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「若様…!」
その時、道の向こうから、張りのある男の声が聞こえた。見ると、別荘のある方向からやってきた。
「フォーリ。見つかっちゃった。」
若様はへへへ、と笑う。
「見つかっちゃったじゃ、ありません。お一人でお出かけなさらないように、何度もお伝えしたはずですが。」
護衛らしいフォーリと呼ばれた男は、二十代後半くらいだろうと思われる。彼も髪を馬のしっぽのように結んでいる。ややあって、後ろから数人の馬のしっぽの集団がやってきた。彼らも若様の護衛らしい。全員、制服らしい同じ服を着て帯剣している。それだけで、田舎の村では物珍しく威圧感があった。
「帰りましょう、若様。」
注意をした後、フォーリは若様を促した。
「ちょっと待って。これを直して欲しいんだ。この人のロバの鞍の革紐が切れてしまって、あやうくロバの下敷きになる所だったんだよ。」
若様はフォーリをロバの所まで引っ張って来ると、突っ立っているセリナの横に来た。フォーリは背も高く、帯剣している。地味だが結構、上等そうな服を着ているし、帯の間に扇子を挟んでいた。その上にマントを羽織っている。
「ほら、ここ。だから、この髪紐を使うように言ったんだけど、上等な物は受け取れないって。」
「それで、髪を下ろしていたのですね。」
フォーリは鞍を見ながら頷いた。
「若様。その娘さんの言うとおり、この髪紐は使えません。切れてしまいます。ですから、髪を結び直しましょう。」
フォーリが言うと、若様は素直に後ろを向いた。フォーリは懐から櫛を出し、手早く丁寧に若様の髪を梳いてまとめ、綺麗に結い上げて髪を結んだ。朱色がかった夕日のような赤い髪が馬のしっぽのように跳ねる。
その様子を不思議な気分で、セリナと村の若者達は見つめていた。ただ、髪を結んで貰っているだけなのに、見てはいけないものを見ているような、それでいて目を離せない、何か妙な背徳感があった。
「痛くないですか?」
「うん、平気。ありがとう、フォーリ。それで、その鞍なんだけど。」
セリナより、若様の方が鞍にこだわっている。
「これを使ったらどうですか?」
埒があかないと思ったのか、一人の兵士が進み出た。
「私の靴紐ですが、後でなんとかなるので。」
フォーリはそれを受け取ると、その兵士も手伝って手早く直した。さらに、他にほつれている所を見つけたフォーリは、帯の間から革製の道具入れらしき物を取り出した。
セリナと村の若者は一斉に驚く。裁縫道具だった。きれいにそのほつれまで直した。
なんでもできるんだな、この人。そんな思いがみんなの表情に出ている。
「これでいいでしょう。」
「さすが、フォーリだね。しっかり直ってる。」
若様とフォーリの視線を受けて、ぽかんとしていたセリナは、はっとして慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございました。ほんとうに助かりました…!こいつらもどうせ役に立たないし、本当にありがたいです。」
セリナは一気に言って、ふうっと息を吐いた。この時、言うなれば、虎のしっぽを触ったことに全く気がつかなかった。
「……。」
フォーリはセリナの言葉で、村の若者達を眺めた。その視線につられて、セリナも横を向く。一人は若様に投げられて地面に転がった後、そのまま地面に座り込んでいた。
「…お前達は一体、そこで何をしている?」
え、と村の若者達は戸惑った。だが、素直には言いにくい。
「おしおきしてたんだよ。彼女に手を出そうとしてたから。」
その時、えっへん、と胸を張って若様が答えた。
「若様が、ですか?」
フォーリがいささか驚いた様子で聞き返す。
「うん。」
セリナと村の若者達は顔を見合わせた。
(…この若様、何を言ってるの?やっぱり気が狂っているって話、本当なのかしら。)
「だって、べっぴんさんとか言って笑いながら近づくから。」
セリナと若者達は目が点になった。何か、この若様はきっと勘違いしている。セリナと若者達の困惑の表情を観察していたフォーリは、なんとなく事情が読めた。
「誰に呼びかけていたのですか?」
フォーリの確認に若様はセリナを手で示した。
「この人だよ。だって、“べっぴんさん”って美しい女性に対して言う呼びかけでしょう?」
思わずセリナをはじめ、若者達は吹き出した。
「え?違う?」
若様は少し恥ずかしそうに頬を紅潮させて、困惑した表情を浮かべた。
「違う、違う。あんただよ。」
「男の格好してる女なんだろ。」
「男だっていうことになってるけど、ほんとは女なんじゃねえの。」
「大体、セリナには手を出せねえ。」
