噛む男

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男は足を止めた。見上げると、澄み渡った空には雲ひとつない。真夏の陽射しが容赦なく照りつける。男は眩しさにたまらず目を細めた。 「暑いな」 独り言を吐いた。男は再び歩き始めた。 「カムムラさんですね?」 背後からの女の声に反応し、男は足を止めて振り向いた。紺色のスーツに身を包んだ若い女が黄金色の太陽を背にして立ちはだかっていた。女は若い。男は女を二十歳と見た。女は明らかに警戒して身構えながら、男を真っ直ぐ見据えている。 警察――に違いなかった。 来るべきものがついに来たのだ。男は半歩ほど後退りながら含み笑いした。 「むほほ。いかにも私はカムムラだが。貴女は何者なのですかな?」 「警察です」 女は警察手帳を掲げて見せた。 「警察がいったいなんの用なのかな?」 「身におぼえがあるのでは?」 女は警察手帳を閉じて懐にしまった。 「むほほ。身におぼえがあるかないかはともかくとして。貴女の身分証をもう一度見せていただきたいのです。むほほほ」 男は笑い、三日月を逆さにしたような目を爛々と光らせた。女はため息しつつも、警察手帳を再び掲げて見せた。 「よく見えない。もっとしっかり見せていただきたいものですな。むほほ」 男は相変わらず含み笑いしている。女は警察手帳を男の鼻先に突きつけた。 「あっ!」 異変。それはあまりに唐突過ぎた。女はこの瞬間を、きっと死ぬまで忘却できぬであろう。 噛みついたのだった。男はなにを思ったか、女の警察手帳に噛みついたのだ。 「むほほ。大事なものに歯形をつけられた気分はいかがですかな。むほほほほほ!」 男は高笑いしながら跳躍し、人とは思えぬ速さで遁走して通りの向こうへと消え失せた。
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