃ、じゃあ、お前、そのしかくってのに狙われてんのに、うろついてんか!?」  一人、気が利く若者がすっとんきょうな声で叫んだ。 「大丈夫だよ、今はいない。それに、私は屋敷にいるから、たまにはいない方が刺客の裏をかけるし、それに何より、ずっと閉じ込められている方がうんざりするもん。気晴らしに外に出ないとね。」  若様はうん、と頷いた。細い絹糸のような手入れされた髪が風になびき、どう見ても美しい少女のようにしか見えない。
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