「そうよねえ、わたしの母さん、鬼のように怖いからね。」
「そうそう。あそこ切られたらたまんねえ。」
「しかも、その後、犬に食わせたしな。」
「そうよね、勇気のあるヤツなんかいないわよね、あそこ切られて犬に食わせられるんだからね。」
彼らは嘘をつかないと身を守れないことがあるとは、想像もしていなかった。そもそも、田舎者のいなかっぺである。お互いに対立していることがあると言っても、基本的に嘘はつかなかった。ついても、お互いによく知っている者同士、すぐにばれて意味がない。それ故、嘘をつけなかったし、つく習慣はなかった。
さっき、セリナが触ってしまった虎のしっぽを、踏みつけてぐりぐり回している状態だとは思いもしていなかった。
話が分かったフォーリは眉根を寄せた。それ以外の兵士達は、はあ?と顔が引きつる。そこに場違いな質問がされた。
「フォーリ、あそこって何のこと?その代名詞は何かの隠喩なの?」
まるで、勉強の分からない所を質問するかのように、若様が無邪気に尋ねた。本当に育ちが違うんだと、その場にいたほとんどの人間は目を丸くした。大体、若者達は隠喩の意味の方が分からない。ただ一人、フォーリの表情だけが変わらなかった。
「若様、それについては後で私がお教えいたします。それよりも、少し後ろにお下がり下さい。」
フォーリは若様を自分の後ろに下がらせると、若者達の前に立った。周りの兵士達に緊張が走る。その瞬間、空気が変わった。
「…つまり、話をまとめると、お前達は若様に欲情し、ちょっかいを出そうとしたということだな?」
先ほどまでと声の調子が違う。言葉と同時に放たれる殺気に、セリナは息を止めた。恐い。体が勝手に震え出す。ロバの鞍にしがみついた。逃げようと思っても体が動かない。
「どうなんだ?」
静かだが有無を言わさぬ断固とした声に、若者達はひっと息を呑んで震えた。二人は腰を抜かし、一人は失禁した。
「誰も否定をしないということは、事実だということだな。」
フォーリが扇子を抜いて広げた。パンッという聞いたことのない音が響く。
「事実だと認めたということで、いいんだな、お前達。」
フォーリが一歩踏み出した。
「やめろ、フォーリ…!」
誰かが制止した。若様の声だと分からなかった。さっきまでのほんわかした雰囲気とまるで違う、凜とした声だ。
「私は勘違いをしていたが、手を出されたわけではない。」
「ですが、若様。」
「フォーリ。私は大丈夫だ。それにこれ以上、脅す必要はない。」
フォーリの扇子を握る右手を、若様が上から抑えた。
「若様、私は脅したわけではありません。」
「分かってる。フォーリが本気だったことは。本気でこの人達を殺すつもりだったから、止めに入った。そうでなければ、止める必要は無い。」
さっきまでは、年齢の割に幼い話し方をしていたのに、今は年齢の割に大人びた話し方をしている。
フォーリは若様の強い視線を受けて、ため息をつき、分かりましたと扇子を畳んで帯に挟んだ。パシッパシッという気持ちのいい音を立てながら、扇子が畳まれて、帯にシュッと挟まれる。全ての動きに無駄がない。
フォーリから放たれる殺気が消え、セリナも若者達も大きく息を吐いた。生まれて初めて殺気を受け、それが殺気だと誰も知らなかった。若者の数人が地面に吐いている。
セリナはかろうじて吐くのを我慢したが、ふらついて後ろに倒れかかる。一番近くにいた、ふらつく原因のフォーリが支えてくれた。
「ご、ごめんなさい。」
セリナは半泣きで謝ると、鞍にしがみついた。
「ねえ、大丈夫?」
また、さっきのふんわりした雰囲気に戻った若様が、聞いてきた。
「え、ええ、大丈夫です。」
若様はなぜか、じっとセリナを見つめた。
「ねえ、君。名前はなんて言うの?君はやっぱり、べっぴんさんだって私は思うけど。」
セリナは何を言い出すんだろうと、若様を凝視した。今、言っていい話じゃないと思う、決して…!だが、若様はにこやかに続けた。
「だって、私が会った村人の中で、君が一番、綺麗だよ。」
セリナは目を丸くして、若様を見つめた。生まれて初めて言われた言葉だった。彼が意図して、セリナの心を掴もうとしているわけではなないと分かる。素直に言っているだけだと分かるから、余計に心を掴まれた。まっすぐにセリナに目を向けて、はっきりと告げる。
「君も屋敷で働いたらいいよ。時間があるときでいいから、君と話をしたいんだ。」
げーげー吐いていた若者達も、ことの成り行きに目を丸くしている。
「それじゃ、また明日。待ってるからね。」
フォーリは兵士にセリナに名前を聞くように指示をし、若様と共に去って行った。
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